溺愛

 日常は、穏やかに始まった。



 朝9時。

 赤ん坊が、養育係のモンテスキュー伯爵夫人に抱かれ、皇妃の部屋に運ばれてくる。

 マリー・ルイーゼは彼を抱き取り、軽くキスしてから、すぐ夫人の腕に返す。

 それから、新聞を取り上げ、読み始める。


 午後4時。

 今度は、皇妃がキッズルームを訪れる。椅子に座ると、彼女はすぐに刺繍を始める。赤ん坊は、ナニーたちと遊んでいる。

 20分後、絵の先生、または音楽の先生が来たと、女官が呼びに来る。

 皇妃は立ち上がり、部屋を出ていく。


 ……。





 ナポレオンは赤ん坊を溺愛した。首がすわると、早速、一緒に遊び始めた。

 抱き上げて、鏡の前へ連れていく。鏡に向き合って立つ。


「あれえ、変な顔!」

口を尖らせ、眉間に皺を寄せる。一瞬、子どもは怯えた顔をした。

「パパでしたー!」

顔をもとに戻し、ナポレオンは叫ぶ。すかさざず口を開け、長く舌を出す。

「ベロベロベー」

突き出した舌を上下に動かす。


 子どもは、父親が、自分と遊んでくれていることがわかったようだ。鏡の中の父親に向かって手を伸ばし、笑い声を立てた。


「よしよし。もっといっぱいあるぞ」

 それこそ百面相のように、ナポレオンは顔を変えてみせた。

 子どもは、ものに憑かれたように、きゃっきゃと笑う。


 ナポレオンは、帽子を持ってきた。

「あれえ。パパがどっかへいっちゃったー」

そう言って、深く被ってみせた。


 一瞬の静寂が訪れた。

 子どもは激しく泣き出した。ナポレオンは慌てて、頭から帽子をもぎ取った。

「王様が泣いてる! 泣くな。王様は、泣いちゃいけないんだ!」


 火が点いたように泣き喚く赤子の声と、途方に暮れたような皇帝の叫び声に、ナニーたちが慌てて駆けつけてきた。





 明るい時間の食事は、父が子を独占できる時間だった。

 父親は、子どもを膝に座らせ、一緒に食卓に着く。もちろん、赤ん坊はまだ、普通にものを食べられない。


 ナポレオンは、そっと辺りを窺った。口うるさいモンテスキュー伯爵夫人がいないことを確かめると、おもむろに、深皿のソースに指を浸した。

 その指で、赤ん坊の、ふっくらした頬に触れた。


「おお、かわいいな。まったくほんとに、食べちゃいたいくらいかわいいぞ」

 ぐるぐると、指で撫で回す。すぐに赤ん坊の顔は、グレーヴィーソースでべたべたになった。きょとんとしたわが子を見て、ナポレオンは、大笑いした。つられて、赤ん坊も笑い出す。

 父子の笑い声が、賑やかに響き渡った。


 何事かと食堂を覗いたモンテスキュー伯爵夫人は、ぎょっとした。

 赤ん坊の顔が、赤茶色のまだらになっている!

 先日はこれを、ワインでやられた。アルコールを鼻から吸い込んで、子どもは上気した顔をし、気が狂ったように笑い続けた。

 いくらなんでもワインとは……。

 皇帝には、さんざん注意をしたばかりなのに。


 だが彼女はそっと、足音を忍ばせてその場を立ち去った。

 少なくとも今日は、アルコールではない。

 これが父子の楽しみの時間だということは、彼女にも、よくわかっていた。

 子どもは、あっという間に大きくなる。邪魔は、したくなかった。




 果たして、モンテスキュー伯爵夫人の思った通りだった。



 数日後、ナポレオンの秘書、メヌヴァルが、急ぎの書類を持って、食堂へやってきた。

 あいかわらず、皇帝の膝にはローマ王がちょこんと座り、テーブルを睥睨している。


 ナポレオンは皿からハムを一口分切り取り、フォークに刺した。子どもの顔の前まで持っていき、振ってみせた。

 子どもは、口を大きく開け、身を乗り出した。


 「おおーっと、ダメだ」

直前で、皇帝はフォークを遠ざけた。

「これは、パパのだよー」

自分の口へと運び、ぱくりと食べた。


 子どもは、無表情だった。あっけにとられたとも、きょとんとしたとも、なんとでも読み取れる顔だ。


 口をいっぱいにしたまま、ナポレオンは、くすくすと笑う。

「お前も欲しいか? よーしよし」

低い声で宥めるように言うと、再びハムを切り分けた。

「ほら!」


だが、ローマ王は、ぷいと、横を向いた。

「お食べ。おいしいよ」

誘惑するように、ナポレオンは、赤子の口元でフォークを動かす。

 子どもは、横を向いたまま、口を開こうとしなかった。


「いったい、どうしたというんだ」

 今回も、赤子が口をつける寸前に、横へのけてしまおうという算段だったのに。

 せっかくのお楽しみを邪険にされて、ナポレオンはがっかりした。未練がましく、別の一角を切り取り、再びローマ王の口元に運ぶ。

 結果は同じだった。子どもは頑として、口を開けようとしなかった。


「陛下、」

遠慮がちにメヌヴァルは声をかけた。

「書類にサインを……」

「あ? ああ」

 メヌヴァルは、忠実な秘書だ。彼の姿を目にし、ナポレオンは明らかにほっとしたようだった。


 それでも、未練がましげに、息子の顔の前で、フォークに刺したハムを振るのを止めない。子どもは、口をきゅっと結んだままだ。


 ため息を付き、父親はつぶやいた。

「なあ、メヌヴァル。なんでローマ王は、俺と、遊んでくれないのかなあ」




 「彼は、騙されるのが嫌いなんです」

この話を聞かされたモンテスキュー伯爵夫人は、毅然として告げた。

「ローマ王は、誇り高く、繊細なんです」


「誇り高く繊細!」

ナポレオンは叫び、ベビーチェアーから、子どもを抱き上げた。

 柔らかくむっちりとしたその頬にキスをする。

「素晴らしい! そうでなくっちゃな!」

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