ヴェローナ会議 2



 「これはこれは、フランス帝国帝妃、ナポレオン・ボナパルト夫人!」


 大声で話しかけられ、マリー・ルイーゼはぎょっとした。


 ナポレオン・ボナパルトの妻であった……。

 それは、紛れもない事実だ。

 だが、すでに彼は亡くなっている。


 近くにおいてくれと託されたナポレオンの心臓を、彼女は強堅に拒んだ。それでも、特に顔見知りの将軍が持ってきたいくつかの遺品は、断りきれなくて、受け取った。

 まとめて一室に放り込んであるそれらは、いつの日にか、ウィーンの息子に押し付けよう……いや、送り届けようと思っている。


 今やナポレオンは、彼女にとって、忘れたい過去だった。諸国の皇族や貴族、政治家の集まるこの場では、その名を、口にしてさえほしくはなかった。



「あいかわらずお美しいですな。まるで光り輝くようだ」

 やってきたのは、ウェリントン将軍だった。


 同盟国イギリスの大将であり、最終的にナポレオンを打ち破った将軍だ。

 かつての名将は年を取っていた。よたよたと近づいてきた。


「これはこれは、アレクサンドル帝もご一緒か」

「うむ。今、プリンスの話をしておったのだ。ナポレオン・ボナパルトの遺児の」


 まったくもって、このアレクサンドル帝も、無神経な男だ、と、マリー・ルイーゼは思った。


 ウェリントン将軍は重々しく頷いた。

「つい先ごろ、わしもお会いした。予想よりずっと背が高く、礼儀正しい紳士でしたな」


 フランツは、11歳だ。

 紳士、は、ウェリントン将軍のお世辞かもしれなかったが、マリー・ルイーゼは嬉しかった。


 ……それにしても、今日は、どの人もどの人も、みな、フランツの話をする……。

 その一方で、少し不満に思った。


 ……もっと他にする話もあろうに。

 パルマに引っ込んで暮らしていて、マリー・ルイーゼは退屈していた。

 華やかな都市の話を聞きたかった。





 「時に、マリー・ルイーゼパルマ女公殿。ここで会ったが百年目。ひとつ、御手合せ願えませんか?」

「え?」


 驚くマリー・ルイーゼに、ウェリントン将軍は、部屋の真ん中にしつらえられたカードゲームのテーブルを指さした。


 「これは面白い!」

マリー・ルイーゼが何か言う前に、アレクサンドル帝が叫んだ。

「ナポレオン・ボナパルトの妻と、かつて彼を打ち破った将軍との、一騎打ちだ! さて、どちらが勝つか!?」



「おや、粋な趣向ですな」

「ぜひ、観戦しなくちゃ」


「まあ、そんな……」



 人が、集まってきた。

 みな、期待に目を輝かせている。

 もはや断れる状況ではなかった。


「……一勝負だけですよ……」

 マリー・ルイーゼは、言われるままに、テーブルに導かれた。






 笑いさんざめく一同を、ルイ18世の新しい大使が、じっと見つめてた。


 1814年のパリ陥落でようやくナポレオンから王座を取り戻したブルボン王朝のルイ18世は、翌年、ナポレオンのエルバ島脱出で、その地位を追われた。

 だが、100日天下とも言われるナポレオンの復権はすぐに打ち破られ、ブルボン王朝は、再び、フランスに戻った。


 ルイ18世自身はあまり乗り気ではなかったといわれる。だが、白色テロ(ブルボン王権の象徴が白百合であることから、こう呼ばれる)といわれる、反王党派に対する激しい弾圧が行われた。


 ナポレオンを信奉するボナパルニストは、地下に潜伏した。

 1820年2月には、ルイ18世の甥、ベリー公が劇場から出てきたところを、狂信的なボナパルニストによって刺し殺されるという事件も起こっている。


 同じ年、パリの街を「ナポレオン、万歳!」「共和制、万歳!」「自由、万歳!」と言って行進する一団がいた。

 これには、「ナポレオン2世、万歳!」という声も混じっていた。フランスには、ナポレオンではなく、その息子の復権を望む者が存在するのだ。



 ナポレオンは翌年、没したが、油断はできない。


 注意すべきは、ボナパルニスらが、自由党、共和派、イアリアに根城を移した反王党派のカルボナリなど、現政権ブルボン王朝に不満を持つ、あらゆる党派と結びつきつつあるということだった。


 今や、「ナポレオン2世」に期待しているのは、ボナパルニストだけではない。反ブルボンのあらゆる党派が、ウィーンにいる彼を担ぎ出す危険がある。



 フランス大使、シャトーブリアンの目は厳しかった。



 シャトーブリアンは、筋金入りの反ナポレオン派だった。1811年、学士院アカデミー・フランセズに選出された時の就任演説は、徹底してナポレオン政権を批判したものだった。事前にその草案を読んだナポレオンは激怒し、彼は、就任演説をさせてもらえなかったという過去がある。


 破天荒な彼には、美しい庇護者がいた。その、レカミエ夫人は、ナポレオンから愛人になるよう命じられ、手厳しくはねつけた女性として名高い。


 ナポレオン没落後、シャトーブリアンは、ルイ18世を支持し、ヴェローナ会議では、フランスの全権大使を委任されていた。



 ふと、フランス大使の目が、かつての皇妃マリー・ルイーゼの腹部に止まった。


 作家でもあるシャトーブリアンは、その夜、本国へ、使者を送った。



「パルマ大公マリー・ルイーゼ様におかれましては、ご懐妊の模様です。

 マリー・ルイーゼ様は、ナポレオン・ボナパルトと別れて8年になります。

 だれか別の男との間の子……彼女にいつも付き従っている、ナイペルク将軍が怪しいと、推測しております。


 妊娠は、会いたいという幼い息子からの、度々の要請を断ってきた事実とも、符合します。


 彼女の心は、もはや、ナポレオン及びその息子の元にはありません。

 従って、もはや彼女が、ナポレオンの後継者として担がれることはないと思われます。


 今後目を向けるべきは、ただ一人、ナポレオン2世、ライヒシュタット公……」







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