ゲーテの死
少しして、ディートリヒシュタインが訪れると、プリンスは、ぐったりと、背もたれに凭れかかっていた。
前に会ったときより、一層、プリンスは、痩せてみじめに見えた。
「プリンス……」
教え子の、力ない姿に、ディートリヒシュタインは、絶句した。
ついさっき、付き人のスタンから、皇族方が訪れたと聞いたばかりだった。
その時プリンスは、とても元気で、楽しげだった、とも。
また、自分を隠し、健康を装ったのだ。
大叔父達や、優しい叔母の前でさえ。
結果、力を使い果たしてしまっている。
ディートリヒシュタインは、たまらなくなった。
「プリンス。あなたを、軍隊になんか、入れなければよかった。あなたは、名誉だけの大佐(実戦に出ない大佐)に任命すべきだと、もっと声を大にして、皇帝に申し上げればよかった。軍の訓練なんて、やらせなければよかったのだ!」
血を吐くような思いで、ディートリヒシュタインは叫んだ。
「あなたは、お体が弱いのです。寒い日の訓練なんて、参加してはいけなかったのだ。体力を奪う訓練も。軍の訓練なんて、馬鹿げています。軍には、あなたをお諌め申し上げる者はいなかったのか。だって、あなたはまだ、ほんの、子どもじゃないか……」
最後の方は、涙ぐんでしまっていた。
「僕のこの病は、もう、治らない気がします」
掠れた声で、プリンスがつぶやいた。
「プリンス!」
ディートリヒシュタインは叫んだ。
動転していた。
「また、私をからかおうとしているんでしょう? 間違いない! そんな風におっしゃって、我々が慌てるのを見て、楽しもうとなさってるんだ。子どもの頃のように。だって、プリンス、あなたはまだ、若い。治らないわけがない」
プリンスは微笑んだ。
「ええ、きっと。……イシュルの温泉か……もっとずっと暖かい所へ行ったら」
暖かいところ……。
イタリアだ。陽光少ないウィーンの人々の、憧れの南国だ。
夢見るように、プリンスは付け加えた。
「僕は、ナポリへ行きたい……」
確かに、ナポリなら、申し分ない。穏やかな気候と乾いた海風は、プリンスの喉や呼吸器に、よい影響を与えるだろう。
暖かい希望の風を、ディートリヒシュタインは感じた。
だが、メッテルニヒが許すだろうか。
イタリアの騒乱は、今のところ、治まっている。しかし、プリンスは、ナポレオンの息子だ。その彼が、イタリアへなど行ったら、再び半島は、大混乱になる。
……なんとか。
……なんとかして差し上げたい。
強く、ディートリヒシュタインは、そう思った。
*
ライヒシュタット公の誕生日の、2日後のことだ。
午前9時頃、ドイツ、ワイマール公国のある家の、重い鎧戸が開けられた。
人の動きが、慌ただしくなった。
11時半ごろ、中から、悲しげな泣き声が聞こえてきた。
早くも喪の気配を漂わせた家から、二人の男が出てきた。
大変な老人と、黒ずくめの服装をした男である。
何事か語らいながら、二人は、ゆっくりと通りを歩いていく。
すれ違う人々は、二人のことを、気にもとめない。まるで、彼らの姿が、見えていないかのように。
老人に向けて、黒服の男が、何やら述べ立てている。
「ひとつだけ、あんたに、恨み言を言いたい。なぜ、楽聖の死に、沈黙を守った? テプリッツで肝胆相照らして以来、二人は、親友だった筈だろ?(※3章「メフィストの誘惑」参照下さい) 曲を送っても手紙を出しても、一向に返事のないあんたを、楽聖は、ひどく心配していたぞ。死の床まで、彼は、あんたからの連絡を、待ち望んでいた」
「私は、あの男が好きだったのだよ。あの無頼で頑なな男が」
老人はため息をついた。
「死は、人の顔をも変えてしまう。私は、傲岸だったあの男の顔を、冷たく悲しい、死の記憶で覆いたくなかったのだ」
「ふん」
「なんだ。信じてくれないのか?」
「信じるよ。あんたは、あれほど恩のあったワイマール公の死の床へも、駆けつけなかったからな。50年以上も仕えてきたというのに」
老人は、肩を竦めた。
「それにしても、ナポレオンの息子を、魔王に? ベートーヴェンも、何を考えていたのか」
「偉大なる芸術家の考えることは、凡人を遥かに凌駕している」
黒服の男が答えた。赤い口が、耳まで裂けている。耳は、ひどく尖っていた。
「だが、ここに、重大な疑義が提出された」
「疑義?」
「あの子は、自ら死を選ぼうとしている。そのような人間に、魔王たるべき資格はない」
「確かに、自ら死を選ぶ人間は、究極、優しいからなあ」
「魔王は、人類を破滅へ導く存在だ。優しくては、困るのだ」
老人は首を傾げた。
「彼が、自ら死を選びつつあるという、証拠でもあるのか?」
「あの子は、知っている。このままいったら、自分は死ぬと。それほどの疲労を抱え、なおかつ、軍務を全うしようとする。父親と同じ道を行こうと無理を重ねる。現状を改めねば、確実に、彼は、死ぬ。命という蝋燭が、一刻も早く燃え尽きるように、両端から火を点けているようなものだ。これは、自殺だ」
「ふむ」
「人喰い鬼の子は、父の犯した罪により、永遠の牢獄に囚えられている。母は彼を裏切り、父であった帝王の期待は、彼には実行不可能だ。ようやくできた友を奪われ、憧れの戦争にも行かせてもらえない。絶望した小鬼は、今、自ら、死を選びつつあるのだ。緩慢な死を!」
老人は、ため息をついた。
「何もさせてもらえずに、閉じ込められたまま、若くして死ぬ……。苦しかろうな。辛かろうな」
「親の罪を引き受ける者が必要だ。民衆の幸せの、犠牲になる者が必要だ」
「むごいことだ」
「彼は、美しい青年に育った。その魂を、完璧に無垢なままに保って。酒にも女にも、この世のあらゆる享楽に溺れることなく。全く、稀有なことだ。ある意味、理解し難い」
黒服の男が唸ると、老人も頷いた。
「祖父にそむいて、悪事を働くこともなかった。彼を裏切った母親さえ、恨むことをしなかった。父の名を汚すことを、断固として拒絶した。ふたつの国の真ん中で、悩み、惑い、それでも、気高さを失わなかった」
「そんな彼を追い詰めるのは、どんなにか楽しかろう。考えるだに、血が沸騰するようだ。だが、残念ながら、それは、俺の役目ではない。彼のことを、喉に刺さった棘と、ぱっくり開いた傷口と、認識しているやつがいるからな」
「ああ……有名な話だ」
老人は、深い吐息を吐いた。
黒服の男は、にやりと笑った。
「俺はただ、追い詰められた果てに、彼が、自死してくれるのを待てばいい」
赤い舌で、ぺろりと、唇を舐めた。
「どんなに美味かろうな。汚れのない、純真な魂は」
「死は、救済でもあるという」
老人がつぶやいた。
「今、私の苦しみは去った。リウマチの苦痛も、足腰肩の痺れも消えた。焼け付くような胸の痛みも、いつの間にかなくなっている」
言葉とともに、老人の姿が、みるみる若返っていく。
「ああ。なんて、軽やかで、明るいんだ。世界は、光で輝いている。なるほど、死は救済だ」
辺りは、春の光に満ち満ちていた。踊るような足取りで、さっきまで老人だった男は、歩いていく。傍らを、黒服の男が、蹌踉として付き従う。
通りの端まできた。
ふっと、二人の姿は、かき消えた。
1832年3月22日。ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ、没。最後まで、「ファウスト」推敲に取り組んでいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます