コレラ襲来


 1831年、夏。

 コレラが、ウィーンの街を襲った。

 それまでもぽつぽつと罹患はあったが、この年は、規模が大きかった。最終的に死者が2000人に達する、大規模な蔓延だった。


 ウィーン市街は、城壁に囲まれていた。道は細く、建物は密集している。都市であるから、大勢の人々が集まって暮らしていた。疫病が、広がりやすい。

 人々は、争って、郊外へ避難していった。


 皇帝一家も、シェーンブルンの離宮に閉じこもった。

 皇帝、皇妃。

 皇太子フェルディナンドと、結婚したばかりのその妻。

 F・カール大公とゾフィー夫妻、そして幼いフランツ・ヨーゼフ。

 サレルノ公レオポルド一家。(※サレルノ公は、※ 6章「フランソワの罠」で、フランソワの罠にはまって、マリー・ルイーゼがパルマで産んだ子どもについて、ぺらぺらしゃべっちゃった親戚です)

 皇帝の弟のアントン大公や、ルードヴィヒ大公もシェーンブルンへ移った。


 皇族だけではない。メッテルニヒ一家や、コロフラス侯爵など、有力貴族の姿もあった。

 また、各国の外交官たちも、競って、シェーンブルンの専用特区に住居を求めた。




 皇族の中で、たった一人、ウィーンの街を離れないメンバーがいた。

 フランソワだ。

 彼は、依然として、アルザー通りにいた。愛する兵舎を、離れようとしなかった。





 「ねえ、殿下。シェーンブルンへ行きましょうよ」

 グスタフ・ナイペルクがうるさい。

 彼は、ハンガリー第60連隊に配属されていた。フランソワの指揮する連隊だ。

「街の人はみんな、郊外へ逃げていきましたよ? 皇族方も、シェーンブルンへ移動されました」


「僕は行かないよ」

 姿見に移った軍服姿の自分を、ちらりと眺め、フランソワは言った。

「軍務は、僕の大きな喜びなんだ。それを捨て去るようなことなんか、するもんか」


「だって、コレラが流行ってるんですよ! あれは、恐ろしい病です」


「シェーンブルンへ行ったら、コレラに罹らないというのか?」

フランソワは鼻を鳴らした。

流行はやりやまいというなら、もしかしたら、鳥が運んで来るのかもしれないじゃないか。空から来られたら、いくら隔離されたシェーンブルンといえども、ひとたまりもあるまい?」


「鳥が? 鳥がコレラを、運んでくるんですか?」

「そうでないとは言い切れないだろ?」


「屁理屈です!」

グスタフはむくれた。

「とにかく、ウィーンのようなせせこましい街にいたら、危険なんです。プリンス、あなただって、毎年、夏の休暇が終わると言うじゃありませんか。ウィーンには帰りたくない。あそこは、息が詰まりそうだ、って」


「将校にとって、」

じろりと、フランソワは、グスタフをみやった。

「部下の兵士たちと危険を分け合うことは、何より、大切なことなんだ。国家の危機に面し、剣を抜かねばならない時に、持ち場を離れるようなことは、あってはならない。それは、敵前逃亡と同じだ」

「そこまでのことではないでしょう?」


は、まだ、兵舎にいる。僕だけ、逃れるわけにはいかない」

「しかし、ですね……」

「とにかく、僕は、シェーンブルンにはいかない。ここに、兵士たちと、一緒にいる!」


 フランソワは、テーブルの上の、帽子を被った。ナポレオンが愛用していた型の、つば広の帽子だ。

「訓練の時間だ。行くぞ」


「あ、殿下。ちょっと。ちょっと待ってくださいよ……」

 傲然と顎をもたげ、足早に歩くフランソワの後を、グスタフは慌てて追いかけた。




 しかし、大隊の指揮を執るフランソワの声は、低く、嗄れていた。

 隊の中ほどにあっては、命令を聞き取ることすらできない。

 忌々しげにフランソワは、馬を駆り、隊列の先頭から末尾までを、駆け巡った。移動しながら、殆ど出ない声で、叫び続けた。




 「おい、グスタフ!」

 滑り落ちるように馬を降り、フランソワが兵舎に消えた。

 後を追おうとしたグスタフは、背後から呼び止められた。

 使っていない物置の陰に、誰かが立っている。

 兵士ではない。軍服を着ていない。

 黒い髪、浅黒い肌、東洋系の顔立ち……。


「げげげ。お前は、アシュラ! うわっ! ば、バケモノ!」

「ついに化物にされちまったか。あんまりじゃないか、グスタフ」

「アシュラ……お前、死んだんじゃ……」

「だから、生きてるって!」


 今まで姿を現さなかった理由を、アシュラは話した。


 彼が、メッテルニヒ宰相に命を狙われていると知っても、グスタフは、それほど驚かなかった。

 フランソワ自身が、メッテルニヒに忌み嫌われているのを、グスタフは知っていたからだ。


 「それより、プリンスだ」

話し終わると、アシュラは言った。

「どうして彼を、シェーンブルンへ避難させない?」

「殿下ご自身が、いやがるんだよ。俺は、何度も、彼に言った。シェーンブルンへ行くように、と」

「……信じるよ。お前も一緒に、避難できるものな」

「その通りだ。……違う! 俺は、本当に、プリンスのお加減が心配なんだ。あの声がれは、尋常じゃない。夕方の疲れもひどいし」

「だったら!」

「プリンスが、俺の言うことなんか、聞くもんか! あの方の意思は固い。というか、頑固だ。人の言うことなんか、耳に入ってこないんだよ!」


「頭を使え、頭を!」

アシュラは声を荒らげた。

「誰の勧めで、お前は、軍隊に入った?」

「あ?」

「その人は、プリンスのことを、よく知っている。彼を、扱い慣れているはずだ」

「!」

「やっと気がついたか。わかったなら、早く行け!」





 フランソワの声がれは、ディートリヒシュタインも把握していた。

 ……彼は、気管支が弱いのだ。

 ……気管支と、もしかしたら、肺も。


 前の侍医、シュタウデンハイムは、肺の病と診断していた。

 それなのに、新しい医師のマルファッティは、肌や肝臓のトラブルだと言って、憚らない。


 今や、ディートリヒシュタインは、名医と評判の医師マルファッティの診断に、疑問を抱いていた。


 脆弱な肺や気管支では、よけい、コレラに罹患しやすいだろう。

 一刻も早く、プリンスを、休養させたかった。

 しかし、軍にある彼に、口を出すことは、憚られた。

 ましてやディートリヒシュタインは、家庭教師を辞した身である。


 思いあぐねている所へ、グスタフが、やってきた。

 グスタフは、今は亡き彼の親友、ナイペルクの息子である。頼りないが、信頼はできる。

 グスタフの話すプリンスの現状に、ディートリヒシュタインの心配は、頂点に達した。


 聞けば、プリンスは、最後の閲兵以来、4日も、訓練を休んでいるという。本人は、声を温存する為だと言っているそうだが、ディートリヒシュタインは、素早く見抜いた。

 彼は、起き上がれないくらい、具合が悪いのだ。

 さもなければ、あのプリンスが、軍務を休むわけがない。

 ……それも、4日も。


 ディートリヒシュタインは、即座に、皇帝の元へ飛んでいった。

 プリンス休養の必要を、かき口説いた。

 皇帝は、家庭教師の言うことを聞き入れ、孫を、シェーンブルンへ召喚した。




 青ざめ、息を切らし、フランソワは、シェーンブルンへ到着した。

 あまりの衰弱ぶりに、シェーンブルンへ集っていた人々は驚いた。

 即座に、西の棟にある彼の部屋へ連れて行かれた。

 侍医のマルファッティは、2週間の休養を申し渡した。




 「プリンスは、プラハへ行くべきだった」

 宮殿の外では、ディートリヒシュタインが、怒り狂っていた。

「そして、名誉だけの大佐に任命されるべきだった。プリンスは、呼吸器が弱いのだ。空気の乾いたプラハなら、ここまで具合が悪くなることはなかったはずだ。だいたい、皇族は、その軍歴を、プラハから始めるのが定石だろうに。なぜ、うちのプリンスだけが、ウィーンから出してもらえなかったんだ? 皇族として彼は、軽んじられているのではあるまいか」


 フランソワのウィーン勤務は、皇帝からのトップダウンの人事だ。

 ついにディートリヒシュタインの怒りは、皇帝にまで及んだのだった。




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