帝国の宝

 厳かに礼砲が鳴り響いた。

 21発の砲声が、長く尾を響いて天空にかき消えていった。


 人々は息を詰めた。


 続いて、22発目が誇らしげに轟き渡った。

 パリの町は、歓喜に湧いた。

 「男の子だよ、おめでとう!」

 人々は帽子を投げ、知らない同士、手を取り合って、浮かれ騒いだ。


 女の子なら、21発。

 王家に男子誕生なら、101発の礼砲を鳴らす。

 古くから続く、慣例だった。


 オーストリアから皇妃が嫁いできて以来、大きな戦争は起きていない。彼らの、父は、夫は、息子は、今、家にいる。

 帝国に跡継ぎができたのなら、なおいっそう、皇帝は戦争を控えるだろう。

 民はそう、信じた。

 パリ市民にとって、ローマ王は、平和の象徴だった。





 帝国の跡継ぎ誕生は、例の、腕木式通信を用いて、瞬く間に領土中に伝えられた。

 人々は浮かれ、花火を打ち上げて、踊りまくった。

 スイスでは国民祝祭日となり、イタリアでは家々の窓に蝋燭が灯されて、パンとワインが振る舞われた。





 兄・オーストリア皇帝フランツに慶事を伝えるフェルディナント大公の筆跡は、興奮と睡眠不足のせいで、乱れていた。

 その手紙を、皇室所属のハンガリー軽騎兵隊大尉が、驚異的なスピードでウィーンに届けた。




 ……随分、金をかけて。

 ホーフブルクの宮殿で、弟からの手紙を読み、フランツ皇帝は眉を顰めた。

 市民への大盤振る舞い、医師始め功績のあった人々への褒美、そして祝賀行事。

 信じられないほどの出費であろうと、よその国のことながら、彼は憂えた。


 他ならぬフランスに、莫大な賠償金を支払っていることにより、オーストリアの経済は逼迫していた。ウィーンを引き払う時にフランス軍が壊していった市壁さえ、修繕の目処はついていない。

 そもそもハプスブルク家は、子沢山である。出産や育児に金をかけるなんて、とんでもない話だった。


 だが、フランツ帝にとっても、初孫の誕生である。嬉しい気持ちにかわりはなかった。

 ……ローマ王に敬意を表し、聖シュテファン大綬章を、サンクルー宮殿の揺り籠に捧げるように。

 パリのシュヴァルツェンベルク大使に、彼は命じた。


 それから筆を取り、娘のマリー・ルイーゼに手紙を書いた。

 ……特に、最初の10日間から6週間は、体を労って過ごすように。

 ローマ王誕生の喜びを書き綴った後、フランツ帝は書き添えた。

 不幸にも最後のお産で死んだ前の妻達から得た教訓である。





 サン・クルー宮殿のテラスの警備に当たっていたコイネー軍曹は、当惑していた。


 ローマ王の、外気浴の日だった。外気浴は、赤ん坊に外の空気に触れさせ、肌や器官を丈夫にさせる目的で行う。

 コイネーが直立不動で警備していると、華やかな笑い声がして、女性たちの一群が出てきた。

 ローマ王の一行だ。


 ふと、視線を感じた。女性たちが、彼を見ている。正確には、彼の首から上の辺りの……、

 コイネー軍曹の帽子には、羽根飾りがついていた。赤い羽根が、太陽の光を受けてはためいていた。


 「こっちへ来い」

 彼の上官、デュロック将軍は、赤ん坊を抱いたレディのそばにいた。コイネー軍曹は駆け寄り、敬礼した。赤ん坊が、彼の顔の方へ、小さな手を伸ばしてきた。


 真面目くさって、デュロック将軍が言う。

「殿下は、お前の帽子の羽根をご所望だ。献上するがいい」

「ですが、将軍……」

 コイネーの声が、おどおどと揺らぐ。帽子の羽根は、警備兵としての誇りだったのだ。

「いいから、差し上げろ。すぐに別なのをやるから」

 それでもコイネーがためらっていると、女性たちが、くすくす笑いだした。


 デュロック将軍は、ため息をついた。

「殿下。こやつは帽子から羽根を抜くことを、ためらっております。仕方がないので、殿下には、軍曹ごと差し上げましょう」


「えっ!」

驚くコイネーに、デュロック将軍は片目をつぶってみせた。

「殿下をお運びしろ」

「はい?」

「いいから、だっこさせてもらえ!」


 コイネーは、従軍続きの無骨な警備兵だ。今までの人生で、赤ん坊と触れ合うなど、殆どなかった。それなのに、いきなり、ローマ王を、だっこするなんて!

 でも、上官の命令には逆らえない。皇帝ナポレオンが親友とも恃むデュロック将軍なら、尚更だ。


 コイネーは、恐る恐る年配のレディの手から、貴重な帝国の宝を受け取った。

「どうだ?」

「お、重い……です」

思ったよりずっと、重かった。


「そのままで、テラスを一回りして差し上げるがいい。では、一時間後に会おう」

デュロック将軍は言って、目を白黒させている部下をそのままに、立ち去った。

 振り返り、叫んだ。

「殿下をだっこできて、お前が羨ましいぞ!」



 コイネー軍曹は、それどころではなかった。

 絶対絶対絶対、落とす訳にはいかない。

 ベビー服の裾は長く、床までひきずっている。踏んづけてしまいそうで、怖かった。


 赤ん坊が手を伸ばした。握ったままの拳を、うつむいた軍曹の、帽子の羽根に触れた。ローマ王は、赤いきれいな羽根に夢中で、コイネー自身には、何の興味もないらしかった。

 しっとりとした重さが、両手に伝わってくる。


 テラスを一周し、コイネーは、恭しく赤ん坊をレディに返却した。もちろん、羽根も、帽子から抜き、献上した。

 養育係のレディーに、とても感謝された。

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