軍務開始!
その年(1831年)6月14日。
フランソワの、軍務が始まった。
朝、8時。宮殿に、ハルトマン将軍が迎えに来た。去年の秋から配属された、軍の付き人だ。皇帝から、彼の
「プリンス……」
階上から現れたフランソワに、ハルトマンは見惚れた。
白い将校の服に、金のボタン。真新しい青いズボンには、将校を表す飾りが、腰から垂れている。
なにより、背の高い、すらりとしたその姿。ウエストを絞った軍服を、これほど優雅に着こなした軍人を、ハルトマンは、他に知らない。
フランソワは、先に立って歩き始めた。
実際の軍務へ。
彼の連隊へ。
あるべきはずの、未来へ向けて。
次に宮殿を訪れたのは、ディートリヒシュタイン伯爵だった。
彼は、宮殿官吏に申し伝えた。
「プリンスが任官、独立された今、家庭教師としての私の仕事は終わったと考える。よって、私は、ライヒシュタット公の家庭教師を、辞任する」
辞表を出さずに、ディートリヒシュタイン伯爵は、去っていった。
残る二人の家庭教師、フォレスチとオベナウスは、プリンスの「
これが、ディートリヒシュタインの、けじめのつけ方だった。
宮廷で、密かに囁かれ始めた、悪意ある流言飛語への。
……ディートリヒシュタイン伯爵は、ライヒシュタット公の家庭教師の立場を利用して、皇帝さえも自由に操ろうとしている。
もちろん、噂の出所は、予想がついている。ディートリヒシュタイン兄弟は、反メッテルニヒ派だ。
*
馬に乗った若い将校が、大隊の指揮を取っている。
白い軍服の胸は、青みがかった緑の組紐で飾られている。銀色の縁取りがしてある青いズボンに包まれた長い脚が、馬の腹に長く垂れている。
将校は、とても誇らしげだ。
アルザー通りの兵舎、16日午前6時。
ライヒシュタット公は、初めて、彼の大隊の指揮を執った。最初の任務は、自分の大隊を、
グラシの外側は、空堀だ。
連隊は、空堀の斜面を登る訓練を始めた。
11時。
わずかな兵を率いて、軍事病院から儀式祭典のパレードを指揮した。亡くなった将校の、葬送パレードだ。
従軍に比べれば、重要な任務ではない。しかし、若い司令官は、使命感に燃えて、与えられた任務を遂行した。
実務初日、僅かな暇を盗むようにして、ライヒシュタッと公は、
「
皇帝が軍務をお与え下さり、僕は、とても嬉しいです。とても幸せです。僕の仲間は、半分以上が新兵で、そして、素晴らしい若い将校たちがいます。将校も兵士も、みな、この世で最も尊い意思に駆り立てられており、一緒に訓練することで、僕たちの間には、絆が生まれつつあります。
もっと長い手紙を書きたいのですが、世界で一番好きなママ。でも、次の任務が始まると補佐官が知らせてきました。
こんな短い手紙でごめんなさい、大好きなママ。初めて軍務に就いた喜びを、どうしても、貴女にお知らせしたかったので。
」
(※ この手紙は、全部で16行でした)
兵士たちは、若い将校に熱狂した。
今までの指揮官は、彼らを、厳しく監督した。体罰も容赦なく行われ、家畜のように扱われることさえあった。
だが、今度の新しい将校は、違った。
部下に厳しいことには、変わりがない。それは、兵卒達に軍規を守らせる為に、どうしても必要だ。
だが、ライヒシュタット中尉は、若い兵たちに、「誇り」という概念を教えてくれた。
国を守る誇り。
兵士であることの誇り。
それは、食い詰め、きちんとした食事につられて兵士になった若者たちには、初めて触れる概念だった。
金髪碧眼の司令官は、美しかった。
彼が姿を現すと、自然、兵士の間から、低い感嘆の声が沸き起こった。
ライヒシュタット公の指導教官ヴァーサ公は、これは軍規違反だと、何度も指摘した。
兵卒たちが司令官に対して歓声を挙げるなど、あってはならないことだ。
軍においては、秩序が何よりも大切だ。それがなければ、戦局で力を発揮できない。甚だしきに至っては、兵の反乱や逃亡を許してしまう。
一方で、若きライヒシュタット中尉の統率は、厳しかった。彼は、軍における秩序の重要さを、よく理解していた。
ついにヴァーサは、兵達を、軍規違反に問うことはやめた。
それどころか、ふと気づけば彼自身も、この年若い将校に、その軍務への情熱に、うっとりと見惚れていた。
……
*
ウィーンの街の大通りを、典礼の軍隊が通り過ぎていく。
先頭の指揮官は、白い制服の胸に、勲章を2つ、飾っていた。
ひとつ、セント・シュテファン勲章。これは、彼が生まれた時、祖父の皇帝から与えられたものだ。
もうひとつは、セント・ジョージ勲章。パルマの母親から与えられたもの。
2つの勲章にも勝って、白皙の美貌が、斜めに被った帽子の下から、輝いて見える。
「ちょっと、お姉ちゃん。押さないでよ!」
朝から沿道に陣取っていた妹が、姉を押し返す。
「あなたこそ、どきなさいよ。ライヒシュタット公が行進してきても、見えないじゃないの」
「痛いっ! 押さないでったらっ! わたし、一番前で見るのよ!」
「私だって見るのよ!」
賑やかな軍楽隊の太鼓の音が伝わってきた。
若い娘たちの黄色い声が、それに混じって聞こえてくる。
「やだ! もう来るわ!」
「お姉ちゃん、私の髪型、おかしくない?」
「彼には、あなたなんか見えはしないわよ。もうっ! どきなさいってば!」
「いやよっ!」
「二人とも、おどき」
太く逞しい腕が、二人の娘を左右にかき分けた。彼女らの母親だ。二人の左右で押された娘達が、不満げに、姉妹を睨む。
「ああ! いらっしゃった!」
群衆の最前列に立ちはだかり、姉妹の母が叫んだ。両手を胸の前で組んでいる。
「なんて美しい……まるで、ヴィーナスのよう……」
「ひどい! ちょっと母さん! 割り込むなんて、あんまりよ!」
「私にも見せて! ハンサム・デュークを見せてよう!」
叫ぶ姉妹の声は、すぐに、周囲の歓声に打ち消された。
もちろん、女性達ばかりではない。
皇帝の孫が指揮官ということで、物見高いウィーンっ子たちが集まってきていた。彼らは、好奇心と、それに負けず劣らず優しさをこめて、自分たちの
それでもやはり、観客は、女性が、多かった。
美しいと評判のプリンスだ。ライヒシュタット公は、巷では、ハンサム・デュークと呼ばれていた。
押しかけた女性たちは……年齢に関係なく……、頬にバラの花のような赤みを散らし、目を星のように輝かせて、騎乗の、若き司令官を見つめていた。
*
ホーフブルク宮殿で、ゾフィー大公妃は、息子のフランツ・ヨーゼフを遊ばせていた。歩き始めたばかりの子どもは、危なっかしい足取りで、壁を伝い歩きしている。
やがて、窓まで行き着くと、フランツ・ヨーゼフは動かなくなった。窓枠の上に立てた腕を、腹筋するように伸ばし、外を見つめている。彼は背伸びをし、かわいらしいお尻が、きゅっと上へ持ち上がる。
遠くから、賑やかな音楽が聞こえてきた。
養育係のバロネス・ストゥムフィーダーが、小さなプリンスを抱き上げた。急いでバルコニーへ出ていく。
「ゾフィー大公妃! 早くおいでなさい。ハンガリー第60連隊が、来ますよ!」
「!! 〇*◎*◎*、*****!」
彼女の腕の中で、小さなフランツ・ヨーゼフが、何かわけのわからない言葉を叫んでいる。彼は、興奮しきっていた。
「私の、『親愛なるお爺ちゃん』は、ちゃんと仕事をしていて?」
冗談のように言いながら、それでも、急いでゾフィーも、バルコニーへ出た。
……親愛なるお爺ちゃん。
それは、彼女が彼を呼ぶ、呼び名だった。たった6歳しか年上でないのに、彼が彼女のことを、「僕のママン」などと呼ぶからだ。
冠頭(旗竿の先端)に、艶やかな花飾りをつけた皇室の旗がやってきた。
青い空に艶やかに翻る旗の下には、黒い馬がいた。
愛馬、ムスタファに跨がり、ほっそりとした将校が現れた。ぴんと背筋を伸ばした、堂々たる乗馬姿だ。
「!♪☆○*◆*☆☆!!」
フランツ・ヨーゼフが叫び、
「なんて、麗しい将校なんでしょう」
暴れるプリンスをしっかり抱きかかえ、バロネス・ストゥムフィーダーはつぶやいた。うっとりしている。
「お帽子を、少し傾けて、召していらっしゃいますね」
「あれは、ナポレオンの真似をしているのよ」
一緒になって、バルコニーから身を乗り出しながら、ゾフィーが答えた。
「馬の乗り方も、そう。本当にあの子は、なんでも、お父さんの真似をしたがるんだから。ほら、腰の剣を御覧なさい」
「あら、珍しい。湾曲した剣ですね」
「あれは、ナポレオンが、エジプトから持ち帰った剣よ。17歳で、彼が、初めて昇進した時、
(※ 5章「初めての昇進」ご参照下さい)
「そうだったんですか……」
感慨深く、バロネス・ストゥムフィーダーは、窓の下を眺めた。
「!!! □*▲☆、☆☆☆―――!」
フランツ・ヨーゼフが必死で、身を乗り出す。
だが、将校は、バルコニーの幼児と婦人たちの方を、見向きもしなかった。
真っ直ぐに前を見据え、脇目も振らず、そのまま通り過ぎていく。
「まあ。仕方のない子ね」
ゾフィーがため息をついた。
「あの子は、皇帝と私に対して、ちょっとした独立心を見せつけているのよ」
この春、プラーター(自然公園)へ遊びに行った時も、そうだった。彼は、
……「僕はもう、大人なんだ! もうすぐ、独り立ちするんだからね!」
後に会った時にゾフィーが問い詰めると、年若い青年は、胸を張って、そう答えた。
背はひどく伸びたのに、あまりの子どもっぽいもの言いに、ゾフィーは、思わず吹き出してしまったのだが……。
「残念ですねえ、プリンス。ライヒシュタット公は今、お仕事中なんです……」
傍らで、バロネス・ストゥムフィーダーが、幼いフランツ・ヨーゼフに説明している。
「++++++!!!」
フランツ・ヨーゼフは、それでも、満足そうだった。バロネス・ストゥムフィーダーの腕の中で、そっくり返って腹を突き出し、両腕両足をぴんと突っ張らせている。その顔は、満面の笑顔だった。
……でも、少し、お顔の色が悪いようだわ。
未来の皇帝を抱え直し、バロネス・ストゥムフィーダーは、そう感じた。帽子の陰になっているせいだろうか……。
「……」
傍らの大公妃に目をやり、バロネスは、言いかけた言葉を引っ込めた。
黒い馬の背ろには、赤いズボンの将校を載せた馬が続いていた。
美しい大公妃の目は、その馬に乗った将軍の上に注がれていた。
ライヒシュタット公の上官、グスタフ・ヴァーサ公の姿に。
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