ヴェローナ会議 1



 1822年、北イタリアのヴェローナで、国際会議が開かれた。

 ナポレオンの侵略に対して、団結して抵抗した同盟国は、ナポレオン亡き後も、彼の残した民族主義の名残りに対処する必要があった。


 ウィーン会議を皮切りに、国際会議が何度も開かれている。


 ヴェローナでは、スペインの革命について話し合われた。

 ナポレオン下のスペインは、ナポレオンの兄ジョセフに委ねられた。だがナポレオンの支配に反対し、新憲法が作られ、独立戦争が起こった。ジョセフは王位を追われ、ナポレオンのパリへ逃げ帰った。


 ジョセフの後は、ブルボン朝フェルディナンド7世が位についた。彼は、ジョセフ以上の反民主政治を行い、新憲法を破棄した。


 一方、ナポレオンの支配を認めないラテンアメリカの植民地でも独立運動が起こり、パラグアイ、ベネズエラ、アルゼンチン、チリ、コロンビアが独立した。

 この流れは本国にも波及し、首都マドリードの王宮は、革命軍に包囲された。フェルディナンド7世は憲法を復活させた。


 スペインの革命は、メッテルニヒのウィーン体制を揺るがせるものだった。フェルディナンド7世の要請を受け、ヴェローナ会議では、スペイン派兵が決まった。


 ヴェローナ会議では、その他にも、ギリシア独立問題、そして新大陸中部の国の独立問題なども話し合われた。


 だが、各国の利害が対立し、意見の一致はみられなかった。

 同盟国の協調外交は、破綻の危機に瀕していた。







 ウィーン会議の時には到底及ばないが、外国からの賓客をもてなす宴が、ヴェローナの各所で催された。

 パルマの近くだったので、マリー・ルイーゼも参加した。


 会議には、オーストリアの皇帝も出席していた。久しぶりに、マリー・ルイーゼは、実父に会うことができた。



 「お前がなかなか会いに来ないから、フランツが寂しがっている」

 音楽に身を任せ、優雅に踊る人々に目を向けながら、父帝は言った。

「もっとしばしば、会いにくることは難しいのか」

「なかなかパルマの内政も忙しくて」

マリー・ルイーゼは俯いた。


「そうか」

皇帝は頷いた。

「無理をしてはいけない。体は大丈夫か?」

「ありがとうございます、お父様。息災にしておりますわ」

「うん。体だけは大事にしなさい。少し、太ったようだな」

父帝に言われ、マリー・ルイーゼは顔を赤らめた。



 暫く、よもやま話が続いた。

「ブラジルへ渡った学者たちが、ウィーンへ帰ってきたそうですね」

マリー・ルイーゼが言うと、皇帝は目をしばたたかせた。

「レオポルディーネと連絡を取っているのだね?」

「はい、お父様」



 レオポルディーネは、マリー・ルイーゼの妹だ。

 遠く、ポルトガル領のブラジルへ、海を渡って嫁いでいた。

 新大陸。

 全く未知の世界への輿入れだった。

 彼女には、動物学者や博物学者、地理学者など、多方面の専門家達が同行した。

 皇女自身が、こうした学問が好きだったこともある。

 彼らは、新大陸の驚くべき発見を、ウィーンへ持ち帰っていた。



「レオポルディーネは、元気でやっているだろうか……」

「ええ。ブラジルの人たちにも慕われているようです」

「そうか。ドン・ペドロは、ちゃんとしているのだろうな?」



 レオポルディーネの夫となった、ポルトガル王室のドン・ペドロには、悪い噂があった。

 女遊びが過ぎるというのだ。

 父の皇帝は、端からこの結婚に反対だった。

 しかし、マリー・ルイーゼの時と同じく、メッテルニヒに押し切られる形で、承諾した。



「あの子ったら、思ったよりずっとハンサムだった、なんて、言ってきましたのよ」

くすり、と、マリー・ルイーゼは笑った。


 皇帝はまだ、不安だった。

 だが、長女がこう言うなら、安心していていいのだ、と、自分に言い聞かせた。



 「ルイ18世は、スペインに派兵されるそうですね」

かつて自分が皇妃だった国の決断に、マリー・ルイーゼは、気持ちを奪われていた。


「新しい大使が熱弁しておったな」

皇帝は頷いた。


「ロシア皇帝も、派兵を申し出られたとか」


「あれは、本気にせずともよい」

苦虫を噛みつぶしたような顔を、皇帝はした。

「今、ロシアがスペインへ出兵したら、大騒ぎになる。ヨーロッパの外交筋の中には、ロシアの軍事力の威信を過大評価している者もおるからな。ロシアに、さらなる領土拡大の野心を持たせぬために、スペイン派兵など、させてはならない」

「まあ! ロシアが南下してきたら、大変なことになりますわ」


マリー・ルイーゼは驚いた。だが、皇帝は泰然としてる。


「気にすることはない。あれは、皇帝ひとりの戯言だ。あの男の言うことは、誇大妄想的というか、妙な正義感しかないというか……。ロシアがヨーロッパの官憲になど、なれるわけがない」


「でも、オーストリアも、ロシア皇帝の提唱された神聖同盟に入ったのでは?」


「あれは、お遊びだよ」

フランツ帝は苦笑した。

「何といっても、ロシア軍の活躍は目覚ましかったからな。彼の機嫌を損ねるわけにはいかない」


 フランツ帝とマリー・ルイーゼの視線に気が付いたのか。その時、アレクサンドル帝が、こちらに目を向けた。

 大仰に笑み崩れながら、取り巻く人々を押しのけ、二人のいるテーブルへやってこようとする。


「妃が呼んでいる。わしはもう、行く」

ぼそっと口の中でつぶやいて、皇帝は、立ち去った。





 「やあ、マリー・ルイーゼ女公」

マリー・ルイーゼの前に、アレクサンドル帝が立ち塞がった。


 にこやかな笑みを、マリー・ルイーゼは浮かべた。

 アレクサンドルは、きょろきょろと辺りを見回している。


「あれ? オーストリア皇帝は? さっきまでご一緒だったようだが」

「ええ、義母ははとの約束があったようで」

「そうか。皇帝殿も、バイエルン王国より後添いを召されて……これで4人目か? 仲がよろしくて、うらやましいことだ」

「ええ」

にこやかな笑みを崩さず、マリー・ルイーゼは答えた。



 気は強かったが体の弱いルドヴィカは、28歳の若さで亡くなった。

 肺の病だったという。


 この病は、実は、マリー・ルイーゼ自身も、隠し持っている。

 彼女は、パリが陥落し、フランス国内を逃げ回っていた時、喀血した。オーストリアに帰ってきてからも、体調は思わしくなかった。

 そこで、この喀血を口実にしぶる父をくどき、エクスの温泉に赴いた。そこで、ナイペルクとを果たし……。


 数ヶ月の湯治を終え、シェーンブルン宮殿に帰った彼女を出迎えた息子は、喪服姿だった。

 きちんと礼装したフランツは、ひどく大人びて見えた。

 マリー・ルイーゼの祖母、マリア・カロリーナが亡くなったからだ。



 確かに、マリー・ルイーゼは、肺を病んでいた。

 マリー・ルイーゼだけではない。

 肺の病は、ハプスブルク宮廷に蔓延していた。39歳で亡くなったマリア・アンナ始め、マリー・ルイーゼの叔父や叔母の何人かは、この病で亡くなっている。


 だが、無理さえしなければ、この病は、体の中に潜伏し、普段どおりの生活に戻ることができる。


 皇妃マリア・ルドヴィカの場合は、ウィーン会議での無理が祟ったのだと言われていた。開催国の皇妃としての責任が、彼女を、死に駆り立てたのだ。



 彼女の死後、わずか7ヶ月で、皇帝は、バイエルンから今の皇后を娶った。

 それをいうなら、亡くなったマリー・ルドヴィカも、マリー・ルイーゼの母の没後、1年しないうちに輿入れているし、その母も、最初の皇妃の亡くなった年に、嫁いできている。


 マリー・ルイーゼの父親である皇帝は、妻なくしてはいられない人だった。彼は、皇帝たるもの、傍らに妻がいなくては務まらないと考えてもいるようだった。

 家庭的な反面、彼の結婚は、半ば、国務だった。


 皇帝の最新の皇妃……バイエルン王家から輿入れてきた義母……には、前回のウィーン訪問の折に会った。マリー・ルイーゼとしては、義務を果たした気分だった。



 は、もう一つある。それを果たしに、またぞろ、馬車の準備をしなければならないのだが……。


 ……。



 北の国のアレクサンドル帝が目を細めた。

「プリンスはどうしている? 元気かな?」


 ウィーンに残してきた息子のことを尋ねている。

 彼女に義務を課す者、ナポレオンとの間にできた、息子のことを。


 マリー・ルイーゼは、はっと我に返った。

「おかげさまで」

 せいいっぱいの笑みを浮かべた。



 パリが陥落した折、ランブイエに逃れたマリー・ルイーゼ母子を、アレクサンドル帝が訪問してきたことがある。彼はその前に、ナポレオンの離婚した皇后、ジョセフィーヌも尋ねていたと、マリー・ルイーゼは、後から知った。

 変わった人だと思った。



 若干、髪が後退しつつあったが、アレクサンドルは、今なお、美丈夫だった。彼は、魅惑的に微笑んだ。

「4年前にウィーンに行った時にお会いしたぞ。執務されている皇帝のそばで、ちょろちょろしていて、とても可愛らしかった」


 ……お父様ったら、執務室にまであの子を入れて。

マリー・ルイーゼは呆れた。

 ……でも、よかった。フランツを凄く、可愛がっていらっしゃるんだわ。



 フランツは、カンの強い子どもだった。実際のところ、自分が育てるより、子育て経験の豊富な父の皇帝に育てられた方が、よほどよく育つのではないかと、マリー・ルイーゼは確信していた。それに、パルマとウィーンでは、文化度ひとつとっても、ウィーンの方が格段に上だし、宮廷スタッフにも優秀な者が揃っている。


 頻繁に手紙をくれる家庭教師のディートリヒシュタインを、マリー・ルイーゼは信頼していた。



 「でもまあ、あの子は、顔を赤くしてばかりいてな。凄く恥ずかしがり屋さんなのだな、きっと」

その時のことを思い出したのか、うふ、とアレクサンドル帝は笑った。


 彼は、フランス語で話しかけた。だがその頃すでにフランツは、フランス語をほぼ、忘れかけていた。彼は、ロシア皇帝が何を言っているのか、理解できなかった。それで、顔を赤らめたのだった。


 そうとは知らず、わはは、と、皇帝は笑った。

「綺麗で賢く、好感の持てる、なかなかいい少年ではないか」






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