クローバーとうまごやし
「ライヒシュタット中尉」
厩舎を出たフランソワは、歯切れのいい声で呼び止められた。
柔らかな
うつむきがちに歩いてたフランソワは、途端に、直立姿勢になった。
ヴァーサは、わずかに唇の端を上げた。微笑んだのだ。
「大隊の指揮はどうだ? もう慣れたか?」
「はい!」
「調子はどうだ?」
「絶好調です!」
「ふむ。今日の演習では、だいぶ、声が枯れていたようだが?」
「体調は万全です」
フランソワは繰り返した。
「本当に、疲れはないのか? 健康状態に問題はないのだな?」
改まった声が問うた。
「私は、健康そのものです!」
真剣な眼差しだった。
ヴァーサは、相手の瞳が放つ輝きを見据えた。まるで、青い光の底から、重大な秘密を、読み取ろうとするかのように。
フランソワは、ヴァーサのはがねのような眼差しを、またたきもせずに見つめ返す。
「安心した!」
やがて、大声でヴァーサが叫んだ。
「訓練生の頃から、君をずっと見てきたのだが、君は、勘所をよく心得ている。上官や同僚に対しては、とても礼儀正しく、魅力的だ。だが、配下の兵士達に対しては、厳格に接することができる。軍務に非常に熱心だし、馬の扱いにも長けている」
「ありがとうございます!」
フランソワは敬礼し、ブーツの踵を鳴らせた。
「君には、素質がある。君は、最も優れた能力と資質の塊だ」
フランソワの頬が赤く染まった。
なおもヴァーサが続けた。
「君には、知識と才能、そして、それらを活かすだけの力量もある。その上、強い意志と、最も賞賛されるべき熱意を持っている。本当に、君は、素晴らしい」
「お褒めに預かり、恐縮です!」
「なにせ君は、彼女の息子だからな」
「……え?」
「君は彼女のことを、『僕のママン』と呼ぶそうじゃないか」
「!」
フランソワの息が止まったようだった。
にやりと、ヴァーサが笑った。
「彼女の息子なら、私の息子であってもおかしくはない。そうだろ? 君は、私の未来への、大きな希望そのものだ。期待してるよ、ライヒシュタット公!」
愉快そうに、声に出して笑いながら、ヴァーサは、立ち去っていった。
「殿下!」
黒い影が近寄ってきて話しかけた。
アシュラだ。
「どうしちゃったんですか、殿下!
「なんでもない」
夢から覚めた人のように、フランソワは、大きく瞬いた。長いまつ毛が、束の間、瞳を覆う。やがて彼は、ぎくしゃくと歩き始めた。
「なんでもない? ……右手と右足が、同時に出てますよ?」
「うるさい。ちょっと間違えただけだ」
「ありえない……」
「あのな、アシュラ」
フランソワは立ち止まった。
「祝福しろ。とうとう僕にも、父君ができた」
「えっ! まさか、
「違う!」
掠れた声が、大きくなった。
マリー・ルイーゼの2番めの夫、ナイペルク亡き後、パルマ執政官には、マレシャル将軍が赴任していた。
マレシャルは、メッテルニヒの肝いりで送り込まれた。だが、マリー・ルイーゼとの折り合いは、非常に悪かった。
マレシャルは、マリー・ルイーゼに関する噂……特に、彼女を、性的に貶めるような……を、あることないこと、ウィーンに報告してきていた。(※1)
「よりによってマレシャルとは。殺すぞ」
ふっくらとした唇が、物騒な言葉を零す。
アシュラは、首を竦めた。
*
部屋に戻り、グスタフ・ヴァーサは、軍の上層部に提出する、新人将校に関する評価を
「
……彼は燃え盛るような気質と、非常に活発な性質を持っています。社交において、彼は礼儀正しく、魅力的です。厳しい面もあるのですが、それは、部下を指導する時に限ります。
彼は、素晴らしい意思と、賞賛に値する熱意で全てに取り組み、短期間で習熟しました。
彼はまた、大隊を、的確、かつ、巧妙に指揮します。すぐれた騎手であり、馬に乗ったまま、非常に素早く行動できます。……
プリンスは、未来への大きな可能性に満ちた、最も素晴らしい能力と資質を有しています。……
」
ペンを置き、少しためらった。
結局、ヴァーサは、続きを書き添えた。
「
プリンスは、健康そのものであり、いかなる疲労にも耐えることができます。……
」
*~*~*~*~*~*~*~*~*
*1
マリー・ルイーゼの噂とは、以下のようなものです。
・パルマの官邸は、彼女の子どもたちの住む家と、地下で繋がっている。彼女が、子どもたちの家庭教師と、情事をする為である。
・ジュール・ルコントというフランス人テノール歌手を、ベッドに入れた。
(しかしこれは、彼が「朝起きた時に、ナポレオンの肖像を見た」と言ったことから、嘘だと判明しました。彼女は寝室に、
・彼女の部屋の前の護衛が、いつの間にかいなくなった。彼女が部屋に引きずり込んだからである。試みに、護衛を2人にしたところ、2人ともいなくなった。それなら、と倍にしたところ、4人共、彼女の部屋にひきずりこまれてしまった……。
※
会話文、及び、報告書でのグスタフ・ヴァーサ公のライヒシュタット公への賞讃の言葉は、若干、アレンジはしましたが、実際の彼の言葉です。
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