送り込まれた刺客
アルザー通りにある兵舎の、フランソワの居室には、しばしば、侍医のマルファッティが通ってきていた。
軍の訓練には、過酷なものが多かった。
アルプスから流れてくる氷河を越える訓練。
部隊には、200人ほどの騎兵がいた。指揮官は馬に乗り、列の先頭から最後尾まで何往復もしながら、号令を下す。これが、何時間にも及んだ。
街中の訓練であっても、決して油断はできなかった。石畳の上を、大砲を積んだ馬車が、がらがらと大きな音を立てて走る。ともすれば、指揮官の声は、かき消されてしまう。司令を行き渡せる為には、常に大声で叫び続けなければならない。
いずれも、訓練が終わりに近づくと、フランソワは、疲れ切っていた。何より悪いことに、彼の声は、がらがらに枯れてしまっていた。この頃では、全く出なくなってしまうことさえあった。
「肺や気管支ではありませんね」
診察を終えると、マルファッティは言った。
フランソワは、眉を釣り上げた。
オーストリア将校にとって、何よりも大切なことは、連隊の指揮をとることだ。
声が出ないのは、司令官として、致命的だった。隊列に命令が行き渡らないようでは、困る。
さらに彼は、突然襲ってくる、激しい疲労感にも悩んでいた。
気力は充実しているというのに、休憩を取らねば動けなくなってしまうのだ。
「僕は、僕の意思について来れない、自分のこの、みじめな体に腹を立てている」
寝台から半身を起こし、フランソワは言った。
「器質的な障害でないとしたら、一体、何が悪いのか?」
「緊張ですね」
さらりとマルファッティは言ってのけた。
「大隊の指揮を執るという緊張感から、殿下の声は、枯れてしまったのです」
「よくあることです!」
間髪入れず、ハルトマン将軍が叫んだ。
ハルトマンは、家庭教師らに変わって付けられた軍人の付き人だ。フランソワの
「新任の司令官には、しばしば見受けられる現象です。私は、殿下よりも、もっと頑健な者が、そのような状態になったのを見たことがあります」
「ほう、そうですか」
感心したように、マルファッティが唸った。
得意げに、ハルトマンは頷いた。皇帝の孫の緊張を和らげようと……さらに調子に乗って……彼は続けた。
「たとえ声が枯れようとも、任務の遂行には、何ら問題はありません。ですから、殿下が気になさる必要は、全くございません!」
「……」
フランソワは、無言で肩を竦めた。
*
……だいぶ、具合が悪くなっているな。
兵舎を出て、一人、歩きながら、マルファッティは思った。
聴診器を当てた時の、胸の音。
ひどい声枯れ。
苦痛を感じさせるほどの、激しい疲労……。
……間違いなく、結核だ。一刻も早く、転地療法をさせねば、或いは、ライヒシュタット公のお命に関わるやもしれぬ。
だが、それは、できない相談だった。
……「結核を、悟られぬようにせよ」
……「僕は、僕の意思について来れない、このみじめな体に腹を立てている」
美しい青年の、烈しい無念は、医師の胸を打った。マルファッティは、ライヒシュタット公には、何の恨みもない。
結核の治療は、民間療法を除けば、転地療法しかない。
だが、結核という診断なしに、どうやって、転地療法を勧めたらいいのか。
もし勧めたとして、それを、あの宰相が許すとは思えない。
……それにしても、なぜ、宰相は、ライヒシュタット公が、結核だと、悟られたくないのだろう。
マルファッティは、パヴィアで、ドイツの医師、フランクに師事した。フランク医師がウィーンに招かれると、師について、自分もウィーンにやってきた。
マルファッティが19歳の時のことだ。
ドイツ医学では、結核は、遺伝性の病とされていた。感染はしないと、考えられている。
マルファッティの師、フランク医師にも、当初、結核の感染という概念はなかった。それで、せっかくメッテルニヒ夫人エレオノーレが夫の謀略の一部を漏らしたのに、行動が遅れてしまった。
僅かな時間差で、メッテルニヒが勝った。
皇帝の孫に対して、何の警告も出せぬまま、フランク医師は、死んでいった。
(※2 2章「フランク医師の死」・4章「地獄で待っている」、参照下さい)
フランク医師の弟子、マルファッティも、結核が人から人へうつるなどとは、まるで考えなかった。
もし、彼にその知識があったなら、
それゆえマルファッティは、故意に感染させた可能性など、全く、思いつきもしなかった。
憎いナポレオンの息子に。
死に至る病、結核を。
*
シルクハットを被った、黒尽くめの服装の紳士が、ライヒシュタット公の部屋から出てきた。
膨らんだ鞄を下げている。医師用の鞄だ。
通りかかった若い士官は一瞬、硬直し、立ち止まった。
すぐに、一歩下がり、恭しく頭を下げた。
ライヒシュタット公の付き人に向かって、マルファッティは軽く会釈し、立ち去って行った。
*
「あれが、あなたの、新しい侍医ですか?」
部屋に飛び込み、アシュラは叫んだ。
フランソワは、ソファーに横たわっていた。
「あれ? 大丈夫ですか、殿下」
「大丈夫に決まってる」
即座に跳ね起きた。
「マルファッティなら、別に新しくもない。主治医になってから、もう、1年以上になるぞ」
「ああ……私はずっと、留守をしていたから」
アシュラは両手を揉み絞った。
「殿下。すぐに主治医をお替え下さい」
「なぜ?」
アシュラは息を溜めた。
思い切って口にした。
「マルファッティは、ベートーヴェンを殺しました」
すうーっと、フランソワの目が細くなった。
「詳しく話せ」
マルファッティは、ベートーヴェンの主治医だった。
彼の従姉妹に、ベートーヴェンは求婚し、断られている。
やがて、音楽家の気ままさゆえ、医者と音楽家の関係は決裂した。
その後、死に臨んで、ヴェートーヴェンの弟子たちは、かつての主治医、マルファッティの往診を願った。
マルファッティは、快くこれに応じ……、
……患者に、ポンス酒を勧めた。
肝臓を患い、死の床にあるベートーヴェンに。
フランソワは首を傾げた。
「その話なら、ディートリヒシュタイン先生から聞いたことがある」
宮廷劇場の支配人も兼ねるディートリヒシュタイン伯爵は、ベートーヴェンやその弟子たちと、面識があった。
「マルファッティが勧めたのは、ポンス酒のシャーベットだ。それを食べて、ベートーヴェンは、暫くの間、気分が上向いたという。あれは福音だったと、弟子たちは言っていたそうだ」
「ベートーヴェンとマルファッティは、かつて、親しい間柄だった。マルファッティには、わかっていたはずです。シャーベットは原酒になり、
「つまり、マルファッティは、ヤブ医者だと?」
「殺意です」
アシュラは断言した。
「マルファッティ医師は、ベートーヴェンを殺そうとしたのだ」
「……」
フランソワは、色のない瞳で、アシュラを見つめた。
「マルファッティは、ベートーヴェンに酒を与えれば、彼の死期を早めると、知っていたと言うのか?」
「はい」
「知っていて、ポンス酒のシャーベットを勧めたと?」
「御意」
「なぜ?」
「恐らく、音楽家のわがままに、我慢がならなかったのでしょう。自分の従姉妹に結婚を申し込んだのも、不快だったのかもしれない。いずれにしろ、マルファッティは、シュタウデンハイムのように、死の床への往診を、断固として退けることはしなかった。そして、酒のせいで、彼の病状が、坂を転がり落ちるように悪化するのを見届けると……」
「見届けると?」
フランソワが眉を上げた。
ゆっくりとアシュラは続けた。
「弟子に代診させ、自らは、ベートーヴェンの家を訪れることはなかった。二度と」
「……弱いな」
ぽつりと、フランソワが言った。
「今年に入って、古くからの弟子の一人、ベルトリーニがコレラに罹りました。彼もマルファッティとともにベートーヴェンの診察をしており、師と違って、最後までベートーヴェンの診察を続けました」
アシュラは言った。
平坦な口調だっった。
「自分の死期を悟ったのでしょう。ベルトリーニは、自分が保管していたベートーヴェンの手紙を、全て、破棄させたといいます」
(ベルトリーには、6章「ベートーヴェンの主治医」に登場しています)
「それは、
言い当てられて、アシュラは勢い込んだ。
「ベルトリーニとマルファッティは、未だに、頻繁に行き来しています。両者は、強い師弟関係にあるのです」
「……」
フランソワが顔を上げた。
色のない瞳で、アシュラを見つめる。
必死になって、アシュラは訴えた。
「殿下。どうか、主治医を、お替え下さい」
「無理だ」
「なぜ?」
「マルファッティは、
「メッテルニヒの!」
アシュラは驚愕した。
「それでは……それではまるで、刺客を送り込まれたようなものじゃないですか!」
「刺客? 大げさな。宰相が、そこまで思いきったことを、するものか。大丈夫だよ。マルファッティの薬は、まるで効かない。明らかに、彼は、ヤブ医者だ」
「……治療をしない、という、作戦かもしれない」
「それも、大丈夫だ。僕は、医者が必要なほど、具合が悪いわけではない」
「なら、なぜ、マルファッティが往診してくるんです?」
「声がれは、さすがに困るからね。軍務に差し支える。いずれにしろ、単なる声がれだ。大した病気ではない」
「ですが……」
「お前も、心配するな」
強く、フランソワは言い放った。
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