温めたタオルとブランデーと 2

 鉗子を持って引き返してきた医師と夫を見て、マリー・ルイーゼは悲鳴を上げた。

「私のお腹を切り裂くのね!」

 彼女の目は、鉗子に向けられていた。体内に差し入れ、挟んで取り出すため、鉗子は、ハサミ型をしている。

 金切り声で彼女は叫んだ。

「私は、息子の犠牲になるんだわ!」


「大丈夫ですよ、皇妃。私も鉗子を使って二人の子を生みました」

傍らに控えたモンテスキュー伯爵夫人が、優しく諭した。

 だが、皇妃の耳には全く入っていないようだった。

「私は死ぬんだわ!」

ヒステリーの発作を起こしたように、叫び続ける。


 「一人では、施術できません」

この期に及んで、デュボワ産科医が、弱音を吐いた。

「そんなリスクを、私一人で引き受けるなんて……」

「ええい、しのご言うな!」

ナポレオンは叫んだ。デュボワの手から、鉗子をひったくった。

 皇妃は怯えて泣きわめき、彼はすっかり、冷静さを失っていた。

「コルヴィサールはどこへ言ったというのだ!」


 ちょうどそこへ、コルヴィサール医師が姿を現した。新聞社に頼まれていた記事が、一段落ついたのだ。

 産室に入って彼が最初に見たのは、鉗子を手に、仁王立ちしているナポレオンの姿だった。


「……やれ」

コルヴィサールに向かい、ナポレオンは鉗子を突き出した。

「それはないでしょう。私は内科医です。取り上げるのは、デュボワ先生の役目でしょ」

けろりとして、コルヴィサールは、正論を吐いた。


 その彼に、同僚の医師たちが、状況を説明する。

 「破水したのか。それなら、何をぐずぐずしているのだ。早急に出してしまわなければ、母子ともに、命にかかわる」

 持ち場を離れていたことも忘れ、彼は、同僚医師らを叱咤した。


 いずれも、名医の誉れ高い医師らである。

 彼らはすぐに、仕事を始めた。


 コルヴィサールと他の二人の医師が、暴れるマリー・ルイーゼを押さえつけた。デュボワとその助手が、鉗子を手に、施術に取り掛かる。

 ナポレオンの顔が、蒼白になった。よろめきながら、彼は、産室を出ていった。



 26分後。

 足から先に、赤ん坊が生まれた。

 男の子だった。

 だが、泣き声はなかった。

 赤子は、カーペットの上に置かれた。

 静まり返った産室で、医師団は、皇妃にかかりきりになった。





 「えーと、誕生の典礼プロトコルを……」

突然、それまで、まるで夢遊病者のようにただ突っ立っていただけのモンテベッロ公爵夫人が、つぶやいた。

「カンバセレス大法官をお呼びしないといけない……」


 緑の衝立の向こうから、カンバセレス大法官が顔を出した。


 「帝国の御子は、男の子です」

 モンテベッロ公爵夫人は、男である証拠が大法官に見えるように、カーペットの上で、赤子の向きを変えた。

 すぐに、手を離した。白い手についた、赤黒い、レバーのような塊を見つめる。


 その目に、少しも嫌悪の色がないのに、コルヴィサール医師は気がついた。

 ……あるいは、巧妙に隠しているのか。

 16人の女官達の中には、気分が悪くなって、産室の外へ出ていった者も入る。そうでなくても、鉗子の登場に怯え、部屋の隅に固まってしまっている。


 ベッドの脇に居残っているのは、モンテベッロ公爵夫人とモンテスキュー伯爵夫人の二人のバロネス(女性に与えられる身分)だけだった。

 故ランヌの未亡人・モンテベッロ公爵夫人は、皇妃付きの女官長、モンテスキュー伯爵夫人は、生れてくる子の養育係達の束ね役になる筈だった。


 ……そうか。二人とも、経産婦だったな。

 モンテベッロ公爵夫人は4人、モンテスキュー伯爵夫人は2人、子どもを産んでいる。


 どちらかというと、コルヴィサールの目には、顔色ひとつ変えないモンテスキュー伯爵夫人よりも、顔面蒼白になりながら、必死で耐えているモンテベッロ公爵夫人の方が、好ましく写った。

 ……モンテベッロ公爵夫人の方が、はるかに若く、美人だし。


 そこでコルヴィサールは、汚れた手を拭うよう、脱脂綿の束を、彼女に手渡した。

 皇妃の体から出た血を、大法官の目の前で、汚いもののように即座に洗い流すわけにもいかず、途方に暮れていたモンテベッロ公爵夫人は、感謝の目線を送ってきた。


 ……赤子は女の子、という俺の診立ては外れたな。

 彼女に頷き返し、コルヴィサール医師は思った。

 自信があったわけではない。

 外れた場合の、皇帝夫妻の自分への印象を慮っただけだ。男の子と予想して女の子が生まれるより、女の子と言っておいて男の子が生まれた方が、好もしいだろう。妊婦の腹の外から、男女の別など、わかろうはずもない。


 ……これで、自分への皇帝夫妻の信頼は、損なわれるだろうか。

 いずれにしろ、死産では、何の意味もない。

 診立てそのものをしなかったデュボワ医師を見習うべきだったか、と、コルヴィサールは、軽く後悔した。



 胎盤を排出する、後産が始まっていた。

 コルヴィサールは、内科医だった。産婦のそばにいても、あまり貢献できそうにない。

 デュボワは、優秀な産科医だ。それは、さっきの鉗子の扱いを見ればわかる。皇妃のことは、彼に任しておけば、間違いない。


 大法官のカンバセレスが男子であることを確認し、立ち去った後、赤子は、血まみれのまま、床に放置されていた。皮膚は、既に赤黒く変色し始めている。

 コルヴィサールは、その子を拾い上げた。

 産湯は用意してあった。彼は、赤子の体についた血を、お湯で洗い清めた。赤子は、しっかりと両手を握りしめていた。無理にそれを開かせることはしなかった。


 産湯が終わると、温めた浴布で、きつく包んだ。

 心なしか、血色が良くなった気がする。

 コルヴィサールは、軽く、頬を叩いてみた。


 ……動いたか?

 厚く巻いた布の向こうで、ぴくりと動いた……?

 医師はブランデーを取り上げ、青ざめた唇に、そっとたらした。



 出産から、7分が経過していた。

 かすれた咳を吐き出してから、赤ん坊が、呱々の声を上げた。



 「私の息子だ!」

産室に響き渡った元気な泣き声に、ナポレオンが飛び上がった。

 コルヴィサール医師に駆け寄り、その手から赤ん坊をひったくった。そのまま、妻の元まで運んだ。

「見ろ! 男の子だ!」

 だが、マリー・ルイーゼには、子どもを抱き上げる力は残っていなかった。

 ぐったりと横たわっている。


 とうとう、モンテスキュー伯爵夫人が赤ん坊を受け取り、皇妃に向けて差し出した。





 控えの間で、ナポレオンは、子どもの名は、「ナポレオン・フランソワ・シャルル・ジョセフ」にすると、発表した。

 「フランソワ」は、オーストリアの祖父、皇帝フランツへ敬意を込めて(フランソワはフランツのフランス語読み)。また、「シャルル」は、ナポレオンの父の名から取ったものだ。


 集められた人々は、次々と、「ナポレオン・フランソワ・シャルル・ジョセフ」の誕生証明書にサインした。

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