魔王にふさわしい……
久しぶりで、フランソワは、ホーフブルク宮殿に立ち寄った。
彼の部屋には、先客がいた。
宮廷司祭の、ワーグナー師だ。皇族たちの、懺悔聴聞僧でもある。
皇帝の一番下の弟、ルドルフ大公は、もともと、体が弱かった。その彼に、今、死期が迫っていた。
皇族たちの間には、不安がたちこめていた。
それで、宮廷司祭のワーグナーが、皇族たちの悩みを聞いて回っていたのだ。
ライヒシュタット公は、普段は、アルザー通りの兵舎に寄宿している。ワーグナー師が彼の部屋に立ち寄ったのは、もし会えたなら話をしよう、程度の、軽い気持ちだったらしい。
部屋に入ってきたフランソワは、ワーグナー師の姿を認めると、一瞬、歩を止めた。司祭は、彼の部屋で、お茶を飲んでいた。
すぐにフランソワは、にこやかに、司祭に向かって挨拶をした。
何か話すことはあるかと、いうワーグナー師の問いに、フランソワは、今は任務に打ち込み、大変充実している、と司祭の気遣いを謝した。
暫くの間、二人は、世間話をした。
ワーグナー司祭は、ルドルフ大公の芸術への理解について触れ、彼が最後まで、ベートーヴェンのパトロンだったことを明かした。
1時間ほど滞在して、ワーグナーは、帰っていた。プリンスは、終始、穏やかに、笑顔を崩さなかった。
司祭が帰るとすぐ、フランソワは、従僕を呼んだ。
「なぜ、司祭を僕の部屋へ通した?」
厳しい声で、彼は詰問した。
従僕は、目を丸くした。今まで、なごやかに談話していた様子を知っていたからだ。
「それは、司祭様が、しばらく待ってみようと、仰せになったからで……」
「いいか」
フランソワは、従僕を遮った。
「僕は、司祭などというものを、自分の私的な空間には入れたくない*」
冷徹に言い放つプリンスに、従僕は、殆ど怯えた。
冷たい怒りを湛えたまま、彼は、従僕を下がらせた。
入れ違いに、アシュラが部屋に入ってきた。
「階下で、ワーグナー師とすれ違いました。彼は、上機嫌でしたよ。珍しいですね。あなたが、懺悔とは」
「懺悔などしていない」
不快そうにフランソワは言い放った。
「僕は、宗教など、信じていないからな」
「そんなところまで、ナポレオンを真似るわけですか?」
「別に、父を真似ているわけではない。敬虔な信徒が、人を操ろうとうするやり方が、胸糞悪いだけだ」
「……殿下。下品な言葉を覚えましたね」
アシュラは首を傾げた。
「ですが、人は、神に、願い事をします。世界平和から、明日食べる物の心配まで。小さな幸せから、死の間際の、必死の助命まで。もし、神が……」
なぜ、そんな質問を思いついたのか、アシュラにはわからなかった。
まるで何かに操られるように、彼は口にした。
「もし神が、たったひとつだけ、願いを叶えてくれるとしたら。あなたは神に、何を願いますか?」
それについて、フランソワは、前々から考えがあったようだ。
間をおかず、彼は答えた。
「僕は、全能なる存在に、その座から、下りてもらう。そして入れ替わりに、この僕に、その座を占めさせてくれるよう、お願いする*」
「……」
アシュラは、強い目眩を感じた。耳元で、不吉な哄笑を聞いた気がする。何かが……。
……神について、これ以上、話してはいけない。
強く、アシュラは感じた。
突然、彼は、話題を変えた。
「ダッフィンガーに聞きました。殿下。あなたはマルモン元帥に、肖像画を贈られたそうですね?」
「うん。父の話を、たくさん聞かせてくれたからな。生き生きとした、戦場での父の姿を、僕に教えてくれた」
「……意外です。マルモンは、ナポレオンの失敗についても話してたじゃないですか」
メッテルニヒが、そうするよう、マルモンに示唆した。
「それは……いや、僕は、知るべきなのだ。父と同じ轍を踏まない為に」
「マルモンは、話しましたよね? スペイン戦争の泥沼を。ロシアの雪原の敗走を。多くの兵士達の、無念の死を」
「それ以上は、聞きたくない。言うな」
「パリ陥落。ワーテルロー、そして、二度目の退位」
「……黙れ」
「大陸封鎖は、失策でした。アンギャン公の処刑も。教皇を拉致したことは、愚かの一言に尽きます」
「黙れ黙れ」
フランソワの声は、怒りでかすれ、震えた。
「ほら。単純に、ナポレオンの失敗を並べただけで、あなたはそんなに怒り出す。なのに、マルモン元帥の話は、おとなしく聞いていました。それだけじゃない。いかにも感心したように頷き、相づちを打っていた」
「……」
「教えて下さい、殿下。あなたにとって、人間とは、善なる存在ですか? それとも、悪でしかないのですか?」
フランソワは、虚を衝かれたようだった。
「何だって?」
「あなたは、ご自分の本質を、決して他人に晒さない。人と意見が違っても、あたかも自分も同じ意見だという風に、振る舞われる。……メッテルニヒなどは、あなたのことを、名優だと評していましたよ?」
実際、それを理由に、彼から離れていく者もいた。
暖かい相づちと優しい眼差し。優美な微笑み。
てっきりプリンスは、自分に賛成してくれていると思ったのに、実は、全く違う意見だった……。
後にそのことを知り、失望し、彼の元を去っていくのだ。
そういう者も、いた。
「ワーグナー司祭と同じように、マルモン元帥に対しても、あなたは、完璧に、己を隠し通しました。元帥が、ナポレオンを批判しても、微笑んで聞いていた。それは、彼は使えると判断したからではないですか? ナポレオンのかつての部下たちとの繋ぎとして、彼は……」
アシュラの頬が鳴った。
少しして、痛みが走った。
フランソワが、驚いたように、自分の手を見つめている。
「あなたこそ、魔王にふさわしい」
ゆっくりと、アシュラは告げた。
「どんなに努力を重ねても、自分の身を犠牲にして兵士たちの期待に応えても、あなたは、ウィーンから出してもらえない。戦争に行かせてもらえない。あなたに、手柄を立てることは、不可能だ。あなたの失望は……偉大なる才能の無駄遣いは……、魔王になることによってしか、贖うことができない」
「前にも、そんなことを言っていたな。……魔王、と。何だ、それは」
「ゲーテが生み出した芸術の化身。メフィストフェレスの眷属です」
「芸術? ああ、前に、ディートリヒシュタイン先生がおっしゃっていた。人生は孤独で、音楽は、その孤独の叫びなんだそうだ。芸術も、似たようなものだろう?」
フランソワの声は、茫洋として、掴みどころがなかった。
突然、ひどい疲労が、襲ってきたのだ。感情の爆発が、自分にも隠していた不調の、引き金になったのだろう。
アシュラは、フランソワの背へ手を回し、寝椅子へ連れて行った。
素直に、フランソワは、長椅子に横たわった。アシュラは、外套を持ってきて、彼に被せた。
横たわった彼の脇に腰掛け、低い声でささやく。
「ベートーヴェンが、メフィストフェレスと契約を結びました。自分の代わりに、魔王となる存在を見つけ出す、と。彼はその任を、僕に押し付けたのです」
「ベートーヴェン……。今日、その名を聞くのは、2回めだ。今、死の床に伏せっておられるルドルフ大公は、最後まで、
横たわり、右腕で目の辺りを覆ったまま、フランソワがつぶやいた。まるで、ひとり言のようだ。
アシュラは囁いた。
「世界が、徐々に閉じつつあるのです。今回の革命は、何も、実を結ばなかった。ですが、種は撒かれた。これがこの先、どうなるのか。あなたは……、あなたの体は、どこまで待てますか?」
「何を言っているんだ?」
相変わらず、ぼんやりとした声が問う。
「もし、あなたが、魔王になったなら」
決然と、アシュラは告げた。
「私は永遠にあなたに仕えましょう。それまでは決して、あなたの思い通りにはなりません」
「お前も、僕から離れていくのか?」
心細い声が、揺らいだ。
「いいえ。私は、誓いました。いつもおそばにいる、と」
「そうか」
「決して、殿下の思い通りにならない者が、いつも、おそばに」
「……そういうのも、悪くない」
ふっと、フランソワの口元が、微笑んだ。
*~*~*~*~*~*~*~*~*
※
このすぐ後(1831年7月24日)、オロモウツ大司教、枢機卿でもあったルドルフ大公(皇帝の一番下の弟)が、亡くなります。
ルドルフ大公は、
4章「投げ込まれた三色旗と、崇高な義務」「私は王の息子だというのに……」
に出てきます。
ルドルフ大公は、自分で作曲もし、ベートーヴェンに師事しました。彼は、最後まで、ベートーヴェンのパトロンでした。
※
ライヒシュタット公が、司祭(ワグナー)を自室に入れた従僕を叱ったエピソードは、実話です。また、末尾に*を付けた2つの言葉も、実際に彼が口にしたといわれるものです。このお話では、あちこちに、ライヒシュタット公の言葉をちりばめていますが、神と宗教は、どうしても大きなテーマになってくるので、特に、*を付しておきます。
ただ、ここでは、ルドルフ大公の死を絡めましたが、このエピソードが、実際は、いつ頃のものかが、わからないのです……。
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