「誤診」?
馬車の車輪が壊れたのが、ペッリコのせいだとは、マルファッティは、夢にも思わなかった。
ちょうどそのころ、マルファッティは、悩んでいた。
ライヒシュタット公の病は、明らかに結核だ。
だが、マルファッティには、結核と診断することができなかった。病名を隠すよう、
肝臓や肌、ひいては、カタルや季節の不調まで出して、医師は、結核を隠してきた。
だが、この「誤診」が知れたら、町医者としてのマルファッティの評判は、地に落ちる。
そこへ、ペッリコがやってきた。
カルボナリの残党である彼は、オーストリアを警戒していた。プリンスが、イタリアへ、オーストリア軍を連れてくることを、恐れていた。
ライヒシュタット公暗殺を、彼は、目論んでいた。
……もし、今ここで、ライヒシュタット公が死んだら。
……病気ではなく、「事故」で。
マルファッティの「誤診」は、うやむやなまま、終わるだろう。
そんな計算が、医師の胸に働いた。
彼は、ペッリコの頼みを聞き入れた。ライヒシュタット家の馬丁に宛てて、紹介状を書いた。
厩舎で、ペッリコは、何をしたのか。
彼が何をしても、マルファッティに累が及ぶことはなかったろう。マルファッティは、カルボナリの、大切な資金源だ。
半面、おそらく、ペッリコは、何もしなかったと、マルファッティは思う。
あれから、3ヶ月近く経つ。その間、何の問題も起きなかった。ライヒシュタット公が、「事故」に遭うことはなかった。
マルファッティは、紹介状を書いたことを忘れた。ペッリコの存在さえも、頭から消えつつあった。
それどころではなかった。
……また、一段と、病状が悪化した。
……このままいったら、ライヒシュタット公は、すぐにでも死んでしまうだろう。
……できることなら、プリンスを助けてやりたい。
一瞬とはいえ、彼の「事故死」を望んだことを、けろりと忘却し、マルファッティは切望した。
基本的に、
だが、肝心のプリンスが……。
……どうして彼は、
……寒い日、特に湿気の強い日の外出は、体に悪いと、あれほど言ったではないか。
夜間の外出を勧めたのが、自分自身であったことさえ、マルファッティは、忘却していた。
年明けこの方、プリンスは、何度か、喀血している。激しい咳も続いている。このまま外出を続けたら、彼が結核であることは、ウィーン中に知れ渡ってしまうだろう。
控えめにマルファッティは、胸の病の可能性を打ち出した。しかし、昨年の秋から続いている熱が再発した可能性の方が高い、と述べることを忘れなかった。
……これからは、胸と肝臓の鬱血に、注意を向ける必要がある。
用心深く、医師は、報告書に付け加えた。
*
……プリンスの顔色は、ひどかった。
宮殿の、通い慣れた長い廊下を歩きながら、ディートリヒシュタインは考えた。
……咳もひどい。しょっちゅう、咳き込んでいる。特に、夜の咳が、絶え間ない。
依然として、教え子は、一人でいたがった。
……彼が孤独を好むのは、悲しいからだ。
やりきれなさに、ディートリヒシュタイン自身、その場に倒れ伏してしまいたい気持ちだった。
……「僕のこの病は、もう、治らない気がします」
プリンスが、あんな弱音を吐くなんて!
不吉な予感に、ディートリヒシュタインは震えた。
ディートリヒシュタインは、自分の子どもを3人、失っている。だから、プリンスが具合が悪くなるたびに、いつも、ことのほか、心配した。
……急に背が伸びたからなあ。それなのに、体の厚みが足りないんだ。そのせいで、胸が拡がらなかったのだ。だから、咳ばかりして……。彼は、呼吸器が弱いのだ。
胸や肺について、マルファッティが指摘しないのは、おかしな話だった。
だいたい、マルファッティは、患者に、制限を設けなさすぎる。軍務以外は、普通の生活をすることを許してしまった。
夜間の外出や、タバコ(憤りを込めて、ディトリヒシュタインは思った)まで、許可したのだ!
もう、マルファッティの言うことを信じるのはやめようと、ディートリヒシュタインは思った。
……肺の病なら。
転地療法が必要だ。プリンスの言うように、暖かいイタリアへの……。
その時、向こうから、賑やかな声が聞こえた。
小さな女の子の笑い声も、響いてくる。
「あら!」
苦虫を噛み潰したような顔のディートリヒシュタインに気がついたのは、皇帝の息女、マリア・クレメンティーネだった。
プリンスには、叔母にあたる。
「ディートリヒシュタイン伯爵! 伯爵も、フランツのところへ?」
「ええ」
短くディートリヒシュタインは答えた。
「少し具合がよくなったそうで、私達は、遅ればせながら、お誕生日のお祝いを言いに行くところなんですよ!」
クレメンティーネは言った。
「あの幼かった子が、もう、21歳ですって!」
サレルノ公レオポルトが、にやにや笑っている。クレメンティーネの夫だ。
「ねえ、先生、覚えてます? 初めてのダンスの発表会の時、あいつ、転んだでしょう。アントンが声を掛けたら、こう、ばったりと! 自力で起き上がったときの、あの、真っ赤な顔ったら!」
(※2章「だって恥ずかしいんだもん!」、参照下さい)
「あなた、よく、やりこめられていたわよね」
意地悪い顔をして、妻が口を出す。
「動物園のライオンに乗ってみろ、って、あなた、意地悪言ったでしょ」
「それも、アントンだ」
「あなたも一緒だったわ。そしたらフランツに、おじさんが先に乗ってみせてくれたら、僕も乗ります、なんて、言い負かされて」
「お前、そこまで覚えてたのか……」
「覚えてますとも」
「でもね、先生。僕は、先生方の教育に協力的だったんですよ。自ら金を出して……、」
言いかけた
「あら、先生方は、体罰はなさらなかったわ。それなのにあなた、黄金の鞭を買ってきてやろうか、なんて言って、フランツをいじめてたわよね」
「だって、からかうとかわいくて、」
「レオポルト大公」
いつ果てることもなさそうな、夫婦の会話に、ディートリヒシュタインは割って入った。
二人の娘、マリア・カロリーナは、とっくに、走っていってしまった。廊下の向こうから、楽しげな歌声が流れてくる。
小さな背中を見送りながら、ディートリヒシュタインは尋ねた。
「両シチリアの国王は、大公殿下の、甥御さんでしたよね」
「そうだよ。フェルディナンド2世は、兄の息子だ」
「実は、お願いがあるのです」
「お願い? 伯爵が?」
厳しくいかついディートリヒシュタインの顔を、レオポルト大公は眺めた。
大公は、少し怯えていた。
「プリンスを、ナポリへ療養にやりたいのです」
具合の悪いプリンスと、その希望を、ディートリヒシュタインは語った。
マルファッティ医師への疑問も。
「肺病……」
レオポルトは絶句した。
「確かにあの子は、我々の前で、無理をする。それは、わかっていた。だから、私と妻は、彼の具合がよくなるまで、誕生祝いを遅らせたのだ。しかし、まさか……」
「イタリアへ行くなど、メッテルニヒが許さないでしょう。しかし、プリンスご自身が行きたがっているのです。ナポリには、プリンスの友人2人もいる。……その、……」
「ああ、モーリツ・エステルハージと、グスタフ・ナイペルクですね! 2人とも、左遷されたんでしたっけね」
訳知り顔に、レオポルトは頷いた。
「あなた……」
妻のクレメンティーネが、夫の肘をつついた。
「前にあなた、言ってたわよね。フランツにひどいことを言ってしまった、と……」
夫が、はっとしたように妻を見た。
すぐに、ディートリヒシュタインに向き直る。
「わかりました。私は、フランツの味方です」
力強く、レオポルトは受けあった。
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