タバコ と がみがみ先生


 去ったとはいっても、ディートリヒシュタインは、ひっきりなしに、プリンスの元を訪れた。

 辞表を出さない、とは、つまりそういうことなのだ。

 ディートリヒシュタインは、教え子のことが、気がかりだった。

 特にその、健康面が。




 「あっ! 葉巻!」

 ある日、宮殿に帰ったプリンスの元を訪れ、ディートリヒシュタインは叫んだ。

 プリンスの机の上には、封を切ったばかりの葉巻が、無造作に放り出してあった。

「ダメでしょう、プリンス! あなたは呼吸器が弱いんだ。葉巻の煙は、肺に良くない。咳がひどくなるばかりですぞ!」


「だって、マルファッティ先生は、肝臓の病だって言ったじゃないですか」

負けずに、フランソワも言い返した。



 兵舎で煙草は、日常だった。

 吸わない者の方が、少ないくらいだ。

 兵たちの仲間でいるために、また、新しい司令官として、煙草を吸わないわけにはいかないと、彼は、感じていた。



 だが、ディートリヒシュタインは、断固として譲らなかった。

「肝臓の病だろうが、皮膚の病だろうが、咳が出るでしょうが。あなたの新しい軍の付き人は、あなたの健康を、きちんと管理してくれているのですか? なんだか、痩せたように見えますよ?」

「そんなことはありません。絶好調です」


 プリンスの言うことなど、ディートリヒシュタインは、耳に入らないようだった。かつての家庭教師は、なおも小言を繰り出した。


「喫煙なんて、ひとつもいいことがありません。単なる英国かぶれです。あなたのお母様は、あなたは、亡くなったお父様ナポレオンの、虚勢と欲望を真似ているんだって、おっしゃってましたよ!」


 そもそも、スペインで限定的に用いられていた葉巻を、ヨーロッパ全土に広げたのは、ナポレオンである。

 フランソワは、ぎょっとしたような顔になった。


「母上に、報告したんですか?」

「もちろんですとも! 私とパルマ女公マリー・ルイーゼ様との間には、あなたという、それはそれは強い絆が、」

「止めます。煙草、もう、止めますから」

「そうなさい」

断固として、元家庭教師は言い放った。


「それからね、プリンス。あなたのパルマへの手紙は、この頃、短かすぎます。気の毒なお母様へ、近況をしっかりお知らせしなければなりません」

「はい、先生」

「たった16行というのは、許しがたい親不孝ですぞ」(※この前の「軍務開始!」参照下さい)

「……はい」

「遠いパルマで、お母様は、いつも、あなたのことを心配しておられるのですからな!」


 さんざん小言を吐き散らし、ディートリヒシュタインは、退出していった。


 「怒られましたね」

部屋の隅から、黒い影が現れた。


「今日はどっちだ? お前か、アシュラ」

「間違わないでくださいよ。私はモルとは全然、違います」

憮然として、アシュラは反論した。

「いいや、よく似ているぞ? 並んでるところを見たことはないが、きっと、双子のように見えるだろう」

「遠目は似てますがね。だから、入れ替わりがたやすいわけで……」


 言いながら、アシュラは、机に向かったままのフランソワに近づいた。

 背後からそっと覗き込む。


「さっそくお母様に手紙を書いているんですね? 勤勉なことだ。なになに? 

 私は汗でずぶ濡れになって帰ってきました。ここのところの暑さには、窒息しそうです。軍服というものは、夏の暑さには、全く向いていません……

なるほど。気候の話で、ガサを増やそうという作戦ですね?」


「こらっ! 読むな!」

 書きかけた手紙を、フランソワは、机にうつ伏せ、両手で覆い隠した。

 上着の襟元から、黒いクラバットを巻いた首筋があらわになった。

「おや、殿下。また首を締め上げることにしたんですか?」


 哀しみを帯びた声だった。アシュラは、フランソワの首筋に固く巻きつけられたクラバットを、人差し指の腹で、そっと撫でた。

 熱湯でも浴びせられたかのように、フランソワは、しゃんと上半身を起こした。


「下がれ」

細くしゃがれた声で、彼は叫んだ。

「僕はこれから、お母様に手紙を書かなくちゃならない。その後には、また、軍務が控えている。お前の相手をしている暇はない」


「……殿下。ディートリヒシュタイン先生がおっしゃったばかりじゃないですか。ご無理をしてはいけません」

「無理などではない!」

「だって、毎朝4時に起きて訓練、なんてのは、やりすぎです。まだ暗いじゃないですか。乗馬の時間も、増えたし」


「それが、僕の任務なのだ」

 決然と、フランソワは言い放った。

 やや声を緩めた。

「お前は、自分を信頼してくれる者を、裏切れるか? 僕は、兵士たちの期待を、裏切れない。そんなことをしたら、この僕には、何の価値もなくなってしまう」


「そんなことはありません! あなたに価値がないなどと……」

「アシュラ。軍隊はいいぞ。お前も、軍に入れ」

「いやです」

「……即答だな。なら、こう言おう。軍服を着ていると、女の子にもてるぞ?」

「将校ならね。どうせ私は、一兵卒、到底、もてるとは思えません」


 エオリアは結婚してしまったし。

 出かけた言葉を、寸前でアシュラは留めた。


 フランソワは、肩を竦めた。


「残念だな。軍に入れば、お前とも、家族になれると思ったのに」

「家族?」

「軍の仲間は、みな家族だ。共に苦楽を分け合う。戦場では、生死さえも。兵士たちは、強い絆で結ばれているんだ。僕にもやっと、家族ができたんだよ」

「……へえ」

「軍に入れ。そして、僕に従え」

「いやです。ねえ、殿下。声が掠れているじゃないですか。さっきから、咳を我慢していらっしゃいますね? 誤魔化してもダメです。呼吸が浅く、息が上がっている。少し、お休みなさい。この後の仕事って、パレードの指揮でしょう? なにもあなたでなくも務まる筈、」


言いかけたアシュラを、フランソワは遮った。


「知性と心。義務と名誉。これらにより、僕は、フランスと戦うことはできない。、僕は、僕の戦友たちが勝利の栄冠を手に帰ってくるのを、ただ、突っ立って見ていることしかできないんだ。僕の剣は、実戦の時には、錆びついてしまっているだろう。所詮は、パレードの時にしか輝くことができないシロモノなんだ」


「殿下……」


「知ってる。フランスと戦えない僕は、お飾りの将校だ。このウィーンから出して貰えなかったのが、何よりの証拠だ。だが、そんな僕を信じて付き従ってくれる兵士部下たちがいる。何度でも言う。僕は彼らの期待を、決して裏切ることはできない」


 フランソワは立ち上がった。

 背の高い彼は、アシュラを見下ろした。

 青い瞳が、黒い目を射すくめる。

 アシュラに、反論は、できなかった。


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