試練の時
ナポレオンは、自分の部屋に、仕事関係以外の人間を入れることを嫌った。ジョセフィーヌでさえ、入室を許さなかった。
新しい妃、マリー・ルイーゼは、ちょっとだけ、入ることを許された。だが、長居はさせなかった。
一人だけ、入室を許可されたのは、息子のローマ王だった。
食事の時と同じく、子どもを膝に載せ、ナポレオンは執務をした。書類にサインをし、公文書の文面を練る。
膝の上のローマ王は、玩具の兵隊で遊んでいた。それに飽きると、身を乗り出して、机の上をかき回そうとする。子どもに破かれてもいいように、デスクの手前には、いらない紙が積まれていた。
「ちっとばかし、あいつらを援助してやろうか」
生真面目に口述筆記をしていた秘書のメヌヴァルは、突然文脈が乱れたので、驚いて顔を上げた。
幼いローマ王が、父の手にした嘆願書に向けて手を伸ばしていた。小さなその手に書類を渡しながら、ナポレオンはつぶやいた。
「忙しくなるぞ、相棒」
*
その年の9月、ナポレオンは、ブーローニュ(ドーヴァー海峡に面する。フランス領)へ出かけていった。500日以上一緒に過ごして、初めて、夫婦は離れて暮らした。
ナポレオンの視察は、トラファルガーの海戦の雪辱の為、アイルランドに叛乱を起こさせるよう目論んだ、と言われている。
だが、荒れ狂う海を見て、すぐにこの考えを捨てた。ナポレオンは、は東に向けて出発した。
9月末、ナポレオンと合流するため、今度はマリー・ルイーゼが、オランダのアントワープへ向けて旅立った。
*
ローマ王は、生後半年を迎えていた。
この、かわいい時期に、よく、子どもを置いていけると、モンテスキュー伯爵夫人シャルロットは思った。自分なら、頼まれてもいやだ。
彼女はもう、幼いプリンスに、めろめろだった。
片時も離れず、共に暮らした。
とはいえ、この期間は、ローマ王にとっては、試練の時だった。歯が生え始めたのだ。それも、前歯ではなく、奥歯が4本。彼は、不機嫌になった。どうやら、痛みを伴うらしかった。
「どうしようもないよ。こればかりはね」
医師のコルヴィサールは言って、プリンスを抱き上げた。
赤ん坊は、怒り、半泣きになってシャルロットに手を伸ばした。
「おやおや」
医師はつぶやいて、シャルロットに子どもを手渡した。
「あんまりバロネスに懐くのもね。母親に寄り付かなくなっちまう」
「プリンスは、お母様が大好きです」
きっぱりと、シャルロットは断言した。
ローマ王が母親に懐くよう、シャルロットも努力していた。
マリー・ルイーゼはよく、馬車で気晴らしに出かけた。彼女の帰宅に合わせて、シャルロットは子どもと共に、テラスに出た。
馬車から降りてきた皇妃の頬は、バラ色に輝いていた。
ローマ王は、つかまり立ちができた頃だった。テラスの柵につかまり、危うげに立っている。
「ほら、お母様のお帰りですよ」
シャルロットは小声で囁き、小さな片手をそっと、柵から外した。こちらに向かって歩いてくる母親に見えるよう、手首を握って振らせた。
子どもは、母親の姿を認め、にたあーっ、と笑った。赤ん坊に特有の笑顔だ。口の端から、つーっ、と涎が落ちた。
皇妃は駆け寄って来なかった。ただ、息子に向けて、頷いてみせた。大きな帽子の縁が揺れ、彼女の顔を隠した。
プリンスの顔がひきつった。次の瞬間、彼は、火が点いたように泣き始めた。
「まあ! 皇妃様がお帰りなのに、ローマ王を泣かせるなんて! ひどいお世話係ね!」
後から馬車を降りてきたモンテベッロ公爵夫人が、憤慨したように叫んだ。
そのモンテベッロ公爵夫人を伴って、皇妃は、アントワープへ出かけていた。そろそろ皇帝と合流できた頃だ。
この頃、モンテベッロ公爵夫人の皇妃への接し方は、目に余るものがある、と、シャルロットは思った。皇妃の時間の大部分が、彼女とのおしゃべりに費やされているのだ。
何を話しているのか知らないが、二人で、くすくすくすくす笑っている。
まるで少女に返ったようだ。
皇妃はその他にも、絵画や音楽、刺繍などでお忙しいのだから、モンテベッロ公爵夫人には、これ以上、皇妃の時間を奪わないで欲しかった。プリンスと接する時間が、ますます減ってしまう。
今回のオランダ旅行は、気散じの旅だと聞いている。出産、子育てで篭りきりだった彼女を、皇帝が気遣ったのだ。
皇妃とモンテベッロ公爵夫人は、きっと皇帝をそっちのけで、楽しくおしゃべりしていることだろう、と、シャルロットは、苦々しく思った。
歯が生える痛みで、プリンスがこんなに苦しんでいるというのに!
シャルロットは、小さなプリンスを楽しませることに全力を尽くした。遊びで気を紛らわせようと思ったのである。
ドラムを叩いたり、ままごと遊びをしたり。歌を歌いまくったこともある。
彼女の姿を見ると、ローマ王は、機嫌を直した。
*
11月も下旬になって、ようやく皇帝夫妻が帰ってきた。2ヶ月もの間、夫妻は、息子の顔を見ていなかったことになる。
留守中のことをあれこれ尋ねてきたのは、母親ではなく、皇帝の方だった。礼儀正しく受け応えながら、これは自分に気を使っているな、と、シャルロットは感じた。
アントワープで、夫妻は水入らずでのんびり過ごしたのだ。
それはそれでよいことだと、彼女は思った。
間もなくローマ王は、マホガニー製のトコトコの助けを借りて、歩く練習を始めた。この頃になると、もう、奥歯が疼くこともなくなったようだ。
彼が歩き始めたのは、生後8ヶ月のことだった。
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