ブラジルにて
遠く、新大陸ブラジル。
王妃、レオポルディーネは、読んでいた手紙から目を上げた。
ブラジルは、1822年、ヴェローナ会議が開かれた年、ポルトガルから独立したばかりだった。
新しいブラジル王には、ポルトガル王室のペドロ1世が即位した。
レオポルディーネは、その后妃である。
「お姉さまったら……」
顔が青ざめている。
彼女は、フランツ帝の娘だ。オーストリアの、ハプスブルク家から嫁いできた。
マリー・ルイーゼの、6歳下の妹になる。そして、兄妹の誰よりも、仲がいい。
なぜなら、マリー・ルイーゼもレオポルディーネも、「売られた花嫁」だったから。
オーストリアの敏腕外相、メッテルニヒによって。
マリー・ルイーゼは、侵略者、ナポレオンに。
妹のレオポルディーネは、ポルトガル王室、遠く海の向こうの、ブラジルへ。
……それぞれ、売り渡された。
レオポルディーネは、姉妹の中で、一番聡明な娘だった。
植物学や鉱物学など、さまざま学問に興味を持っていた。
ポルトガル語を含む、数ヶ国語にも堪能だった。
その聡明さを見込んで、メッテルニヒが白羽の矢を立てた。
彼は、新大陸の利権の確保を目論んでいた。
しかし、ポルトガル王室の皇太子、若きドン・ペドロには、不道徳だという噂があった。
非常に激しやすい性質だとも。
そんなところへ娘を嫁にやるのは、フランツ帝は、嫌だった。
不幸な結果になるのは、長女のマリー・ルイーゼだけでたくさんだ。
「『戦いは他の者に任せよ。オーストリア。幸いなるかな、汝は結婚せよ』です」
メッテルニヒは、しぶる皇帝ををかき口説いた。
「今ならまだ、戦わずして、新大陸の資源が手に入ります。血を流さずに世界に君臨する。それが、オーストリアのやり方ではないのですか?」
最後まで反対したが、父帝は、とうとう、メッテルニヒに押し切られた。
しかし、ナポレオンもそうだったが、ドン・ペドロも、心から花嫁に尽くす、優しい夫だった。
彼は、花嫁の白い肌に吸い寄せられ、深い教養に圧倒された。
初めのうちは。
1822年にブラジルがポルトガルから独立した頃から、次第に、フランツ帝の危惧は、現実のものとなってくる。
ドン・ペドロには、情婦がいた。
彼はこの女性を宮廷に引き入れ、恥知らずにも、妻付きの高級女官とした。
彼女は、レオポルディーネと同じ年・同じ月に出産した。
レオポルディーネと同じ、ドン・ペドロの子を。
次第に、夫の、妻に対する態度は、苛酷になっていった。
激したあまり、手を挙げたことさえある。
それでも、レオポルディーネは、夫に仕え続けた。
子を産み続け、彼らの養育に心を砕いた。
たとえ、わが子と妾の子を、同じ館で育てるのであっても、子を産むことを、止めなかった。
レオポルディーネは、決して、夫を裏切らなかった。
悪口さえ、口にしなかった。
子を産み、政務に励み、ハプスブルクの女としての務めを、懸命に果たし続けた。
レオポルディーネはうめき声を上げた。
マリー・ルイーゼからの手紙を持つ手が震える。
……お姉さま。
……これは、違うのではないですか?
……これではフランツが、あまりにかわいそうです。
マリー・ルイーゼが、フランツをハプスブルク家宮廷に連れ帰ったとき、レオポルディーネはまだ、ウィーンにいた。
初めて見た甥の印象は、確かに、父親によく似ている、というものだった。
だが、それでも、彼は、かわいかった。
フランツは、レオポルディーネにとって、始めての、自分の姉弟の子どもだった。身内の子どもというものは、こんなにもかわいいものかと、彼女自身、新鮮な驚きに浸った。
小さなこの甥を、レオポルディーネは、とてもかわいがった。
一方で、ウィーン宮廷には、ナポレオンに恨みを抱く者が大勢いた。
犯罪者の息子だと公言する者もいたし、いやいや、彼の父親は「
そうした言動に接するたびに、レオポルディーネは、体が震えるほどの怒りを覚えた。
心無い仕打ちから、なんとか幼い甥を庇おうと、彼女は常に心を配った。そして、親のいない彼に、少しでも多く、楽しみを与えようと努力した。
その、どれだけを、彼は覚えているだろう……。
今でも彼は、彼女の、かわいい甥だった。
マリー・ルイーゼからの手紙には、彼女が、また、妊娠したと書かれていた。
父親になるナイペルク将軍とは、去年、結婚はした。だが、安心して欲しい。重婚の罪は犯していないから……。
秘密の結婚だった。
父帝にもさえも、打ち明けていない。
去年、1821年に、ナポレオンは没した。
亡くなったのは、5月5日。
そして、8月7日(後にルイーゼ自身は9月と言っている)に、マリー・ルイーゼは、護衛官、ナイペルクと結婚した。
……確かに、重婚ではない。
同じ月の15日に、彼女は、ナイペルクとの間の、4人目の子を流産している。ちなみに8月15日は、故ナポレオン・ボナパルトの誕生日でもある。
最初の女の子の誕生は、1817年。
次の男の子は、1819年に生まれた。
いずれも、ナポレオンは、まだ、セントヘレナ島で健在だった。
レオポルディーネは、10年前のことを思い出した。
……なんて無思慮で自己中心的な手紙。
エルバ島にいたナポレオンから、こちらに来るよう求められた手紙を読んで、マリー・ルイーゼはつぶやいた。
その声に、わずかに恐怖の響きが含まれていたのを、妹のレオポルディーネは怪訝に思った。
……あの頃すでに、姉とナイペルク将軍は、そういう関係にあったのだ。
今初めて、レオポルディーネは、合点がいった。
……長い長い、裏切り。
ナポレオンの死は、姉を、どんなに安堵させたことだろう。
……ナポレオンは、そこまであなたを裏切りましたか?
レオポルディーネは両手で顔を覆った。
……どんなにひどいことをされようと、自分は、夫を、裏切れない。
ハプスブルクの姉妹の中で一番聡明な、そして真面目な彼女は、思った。
新婚の頃の、夫の、あの、まっすぐな優しさは、本物だった。
彼女に向けられた愛情は、真実だった。
たとえ一時でも、それある限り、自分は決して夫を裏切らないだろう。
レオポルディーネは、手紙を畳んだ。
手紙には、焼いてくれるよう、但し書きがしてあった。
そのまま、蝋燭の火をつけた。
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