溺愛
日常は、穏やかに始まった。
朝9時。
赤ん坊が、養育係のモンテスキュー伯爵夫人に抱かれ、皇妃の部屋に運ばれてくる。
マリー・ルイーゼは彼を抱き取り、軽くキスしてから、すぐ夫人の腕に返す。
それから、新聞を取り上げ、読み始める。
午後4時。
今度は、皇妃がキッズルームを訪れる。椅子に座ると、彼女はすぐに刺繍を始める。赤ん坊は、ナニーたちと遊んでいる。
20分後、絵の先生、または音楽の先生が来たと、女官が呼びに来る。
皇妃は立ち上がり、部屋を出ていく。
……。
*
ナポレオンは赤ん坊を溺愛した。首がすわると、早速、一緒に遊び始めた。
抱き上げて、鏡の前へ連れていく。鏡に向き合って立つ。
「あれえ、変な顔!」
口を尖らせ、眉間に皺を寄せる。一瞬、子どもは怯えた顔をした。
「パパでしたー!」
顔をもとに戻し、ナポレオンは叫ぶ。すかさざず口を開け、長く舌を出す。
「ベロベロベー」
突き出した舌を上下に動かす。
子どもは、父親が、自分と遊んでくれていることがわかったようだ。鏡の中の父親に向かって手を伸ばし、笑い声を立てた。
「よしよし。もっといっぱいあるぞ」
それこそ百面相のように、ナポレオンは顔を変えてみせた。
子どもは、ものに憑かれたように、きゃっきゃと笑う。
ナポレオンは、帽子を持ってきた。
「あれえ。パパがどっかへいっちゃったー」
そう言って、深く被ってみせた。
一瞬の静寂が訪れた。
子どもは激しく泣き出した。ナポレオンは慌てて、頭から帽子をもぎ取った。
「王様が泣いてる! 泣くな。王様は、泣いちゃいけないんだ!」
火が点いたように泣き喚く赤子の声と、途方に暮れたような皇帝の叫び声に、ナニーたちが慌てて駆けつけてきた。
*
明るい時間の食事は、父が子を独占できる時間だった。
父親は、子どもを膝に座らせ、一緒に食卓に着く。もちろん、赤ん坊はまだ、普通にものを食べられない。
ナポレオンは、そっと辺りを窺った。口うるさいモンテスキュー伯爵夫人がいないことを確かめると、おもむろに、深皿のソースに指を浸した。
その指で、赤ん坊の、ふっくらした頬に触れた。
「おお、かわいいな。まったくほんとに、食べちゃいたいくらいかわいいぞ」
ぐるぐると、指で撫で回す。すぐに赤ん坊の顔は、グレーヴィーソースでべたべたになった。きょとんとしたわが子を見て、ナポレオンは、大笑いした。つられて、赤ん坊も笑い出す。
父子の笑い声が、賑やかに響き渡った。
何事かと食堂を覗いたモンテスキュー伯爵夫人は、ぎょっとした。
赤ん坊の顔が、赤茶色のまだらになっている!
先日はこれを、ワインでやられた。アルコールを鼻から吸い込んで、子どもは上気した顔をし、気が狂ったように笑い続けた。
いくらなんでもワインとは……。
皇帝には、さんざん注意をしたばかりなのに。
だが彼女はそっと、足音を忍ばせてその場を立ち去った。
少なくとも今日は、アルコールではない。
これが父子の楽しみの時間だということは、彼女にも、よくわかっていた。
子どもは、あっという間に大きくなる。邪魔は、したくなかった。
果たして、モンテスキュー伯爵夫人の思った通りだった。
数日後、ナポレオンの秘書、メヌヴァルが、急ぎの書類を持って、食堂へやってきた。
あいかわらず、皇帝の膝にはローマ王がちょこんと座り、テーブルを睥睨している。
ナポレオンは皿からハムを一口分切り取り、フォークに刺した。子どもの顔の前まで持っていき、振ってみせた。
子どもは、口を大きく開け、身を乗り出した。
「おおーっと、ダメだ」
直前で、皇帝はフォークを遠ざけた。
「これは、パパのだよー」
自分の口へと運び、ぱくりと食べた。
子どもは、無表情だった。あっけにとられたとも、きょとんとしたとも、なんとでも読み取れる顔だ。
口をいっぱいにしたまま、ナポレオンは、くすくすと笑う。
「お前も欲しいか? よーしよし」
低い声で宥めるように言うと、再びハムを切り分けた。
「ほら!」
だが、ローマ王は、ぷいと、横を向いた。
「お食べ。おいしいよ」
誘惑するように、ナポレオンは、赤子の口元でフォークを動かす。
子どもは、横を向いたまま、口を開こうとしなかった。
「いったい、どうしたというんだ」
今回も、赤子が口をつける寸前に、横へのけてしまおうという算段だったのに。
せっかくのお楽しみを邪険にされて、ナポレオンはがっかりした。未練がましく、別の一角を切り取り、再びローマ王の口元に運ぶ。
結果は同じだった。子どもは頑として、口を開けようとしなかった。
「陛下、」
遠慮がちにメヌヴァルは声をかけた。
「書類にサインを……」
「あ? ああ」
メヌヴァルは、忠実な秘書だ。彼の姿を目にし、ナポレオンは明らかにほっとしたようだった。
それでも、未練がましげに、息子の顔の前で、フォークに刺したハムを振るのを止めない。子どもは、口をきゅっと結んだままだ。
ため息を付き、父親はつぶやいた。
「なあ、メヌヴァル。なんでローマ王は、俺と、遊んでくれないのかなあ」
「彼は、騙されるのが嫌いなんです」
この話を聞かされたモンテスキュー伯爵夫人は、毅然として告げた。
「ローマ王は、誇り高く、繊細なんです」
「誇り高く繊細!」
ナポレオンは叫び、ベビーチェアーから、子どもを抱き上げた。
柔らかくむっちりとしたその頬にキスをする。
「素晴らしい! そうでなくっちゃな!」
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