剣の柄に手をかけた、まさにその時
「2週間! ありえない!」
枕元の黒い影が、ぶつぶつ言っている。
「やっぱりマルファッティは、ヤブ医者だ。少なくともそれは、間違いがない。一刻も早く主治医を替えてもらわねば……」
ぽっかりと青い目が開いた。
「……アシュラ。お前か?」
「あ、プリンス。気が付かれました? すみません。つい、声が大きくなって」
部屋には、フランソワとアシュラの他、誰もいなかった。
アシュラは、例によって、モルの格好をしていた。使いを出してモルを非番にし、自分が代わったのだ。
もそもそと、フランソワが起き上がろうとする。
「ダメですよ。寝てなくちゃ」
「寝込むほど、僕は、悪くないんだ……」
ぴたりと、額に手が宛てられた。
ぎょっとしてフランソワが目を上げると、アシュラが顔を顰めていてる。
「ひどい熱だ。マルファティはヤブだけど、寝てなきゃいけないのは、間違いありません。第一、咳をしたら、苦しいのは、あなた自身でしょう」
「手を離せ!」
掠れた声が叫んだ。
「僕に、触るな!」
「まあね。女性の白魚のような手でないのは申し訳ないですけど」
ぶつぶつ言いながら、アシュラは、彼の額から手をどけた。
「くそっ! こんな風に、軍を離れるなんて! コレラの蔓延で、民は不安に戦いている。この国家の危機に、僕は立ち向かわねばならないのだ。それなのに、剣の柄に手をかけたまさにその時、大切な持ち場を離れるなんて…………」
言い終わらないうちに、咳の発作に襲われた。横たわったまま、彼は、体を丸めた。
「僕のしたことは、敵に直面して、動揺するのと同じことだ」
いたましげに、アシュラがその背をさする。
「皇帝が命令されたんです。あなたは、なんら、恥じることはないんです」
再び、熱を計ろうとする。フランソワは、その手をはねのけた。
「皇帝に逆らえますか? 軍人として」
静かにアシュラは尋ねた。
フランソワは、頭から布団を引き被った。
「……持ち場を離れたのは、皇帝の命令だからだ。その事実は、確かに、僕の立場を守ってくれる。敵と戦うことよりも、法と秩序を守る方が、重要だからな。でも、お祖父様は、僕の名誉なんて、気にかけてくれちゃいないんだ。義務が呼んでいるのに、危険な持ち場から離れるなんて考え方には、本当に、うんざりさせられる……」
「今の貴方は、まるで子どもですね。大きな子どもだ」
布団の上から、アシュラは、ぽんぽんと、彼の体を叩いた。
「触るなよ!」
フランソワが激しく牽制した。
「僕に触るな」
アシュラはたじろいだ。
「前から思ってたんですけど、なぜ、そんなに、人から触れられるのがお嫌いなんです?」
怪訝そうに問う。
「なぜ? さあ、なぜだろう」
フランソワは首を傾げた。
「そんなことは、考えてみたこともない。ただ、嫌なんだ」
「きっと、人から、触られ慣れてないんですね。おかわいそうに」
「は? どういう意味だ?」
「変な意味じゃないですよ。ただ、家庭教師の先生方が、あなたをハグしまくるわけがないと、思ったものですから……」
「先生方が、そんなこと、するもんか」
「皇帝陛下は謹厳な方だし。お母様は滅多に帰っていらっしゃらない。その上、昔から、殿下の付き人には、女性がいませんしね。簡単な推理です」
「得意そうな顔をするな」
「人に触られると、血圧が落ち着くんです。私が、ハグしてあげましょうか?」
「遠慮する」
心から嫌そうな顔をして、フランソワは、横を向いた。
アシュラはためいきをついた。
「怒ってないで、おとなしく寝てなさい。そしたら、子守唄を歌ってあげましょう」
「お前の歌? 聞きたくない」
「じゃ、一緒に羊を数えてあげましょうか?」
「そんなことできるか!」
「ええと。じゃあ、やっぱり歌を……」
「本を読んでくれないか?」
フランソワが遮った。
「本……」
すでに、アシュラは、本棚の前に立っていた。
「どれにします? やっぱり、シラー? それとも、ラシーヌ?」
「バイロン卿の詩がいい。アシュラ。お前、時々、英語を話すだろ?」
「それは、変わり者の上司の影響で……」
言い掛けたまま、アシュラは肩を竦めた。
上司のノエは、ウィーンを出ていってしまった。
「バイロン。バイロン、バ、バ、バ……」
立ち並ぶ本の背表紙を、指で辿っていく。
「あ、あった」
手ずれのした革表紙の本を取り上げ、ベッド脇に戻ってきた。
「たくさんあるなあ。どの詩を読めばいいんです?」
「124ページだ」
「ナポレオンの詩ですね」
咳払いをし、アシュラは読み始めた。
「
さらば、大地よ!
我が栄光の立ち昇り、お前の名を凌駕した、フランスよ!
お前は、私を捨てた。
私はもはや、お前の過去でしかない
……
」
朗読が途切れた。
「……あの、これ、まずくないですかね?」
「なぜ?」
「だって、初っ端から、ナポレオン、没落してますよ?」
「構わない。続けろ」
「……。殿下が言ったんですからね」
「
さらばフランス
私がお前の王冠を戴いた時、
私はお前を、地球の宝石に変えてやったのだ
それなのに、お前の弱さは、
私がこんなにお前を愛している、今この時に、私に、お前から立ち去れと命じるのだ
お前の栄光は腐敗し、お前の価値は沈みゆく
……
」
「全くそのとおりだ。フランスなんて薄情な国だ! あなたのことを、きれいさっぱり忘れて、ルイ・フィリップなんかを王にして。去年の7月の革命の時!」
叩きつけるようにアシュラは本を閉じた。
「もういいでしょう? 不愉快です」
「最後まで」
掠れた声が命じる。
しぶしぶアシュラは、本を開き、読み勧めた。
「
……
しかし、しかし、私はまだ、
私の周りに在る者どもにまごつき
にもかかわらず、お前の心は、私の声で目覚めてくれるか?
私とお前との間は、決して破られぬ鎖で繋がれている
さあ、お前の番だ
お前自身の声で、お前の、次なる主を呼ぶがよい
」
「『次なる主』って……。ナポレオンは死んでいるのにね」
詩を読み終わり、ぽつんとアシュラはつぶやいた。
「次なる主……」
はっとした。
それは、……。
「父上は、僕を待っていらっしゃるのだ」
震える声が応えた。
「頑張らねば。僕は、病になんか、負けていられない……」
もがきながら起き上がろうとする。
熱のある身体を、アシュラは静かに抑えつけた。
「ナポレオンは死にました。それに、あの男の息子は、あなただけじゃない」
(もしかしてミュラの子かもしれないが)レオン、そして、ポーランドのアレクサンドル……。
彼らは、自分のやりたいように生きている。
「だったらあなただって!」
フランソワの体から力が抜けた。
アシュラの説得を聞き入れたのではない。
力尽きたのだ。
疲れた瞼を震わせ、彼は、眠りに落ちた。
*…*…*…*…*…*…*…*…*
※詩は バイロン ”NAPOLEON’S FAREWLL” を訳しました。
https://en.wikisource.org/wiki/The_Works_of_Lord_Byron_(ed._Coleridge,_Prothero)/Poetry/Volume_3/Napoleon%27s_Farewell
ライヒシュタット公が、バイロンを好きだったのは、本当のことです。
バイロンは、ギリシア独立に賛同し、トルコとの戦いに身を投じるためにギリシアへ向かいましたが、1824年、熱病の為、同地で客死しました。ギリシアが、トルコから完全独立を果たしたのは、バイロンの死から6年後(このお話の前の年)のことです(1830年、ロンドン議定書)。
ギリシア王には、ライヒシュタット公の名も上がりました。しかし、ギリシア正教の国です。メッテルニヒはおろか、厳格なカトリックであった祖父の皇帝の賛同さえ、得られませんでした。(この辺りは、7章「プロケシュ=オースティンとの出逢い」以下で、触れています)
ここでは、ナポレオンの詩なので恐らく読んだのでは、ということで、”NAPOLEON’S FAREWLL” を取り上げました。
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