アレネンバーグ城の密談 3
「
それまで黙っていたボンベルが口を開いた。彼は、在スイスの、オーストリア大使である。
「ナポレオン2世を返してくれたら、フランス国内のあらゆる陰謀を、ウィーン政府に密告する、とのことです」
「……」
ディートリヒシュタイン侯爵は、
オーストリアの大使ではあるが、彼は、元々は、フランス人だ。
「君は、それを?」
「
「うむ」
ディートリヒシュタイン侯爵は頷いた。
口を曲げ、侯爵は尋ねた。
「
「返事はまだです」
ディートリヒシュタイン侯爵は、その場の人々の顔を見渡した。
「それで、君たちは、私にどうしてもらいたいのかね?」
「オーストリア皇帝に、とりなしてもらいたいのです」
侯爵の言葉が終わるのを待ちかねたように、プロケシュが口を開いた。
「メッテルニヒが、プリンスを、ウィーンから出すなんて、考えられない! 宰相は、個人的にプリンスを憎んでいます。かつての仇敵、ナポレオンの息子を。しかしそれは、正義ではない。全くもって、ナンセンスです。だから……」
きっと、プロケシュは、侯爵を見据えた。
「僕が、プリンスを、ウィーンから連れ出します」
「私も手伝うわ!」
意気込んで、ナポレオーネが叫んだ。
「そのために、今まで、男装して、乗馬やフェンシングの練習に励んできたのよ!」
ちらりと、プロケシュは、ナポレオーネを見た。だが、何も言わなかった。
「けれど……」
不意に彼は、気弱な口調になった。
「プリンスは、
「君は、長く続いた、わがディートリヒシュタイン家を、潰す気か!」
大声で、侯爵は叫んだ。
一同は、息を呑み、怯んだ。
確かに、ディートリヒシュタイン兄弟は、反メッテルニヒ派だ。だが、反皇帝派というわけではない。逆だ。ディートリヒシュタイン家は、今まで、ハプスブルク皇室に対して、絶対の忠誠を貫いてきた。
ふっと、侯爵が息を漏らした。
「私も、モントロン伯爵。
プロケシュに向き直る。
「君がここにいたことは、報告しない。君は君の正しいと思った道を行き給え、プロケシュ少佐」
「侯爵! それでは……」
驚きに、プロケシュは、言葉を詰まらせた。
「なんだ、その顔は!」
むっと、ディートリヒシュタイン侯爵は文句をつけた。
「私だって、長い間、
座っていた椅子から、立ち上がった。
「プロケシュ少佐。プリンスが君に賛同したのなら……君たちが行動を起こした時に、皇帝に話を通そう」
「侯爵……なんとお礼を申し上げたらいいか……」
「礼? まだ早いぞ。プリンスが何と言うか、わからんからな」
「彼は、フランスに行きたがっています! 父の遺志に、従いたいのです」
「……どうかな」
ふと、侯爵の顔が曇った。
反対に、プロケシュは勢い込む。
「家庭教師の
「確かに、彼がフランス王位に就くのは、弟の悲願だ。だが、その期待が、プリンスを苦しめてはいないだろうか?」
「まさか! 彼にとって、ナポレオンの言葉は、絶対なんですよ?」
「そうかな。彼には、静かに生きるという選択肢は残されていないのだろうか? 彼自身が選んだ軍務……オーストリア将校として、平凡に生きる道は、許されないのだろうか?」
「なんですって?」
プロケシュは激高した。
「彼に、一介の将校として生きろと? ウィーンから出してもらえないのに? 実戦には絶対に出してもらえず、出世や栄達の道は、永久に閉ざされているというのに?」
「……いや」
ディートリヒシュタイン侯爵は、頭を振った。
全くそのとおりだと思ったからだ。
だが、それは口にしていいことではない。
今までの会話はなかったかのように、彼は、話を戻した。
「皇帝とは別に、私から、ヨーハン大公とカール大公に、援護射撃を頼むつもりだ。弟君二人から説得されたら、皇帝だって、四角四面の堅物ぶりを貫徹はできまい」
再び味方に戻った侯爵に、プロケシュは、戸惑いを隠せない。
その彼を、ディートリヒシュタインは、軽く睨んだ。
「特に、ヨーハン大公と奥方には、よくよく話しておく。プリンスは今、具合が悪い。スイスへ来る前に、アルプスで一休み、ということも、計画に加えておく必要がある」
「プリンスは、ご病気なのですか?」
思わず、プロケシュが叫んだ。その顔が、みるみる曇っていく。
「ああ。熱と咳がひどくてな。シェーンブルン宮殿で、休養中だ」
「だって、プリンスは、6月に、正式に軍務についたばかりじゃないの!」
ナポレオーネが割って入った。お前が悪い、とでも言わんばかりに、ディートリヒシュタイン侯爵を睨みつけた。
「それは凛々しい将校ぶりだったって、評判よ!」
「よくご存知ですな、お嬢さん」
侯爵は皮肉っぽく褒めた。傍らで、オルタンスが、居心地が悪そうに、もじもじしている。
オルタンスが、オーストリア宮廷へスパイを放っているというのは、有名な話だ。カール大公の子どもたちと、ライヒシュタット公の子どもらしいやりとりは、いつの間にか、フランスに伝わっていた。(※)
今回も、オルタンスが、
彼女らは、彼が、正式に軍務に就いたまでは把握していた。だが、そこから先の報告が、まだ上がっていないのだ。
「プリンスが病気……。それなのに僕は、こんなところで……」
打ちひしがれたように、プロケシュがつぶやいた。
「シェーンブルンから、プリンスは君に手紙を出したそうだよ。返事がないので、がっかりしていたと、弟が嘆いていた」
さらにディートリヒシュタイン侯爵が追い打ちをかける。
「しまった! 行き違いになったんだ! こうしちゃいられない。すぐにウィーンに行かなくちゃ」
飛び跳ねるように、プロケシュが立ち上がった。すぐに頭を抱える。
「ああ、だめだ!
「一度、ボローニャへ帰ればいいだろう? 改めて、ウィーン勤務の申請をすればいい」
ディートリヒシュタイン侯爵が言うと、ようやく答えが見つかったというように、プロケシュは、大きく頷いた。
動転のあまり、何から手を付けたらいいのか、わからなくなっていたようだ。
「いずれにしろ、僕は急ぎます。失礼します、皆さん!」
「プリンスを連れ出す日取りが決まったら教えて! 計画を立てなくちゃ!」
後を追って走りながら、その背中に向けて、ナポレオーネが喚き立てる。
「プリンスの同意を取り付けたら、すぐに!」
振り向いて、プロケシュが叫び返した。
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