払われた犠牲の大きさ
柔らかな日差しが降り注いでいた。ローマ王を連れ、シャルロットはテラスから降りた。
広大な庭園の緑輝く芝生の上に、皇帝が、寝転んでいた。シャルロットはそっと、プリンスを芝生の上に立たせた。
子どもは、よたよたと父親の方に向かって歩いて行く。ナポレオンはすぐに気がついた。
「来たな。いたずら者め!」
彼は飛び起き、わっと、息子の体を捕まえた。
きゃーーーっ、という甲高い叫び声を上げ、ローマ王が笑う。ナポレオンも笑いながら、小さな体をめちゃくちゃに抱きしめた。
「いいか、ほらっ!」
ひとしきり息子の興奮が収まると、彼はローマ王を、芝生の上に立たせた。傍らに脱いであった三角帽を、その頭に、ひょいと載せた。帽子はずり下がり、小さな顔全体を覆ってしまった。
「いいぞ、よく似合ってる」
ナポレオンはつぶやき、サーベルの柄を握らせた。
「陛下、危ないです」
慌ててシャルロットは駆け寄った。
案の定、鞘に付けられたベルトに足を取られ、プリンスは、尻もちをついた。
シャルロットは、はっと息を飲んだ。
だが、泣きもせず、子どもは立ち上がった。帽子は、頭から吹っ飛んでしまっていた。父親を見て、彼は本当に楽しそうに、声を立てて笑った。
「なあ、バロネス。マルメゾンの皇后が、ローマ王に会いたがっているのだが」
無謀な遊びにぷんぷんしながら、子どもを抱き上げたシャルロットに向かい、ナポレオンは言った。
マルメゾンの皇后とは、ジョゼフィーヌのことだ。離婚後も彼女は、皇后の位を持つことを許された。
「……」
シャルロットは、じっくりと皇帝の顔を見た。皇帝は目を伏せた。小声でぼそぼそと続ける。
「私が連れて行くと、ジョゼフィーヌが傷つくんじゃないかと思うんだ」
「皇妃様に知られるわけにもいきませんしね」
つけつけと、シャルロットはつけ加えた。
新旧両
悪びれもせず、皇帝は頷いた。
「そうなんだ。オルタンスに頼むわけにもいかんし、困っている」
「……」
シャルロットは呆れた。オルタンスは、ジョゼフィーヌの連れ子である。皇后の娘に頼むなぞ、皇妃に知られる以前の問題である。
「ようございます。私がローマ王を、皇后さまの元へ、お連れしましょう」
しばらく考えた末、シャルロットは言った。
ナポレオンの顔が、ぱっと輝いた。
「そうか! そうしてくれるとありがたい!」
彼が、自分のことを、旧弊な貴族にありがちの石頭だと思っていることは、シャルロットも知っていた。この「お願い」も、断られることを承知で、ナポレオンは切り出したのだろう。
願いが聞き届けられて、一番驚いたのは、ナポレオン自身だったかもしれない。
もちろん、シャルロットには、ナポレオンとジョゼフィーヌの仲を修復させる気など、さらさらない。また、皇妃マリー・ルイーゼを裏切るという意識もなかった。
地味な皇妃に比べ、宮廷では、依然、ジョゼフィーヌの人気が根強かった。支給された服飾費さえ使い切れないマリー・ルイーゼに比べ、ジョゼフィーヌは、派手で、気前が良かったからだ。未だに、ジョゼフィーヌ時代を懐かしむ取り巻きは多い。
ただでさえ、オーストリアから嫁いできたばかりのマリー・ルイーゼには、親しく行き来できる人は少ない。
子どもには、親とは違う人間関係を持つ権利がある、というのは、シャルロットの持論だった。
ジョゼフィーヌは、植民地の貴族出身だ。先夫は、恐怖政治下で、ギロチンに処せられている。宮廷には、身内を処刑された旧貴族も多い。また、彼女自身、恋多き女性であり、交友関係は広い。彼女の周囲にいるのは、軍属だけではない。
シャルロットはそう、確信した。
彼女は、さっそく、ジョゼフィーヌに手紙を書いた。
*
よく晴れた日曜日の午後。
モンテスキュー伯爵夫人は、ローマ王を連れて、馬車で散歩に出かけた。
「今日は、私に、コースを任せて頂けるかしら」
彼女が、気ままに馬車を走らせることは、よくあることだ。同行する侍従は、頷いた。
「じゃあ、バガテルのヴィラへやって頂戴」
間もなく馬車は、バガテルに到着した。先に馬車から降りた侍従が、顔色を変えて、駆け寄ってきた。
「大変です! ヴィラには先客が……ジョゼフィーヌ皇后様が!」
「あら!」
「いかが致しましょう」
「だって、ここまで来て帰ってしまうわけにもいかないでしょう?」
落ち着き払って、モンテスキュー伯爵夫人シャルロットは言った。傍らのローマ王に微笑みかける。
「さあ、殿下。皇后さまにご挨拶申し上げましょうね」
ジョゼフィーヌは、奥の小さな部屋にいた。シャルロットがローマ王の手を引いて入っていくと、駆け寄ってきた。
「ああ!」
小さく叫んで、ためらいもなく、子どもの前に跪いた。
「こんな……、なんてかわいい子!」
そして、堰が切れたように泣き出した。
突然、目の前に駆け寄って来られ、幼いローマ王は、驚いたようだった。きゅっと、ドレスの上から、シャルロットの足にしがみついた。
だが、シャルロットが驚いたことに、それは一瞬のことだった。すぐに子どもは彼女から離れ、真正面にきたジョゼフィーヌの顔を見つめた。
ジョゼフィーヌは、小さなその手を取った。
「ローマ王、あなたはいつか、私が払った犠牲の大きさを知るでしょう」
これだけは言わねばならぬと、決めていたかのような言い方だった。
すぐに、彼女は笑顔を浮かべた。半泣きの笑顔だった。
「私は、本当に、あなたに会いたかったのですよ」
子どもを膝に、シャルロットとジョゼフィーヌは席に着いた。共通の知人の話など、ぽつりぽつりと語り合った。
20分ほど経った頃だろうか。
「あの、」
ためらいがちに、ジョゼフィーヌが両手を差し出した。
ローマ王は退屈しきっていた。もぞもぞ動くその体を抱き上げ、シャルロットは、ジョゼフィーヌの膝の上に移した。
子どもは、うっとりとジョゼフィーヌの顔を見上げた。人見知りが激しく、なかなかよその人には懐かない彼が、おとなしくしている。
ジョゼフィーヌは、そっと子どもの髪を撫でた。柔らかな金色の巻き毛を、細い指が優しく撫で付ける。
ローマ王を膝に載せ、なおもジョゼフィーヌは、シャルロットと話し続けた。
彼女はしきりと、誰がローマ王に仕えているか知りたがった。
シャルロットは、ちらりとローマ王を見た。ジョゼフィーヌの膝の上で満ち足りた様子だった。
シャルロットは、ローマ王養育関連業務に携わる者の名を上げ、言った。
「彼らには、簡単に会えますよ」
直接会うことは難しくても、担当者から、ローマ王の成長を聞き出すことは可能だ。
ジョゼフィーヌは、驚いた顔になった。
「あなたにはどんなに感謝をしたらいいか」
再び、ジョゼフィーヌの目に涙が浮かんだ。
自分への感謝なんていらない、と、シャルロットは思った。ただ、先々、ローマ王の味方になってくれれば、それでいい。
やがてローマ王は、皇后の膝の上で眠ってしまった。
小さなかすれた声で、ジョゼフィーヌはつぶやいた。
「ローマ王……ナポレオン……」
「フランソワ・シャルル・ジョセフ」
しっかりとした声で、シャルロットが続けた。
「幸せな人生を」
子どもの耳元に口を寄せ、祈るようにジョゼフィーヌは囁いた。
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