ママ・キュッ!

 マリー・ルイーゼは、赤ん坊が怖かった。

 小さく脆い彼を、落としてしまうことが怖かったのだ。彼女は、腕の力が弱かった。少なくとも、弱いと感じていた。それで、赤ん坊を抱っこする時は、慎重にならざるを得なかった。渡された赤ん坊は、すぐに、たくましいナニーの腕に返した。


 彼女はまた、キス、というものが苦手だった。あのように、顔中べたべた舐め回されたら、不潔だし、気持ちが悪い。

 幼い我が子にキスされると、思わず、顔を拭った。


 このように、母子は、身体面での接触が少なかった。母と一緒にいて、赤子は、明らかに落ち着かない様子だった。



 ある日、たまたま、母と子の近くに人がいなくなったことがある。

 マリー・ルイーゼは刺繍を机に起き、わが子に近寄った。ローマ王は座ったまま、両手を振り回している。


 赤子は、不機嫌だった。

 大好きな玩具が見当たらないとか、外に出たいとか、そういう理由だったのだろう。いきなり、

「キーーーーーッ」

という奇声を発した。


 それは彼女の弟、フェルディナントが混乱した時に発するものと、全く同じ、けたたましさだった。

 マリー・ルイーゼは、両耳を塞いだ。


「キーーーーーッ」

子どもはなおも、奇声を繰り返す。

 何かに怯えた獣のようだった。


 ……ひょっとして、フェルディナントのようになってしまうのかしら。

 マリー・ルイーゼは、空白の7分間のことを思った。生まれたばかりのこの子は「死んで」いた……。フェルディナントの発作は、癲癇によるものだが、お産の不手際が、子どもに影響を及ぼす可能性は、マリー・ルイーゼも知っていた。


 ……まともな子が生まれなかったという理由で、もし、皇帝からもう一人産めといわれたら、どうしよう。

 あのように苦しい目に遭うのは、願い下げだった。

 もう一度産んでも、それが男の子である保証はどこにもない。何人も何人も子どもを産まなければならないかもしれない。そして、何度目かのお産で、自分も死ぬのであろうか。実の母のように。


 「早くその子を連れて行って!」

やっと戻ってきた女官に、マリー・ルイーゼは叫んだ。





 はじめは、すぐに辞めるつもりだった。

 モンテスキュー伯爵夫人シャルロットは振り返る。

 一度、養育係を引き受ければ、皇帝の顔も立つだろう。少しだけ務めて、すぐに、私には荷が重すぎます、とでも言って、辞めてしまえばいい。

 夫もそれに賛成だった。

 ところが……。



 彼女は、あの、出産の日のことを思い出す。

 皇帝から赤ん坊を渡された皇妃は、ぐったりしてた。胸の上に置かれた子をちらりと見たが、すぐに目を閉じた。疲れ切っていたのだ。

 善意に解釈すれば。


 ……私は、息子の犠牲になるんだわ!

 鉗子を見た時の彼女の叫びが、シャルロットには忘れられない。

 デュボワ産科医は優秀だった。皇帝も、母親の命を優先せよと言った。お産の間、皇妃が、死に瀕した時間は、一瞬たりともない。一度死んで生まれてきたのは、彼女の息子の方だ。小さな赤ん坊が、母親の身代わりになった。


 ……でもまあ、

 シャルロットは思う。

 ……若い母親が、自分の子どもを愛せないのはよくあることだわ。


 子どもと一緒に時間を重ねることで、自然と、愛が芽生えてくるものだ。心配しなくてもいい。子どもが、愛し方を教えてくれる。

 だから一層、皇妃の息子への接し方に疑問を覚える。



 母親がかまってくれないので、子どもは常に、シャルロットと一緒だった。彼女がいないと泣いて手がつけられないと、ナニーたちが言っていた。あまり泣いてばかりだと、皇帝の不興を買う。

 それで、シャルロットは、いつも小さなプリンスに寄り添っていた。一日の大部分を、彼を膝に乗せて過ごした。


 彼女には、ナニーたちの言うことが信じられなかった。膝の上で、幼いプリンスは、いつもにこにこと笑い、上機嫌だったのだ。



 ローマ王は、赤ん坊としては、大きな方だった。だからこれは、けっこうな関節痛の元だった。だが彼女は、彼を抱っこするのを止めなかった。


 シャルロットの膝の上は、小さなプリンスの避難場所だった。大好きな玩具を取り上げられた、きれいなお菓子を貰えない……、赤ん坊のちっぽけな痛みや悲しみは、そこに逃れれば癒やすことができた。

 シャルロットは、特別なことをしたわけではない。ただいつも一緒にいて、彼が抱いて欲しがった時は、ためらわずに抱っこしてあげただけだ。


 ……安いものだ。

 彼女はいつも考えていた。

 ……こんな風にだっこするだけで、この子の中に、自分は愛されているという自信が芽生えるのだから。その自信が、一生、彼を支えてくれるだろう。



 小さなプリンスを膝に乗せ、落ち着きなく動くその頭越しに、シャルロットはナニーたちに指示を下し、報告を受けた。

 プリンスの頭が、彼女の顔のすぐ下にある。体温の高い子どもの頭からは、芳しい香りがした。

 温かい赤ん坊と、常に体の一部を密着させていると、忘れかけていた本能を呼び覚まされたような気がした。いつしか彼女は、養育係を辞めようとは考えなくなっていた。



 シャルロットには、男の子が二人いる。いずれも、親の思う通りにはならない子育てだった。二人揃って、今、なんと、ナポレオンの軍隊にいる。兄のアナトールがナポレオン軍に入ったのは、1806年、ナポレオンが絶頂期に入ってからのことだ。いつでも兄の後について回っていた弟は、当然、兄に続いた。


 二人は、戦争の悲惨さを知らない。帰ってくると、声高に、戦功を立てた英雄の話ばかりしている。

 二人ながら、軽はずみで、ものを考えない人間に育ってしまった、とシャルロットは憂えた。自信だけは持っているようだが、それは傲慢と紙一重だといえなくもない。


 ローマ王を、同じようにお育てするわけにはいかない。しかし自分が育てたら、あの子達の二の舞いを踏むことになりはしないか。


 ……そうだ。あの子達を育てたのは、ナニーだわ。私じゃない。

 思い出し、シャルロットは救われたような気持ちになった。



 「ママ・キュ」

膝の上から声がした。


「え?」


 グレーに近いうす青い瞳が、真剣な表情を浮かべて、シャルロットを見ていた。少し不安げに、小首を傾げいてる。シャルロットの目をまっすぐに見つめ、彼は再び、ふっくらとした唇を開いた。


「ママ・モン」


 モンテスキューの「キュ」と「モン」だ。シャルロットのことを、呼んでいるのだ。

 ローマ王が、初めて発した、意味のある言葉だった。


「まあ!」

 驚き。それを上回る歓喜。

 シャルロットの顔が歪んだ。何十年ぶりかで、熱い、感動の涙がこぼれそうになる。


「ママ・キュッ!」

 花がほころぶように、プリンスが笑った。体を捻って、抱きついてくる。


 愛しさが溢れて、シャルロットはこの小さく可愛らしい存在を、ぎゅっと抱きしめた。

 世界の果てまでも、自分は、この子についていこう。

 そう、決心した。




 ローマ王が次に発した言葉は、「パパ」だった。だがそれは、まだ、数ヶ月、先のことである。

 皇妃を「ママ」と呼び始めたのは、そのまた先のことだった。

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