鉄の意志とガラスの体



 シェーンブルン宮殿を訪れたマルファッティは、長椅子で寝ているプリンスを見つけた。

 顔は赤く、熱が高い。荒い息を吐き、ぐったりと、四肢を投げ出している。

 マルファッティは、寝ている患者を見下ろした。


 「何か御用ですか、マルファッティ先生」

つぶやくように、プリンスが言った。


 ……起きていたのか。

 プリンスは、人から見下ろされるのを嫌う。が、さすがにこの時は、医師の非礼を叱責する気力がないようだった。


「お加減はいかがですか?」

 マルファッティは、長椅子の傍らの椅子に腰を下ろした。


「僕は……」

プリンスが、かっと目を見開いた。

「僕の命令に従えない、身下げはてたこの体が、本当に、腹立たしい」

 彼の目はくうを見据え、何も見てはいなかった。


 今までさんざん、無理を重ねてきたのだ。こうなることは目に見えていたではないかと、マルファッティは思った。

「こうなってしまったのは、とても残念なことです。ですが、プリンス。馬を取り換えるようには、ご自分の体を取り換えることはできないものですよ」


 プリンスの馬好きは、図抜けていた。

 軍務がなくても、ウィーンの端までくまなく馬で走り回り、ラクセンブルク(※)からウィーンの中心部まで、37分で駆け抜けたと豪語していたこともあった。

 元気だった頃の……それは、軍務の始まる前の姿だった……プリンスを思い出し、マルファッティは、ため息をついた。


「あなたは、鉄の意志をお持ちだ。しかし、あなたのお体は、硝子クリスタルでできているのです。意思の命じるままに、ご無理を重ねておられますと、今に、お体を損なってしまわれますぞ」



 この期に及んでも、マルファッティは、結核を認めなかった。

 熱、咳、軽い血痰を伴う伝染性のカタル、と、彼は診断していた。また、プリンスは、右の肩の痛みを訴えていたが、これは、リウマチ性の疾患だとみていた。







 2週間を、フランソワは、本を読んで過ごした。他にすることがなかったからだ。


「そのご本は、面白いですか?」

傍らにいたモルが声をかけた。

「お前はモルだな?」

「はい、私です」


 フランソワは、読んでいた本を放り出した。ラシーヌの寓話だった。

「この本は、つまらない。もう何度も読んでいるからな。シェーンブルンここへ来てから、僕は、自分でもびっくりするほどたくさん、本を読んだ。読書はもう、飽き飽きだ。ああ、外へ出たいなあ」


「バイロン卿の詩が、お好きなのでしょう? 私が読んで差し上げましょうか?」

すかさずモルが、気をそらそうとする。


 シェーンブルンに来てから、プリンスの具合は、だいぶ持ち直してきた。激しい熱も、幾分かは、治まった。だが、ひどく疲れやすく、その上、血痰の混じった咳が出る。

 外へ出すわけにはいかない。


「いい」

 横たわったまま、素っ気なく、フランソワが断った。


 モルは、肩を竦めた。

 彼より14歳若いこの上官は、時折、辟易するほど高圧的だった。

 そうすることで、かろうじて、モルとの年齢差……そして、軍務における経験の差……を埋めようとしている気がしてならない。


 「誠実な人間なんて、いるのかな……」

少しすると、風のそよぎのようなつぶやきが聞こえてきた。

「やっと、尊敬できる人を見つけたと思っても、結局は、いなくなってしまうし……」


 誰を指すかは、モルには、すぐ、わかった。

 プロケシュ少佐だ。

 プリンスが病気だというのに、この「親友」は、ボローニャから見舞いに来ない。手紙の一本さえ、寄越さない。


「私がいるじゃありませんか」

あえて、明るく、モルは言った。

「殿下、ご存じですか? 私と殿下には、共通点があるんですよ?」

「お前と?」

フランソワは眉を上げた。


 モルは、もの静かな男だった。気が利いて、面倒見が良い。そして、重ねてきた年齢から、自分の本心を隠す術も習得していた。

 控えめな彼が、上官と共通点があるなどと言い出すのは、珍しいことだった。

 かたえくぼを作って、モルは微笑んだ。


「ご存じのように、私の父は、オーストリアこの国の行政官……ドイツ人でした。そして、母は、イタリア人です」

「ああ、そうだったな」

「プリンスと同じじゃありませんか」

「違うだろ」

「父と母が逆になりますが。殿下の母上は、オーストリアの皇女で、ドイツ人。そして、父君は……」

「僕の父は、フランス人だ」


 きっぱりとプリンスが言い放つ。

 やんわりと、モルは微笑みを返す。


「ですが、ナポレオンは、コルシカ島の出身でしょう? 元来、彼は、イタリア人ですよ」

「違う!」

「『Buonaparteブオナパルテ』という姓は、遅くても12世紀には、イタリアの各地で見られたそうですよ」


 フランソワは、怒ろうかどうしようかと、ためらっているようだった。

 父がかつてフランスの帝王であったことは、彼の誇りなのだ。

 結局、彼は、怒らなかった。モルの口調があまりに穏やかだったせいかもしれない。

 青い瞳を、付き人に向けた。


「よく知ってるな」

「調べましたから」

あっさりと、モルは答えた。

「私と殿下に共通点があったら嬉しいな、と思ったんです」

「ふうん。だが、僕は、イタリアのことなど、まるで知らないぞ」


 彼は、母を守るために、イタリアパルマへ進軍しようとしたくらいである。



 あの時、モルは、本当に、はらはらした。もし、プリンスがイタリア進軍などということになったら、付き人としてモルも、イタリア人同胞と戦わなければならない。

 幼いころ、母の膝下で育ったモルには、自分は、ドイツ人というより、イタリア人という意識の方が強かった。

 逸るプリンスを、皇帝と宰相が止めてくれて助かったと、モルは思ったものだ。



 「それでしたら、このご本はどうでしょう」

彼は、書棚から、一冊の本を抜き取った。

「“Le Gé nie du Christianisme”(『キリスト教の中心』) ……シャトーブリアンの詩です。イタリアの文化を、壮麗に歌い上げています」


 シャトーブリアンは、フランスの詩人である。プリンスの不興を買わない自信はあった。

 無言で、プリンスは、本を受け取った。


「お前は、詩を読むのか?」

ぺらぺらと本を繰りながら、プリンスが尋ねた。

「いいえ。読むとしたら、新聞くらいでしょうか。そのご本は、町の本屋に勧められました」


レオポルシュタット界隈の小さな本屋だ。フランス関連の本が多いと聞いて、わざわざ足を運んだ。


「新聞……」


 羨ましげな色が、プリンスの顔に浮かんだ。彼は、外国の新聞を読むことを禁じられていた。

 それを、モルは、別の意味に捉えた。読書をしないことを、非難されていると思ったのだ。

「ですが、朗読なら、得意です。声を出して読んだ方がわかりやすいというか」


「それなら……」

 プリンスは、何か言いかけて、止めた。

「ダンスホールの控室で、くだらないおしゃべりに興じるよりも、本を読んでいる方が、ずっと楽しい」

とだけ、彼は言った。







・~・~・~・~・~・~・~・


※ラクセンブルク

ウィーンから南へ、約15キロ、現在なら、バスでおよそ30分ほどのところにあります。

ライヒシュタット公は、バスと同じスピードで馬を走らせたわけですね。途中、渋滞もないでしょうから、もっと早く……。


ラクセンブルクには、美しい庭園と城があります。






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