鉄の意志とガラスの体
シェーンブルン宮殿を訪れたマルファッティは、長椅子で寝ているプリンスを見つけた。
顔は赤く、熱が高い。荒い息を吐き、ぐったりと、四肢を投げ出している。
マルファッティは、寝ている患者を見下ろした。
「何か御用ですか、マルファッティ先生」
つぶやくように、プリンスが言った。
……起きていたのか。
プリンスは、人から見下ろされるのを嫌う。が、さすがにこの時は、医師の非礼を叱責する気力がないようだった。
「お加減はいかがですか?」
マルファッティは、長椅子の傍らの椅子に腰を下ろした。
「僕は……」
プリンスが、かっと目を見開いた。
「僕の命令に従えない、身下げはてたこの体が、本当に、腹立たしい」
彼の目は
今までさんざん、無理を重ねてきたのだ。こうなることは目に見えていたではないかと、マルファッティは思った。
「こうなってしまったのは、とても残念なことです。ですが、プリンス。馬を取り換えるようには、ご自分の体を取り換えることはできないものですよ」
プリンスの馬好きは、図抜けていた。
軍務がなくても、ウィーンの端までくまなく馬で走り回り、ラクセンブルク(※)からウィーンの中心部まで、37分で駆け抜けたと豪語していたこともあった。
元気だった頃の……それは、軍務の始まる前の姿だった……プリンスを思い出し、マルファッティは、ため息をついた。
「あなたは、鉄の意志をお持ちだ。しかし、あなたのお体は、
この期に及んでも、マルファッティは、結核を認めなかった。
熱、咳、軽い血痰を伴う伝染性のカタル、と、彼は診断していた。また、プリンスは、右の肩の痛みを訴えていたが、これは、リウマチ性の疾患だとみていた。
*
2週間を、フランソワは、本を読んで過ごした。他にすることがなかったからだ。
「そのご本は、面白いですか?」
傍らにいたモルが声をかけた。
「お前はモルだな?」
「はい、私です」
フランソワは、読んでいた本を放り出した。ラシーヌの寓話だった。
「この本は、つまらない。もう何度も読んでいるからな。
「バイロン卿の詩が、お好きなのでしょう? 私が読んで差し上げましょうか?」
すかさずモルが、気をそらそうとする。
シェーンブルンに来てから、プリンスの具合は、だいぶ持ち直してきた。激しい熱も、幾分かは、治まった。だが、ひどく疲れやすく、その上、血痰の混じった咳が出る。
外へ出すわけにはいかない。
「いい」
横たわったまま、素っ気なく、フランソワが断った。
モルは、肩を竦めた。
彼より14歳若いこの上官は、時折、辟易するほど高圧的だった。
そうすることで、かろうじて、モルとの年齢差……そして、軍務における経験の差……を埋めようとしている気がしてならない。
「誠実な人間なんて、いるのかな……」
少しすると、風のそよぎのようなつぶやきが聞こえてきた。
「やっと、尊敬できる人を見つけたと思っても、結局は、いなくなってしまうし……」
誰を指すかは、モルには、すぐ、わかった。
プロケシュ少佐だ。
プリンスが病気だというのに、この「親友」は、ボローニャから見舞いに来ない。手紙の一本さえ、寄越さない。
「私がいるじゃありませんか」
あえて、明るく、モルは言った。
「殿下、ご存じですか? 私と殿下には、共通点があるんですよ?」
「お前と?」
フランソワは眉を上げた。
モルは、もの静かな男だった。気が利いて、面倒見が良い。そして、重ねてきた年齢から、自分の本心を隠す術も習得していた。
控えめな彼が、上官と共通点があるなどと言い出すのは、珍しいことだった。
かたえくぼを作って、モルは微笑んだ。
「ご存じのように、私の父は、
「ああ、そうだったな」
「プリンスと同じじゃありませんか」
「違うだろ」
「父と母が逆になりますが。殿下の母上は、オーストリアの皇女で、ドイツ人。そして、父君は……」
「僕の父は、フランス人だ」
きっぱりとプリンスが言い放つ。
やんわりと、モルは微笑みを返す。
「ですが、ナポレオンは、コルシカ島の出身でしょう? 元来、彼は、イタリア人ですよ」
「違う!」
「『
フランソワは、怒ろうかどうしようかと、ためらっているようだった。
父がかつてフランスの帝王であったことは、彼の誇りなのだ。
結局、彼は、怒らなかった。モルの口調があまりに穏やかだったせいかもしれない。
青い瞳を、付き人に向けた。
「よく知ってるな」
「調べましたから」
あっさりと、モルは答えた。
「私と殿下に共通点があったら嬉しいな、と思ったんです」
「ふうん。だが、僕は、イタリアのことなど、まるで知らないぞ」
彼は、母を守るために、
あの時、モルは、本当に、はらはらした。もし、プリンスがイタリア進軍などということになったら、付き人としてモルも、
幼いころ、母の膝下で育ったモルには、自分は、ドイツ人というより、イタリア人という意識の方が強かった。
逸るプリンスを、皇帝と宰相が止めてくれて助かったと、モルは思ったものだ。
「それでしたら、このご本はどうでしょう」
彼は、書棚から、一冊の本を抜き取った。
「“Le Gé nie du Christianisme”(『キリスト教の中心』) ……シャトーブリアンの詩です。イタリアの文化を、壮麗に歌い上げています」
シャトーブリアンは、フランスの詩人である。プリンスの不興を買わない自信はあった。
無言で、プリンスは、本を受け取った。
「お前は、詩を読むのか?」
ぺらぺらと本を繰りながら、プリンスが尋ねた。
「いいえ。読むとしたら、新聞くらいでしょうか。そのご本は、町の本屋に勧められました」
レオポルシュタット界隈の小さな本屋だ。フランス関連の本が多いと聞いて、わざわざ足を運んだ。
「新聞……」
羨ましげな色が、プリンスの顔に浮かんだ。彼は、外国の新聞を読むことを禁じられていた。
それを、モルは、別の意味に捉えた。読書をしないことを、非難されていると思ったのだ。
「ですが、朗読なら、得意です。声を出して読んだ方がわかりやすいというか」
「それなら……」
プリンスは、何か言いかけて、止めた。
「ダンスホールの控室で、くだらないおしゃべりに興じるよりも、本を読んでいる方が、ずっと楽しい」
とだけ、彼は言った。
・~・~・~・~・~・~・~・
※ラクセンブルク
ウィーンから南へ、約15キロ、現在なら、バスでおよそ30分ほどのところにあります。
ライヒシュタット公は、バスと同じスピードで馬を走らせたわけですね。途中、渋滞もないでしょうから、もっと早く……。
ラクセンブルクには、美しい庭園と城があります。
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