憂愁
オーストリアのライヒシュタット公を王に。
トルコから独立したギリシアの王位が空位となっていた。しかし、異教の国の王への即位は、フランソワの祖父の皇帝が許さないだろう。
また、オランダから独立したベルギーの新王候補に、ライヒシュタット公の名が上がっていた。
ナポレオンの故郷、コルシカの王位も、正式に、ライヒシュタット公に、打診された。
かつて
そのコルシカの王に、とは……。
「さぞかし、軽蔑に値する国家となるだろう」
そして今、ポーランドも、ロシア皇帝に代わって、彼に王冠を差し出している。
……。
*
「
なんと奇妙で、魅惑的な時代に、我々は生きていることでしょう!
」
ライヒシュタット公は、母のマリー・ルイーゼに書き送っている。
「
この先何世紀も続く筈だったものごとは、ここ半年の間に、大きく様変わりしてしまっています。人々は、真実の人間の参加を求めています。そして私は、そのような人でありたいと願っています……
」
*
家庭教師のオベナウスが部屋に入ると、ライヒシュタット公は、鏡をじっと見つめていた。
「何をなさっているのです?」
「鏡を見つめているのです」
オベナウスが尋ねると、夢見るようなくぐもった声が返ってきた。
彼は、手鏡に映る、自分の姿を眺めていた。
うっとりと、どこか現実離れのした声で、彼は続けた。
「鏡の中に、自分の姿が見えます。この『僕』は、かつて、王冠を被っていました」
確かに、
もっとも、名目上のことに過ぎない。本人はここ、ウィーンにいた。今と同様、半ば監禁状態で。
「しかし、今やその輝きは失われている……」
くるりと、彼は、振り返った。
「先生。ポーランドの為なら、僕は、ロシアとオーストリアの間で、絶妙のバランスを保ってみせます。僕には、それができるのに!」
ポーランドの呼ぶ声は、プリンスの心を、強く動かしていた。
「ポーランド軍の戦略は、理に叶っている。彼らは、とても勇敢だ」
彼は、手放しで称賛した。
……それに
密かに、
もし、ポーランドが、もう一歩を踏み出したのなら……プリンスは、ためらわずに、ポーランドへ旅立つであろう。
それは、彼と親しいプロケシュ=オースティンの意見でもあった。
オベナウスが何か言おうとした時、何の弾みでか、プリンスの手から、鏡が滑り落ちた。
鏡は、床に落ちて、粉々に砕けた。
オベナウスは息を呑んだ。不吉な予感が、胸を苛む。
「……」
プリンスは何も言わなかった。
黙って、光を反射して輝く、たくさんの破片を見つめていた。
*
1831年、ベルギー王には、ザクセン=コーブルク=ゴータ家のプリンスが即位した。
翌年、ギリシア国王には、バイエルン王子が即位する。
コルシカは、フランスに留まりつつ、部分的な自治を獲得していくに留まった。
*
ポーランドの蜂起は、翌1831年10月、ロシアによって、完全に制圧された。ポーランドが独立を果たすには、それから、90年近くも待たなければならなかった。
ウィーンで夢破れ、パリに向かっていた音楽家のショパンは、途中、シュトットガルトで、母国の首都、ワルシャワ陥落の報に触れた。
その衝撃が、彼に、「革命」の曲を書かせた。
*
ポーランドの蜂起は、ウィーンでも、大きな波紋を生んだ。
エステルハージ家当主の姪であるグラザルコヴィッチ嬢は、キャンペーンを張った。
「ライヒシュタット公を、ポーランド王に!」
彼の即位は、オーストリアの大きな利益に繋がると、彼女は、力説した。
その一方で。
「ライヒシュタットを、ポーランド王に、ですって?」
ヒステリックな恐怖の声が、上がった。
ここは、メッテルニヒ家のサロンである。
モーリ・ツィヒという名の女性が叫んだ。
「あの、私生児を! コルシカの人食い鬼の息子が、ポーランド王になるっていうの!?」
心ある何人かは、互いに顔を見合わせた。
だが、彼らは、狂乱するこの女性に、何も言うことはできなかった。
この家の主、メッテルニヒが、こう言ったからだ。
「いずれにせよ彼は、ヨーロッパの全ての王座から閉め出されている」
……誰が、締め出したのか。
その答えは、明らかだった。
「メッテルニヒ家の舞踏会に行ってはいけないよ」
何度か繰り返してきた注意を、再び皇帝は、孫に与えた。
メッテルニヒは、有能な宰相だ。オーストリアだけではなく、ヨーロッパの御者でもある。欧州の平和は、彼の双肩に担われてきた。
彼を罷免することはできない。
「メッテルニヒ家の舞踏会に行ってはいけない」
オーストリアの佳き皇帝は、孫に、こう忠告することしかできなかった。
……。
*
1831年2月。
オーストリア皇太子、フェルディナントの元へ、サルディニア王女、マリア・アンナが嫁いできた。
王女についてきたサルディニアの随員たちは、初めて見る新郎の様子に、驚きと絶望を、隠し得なかった。
自立できないフェルディナント。誰からも愛されているけど、普通に生きられない皇太子……。
新郎フェルディナントは、自分の慶事を、理解し得たかどうか。
結婚式は、葬式のように静かで、陰気だった。
花嫁の白いドレスは、まるで、看護師の白衣のように見えた。
新郎の父のオーストリア皇帝でさえ、
「哀れな!」
とつぶやいたという。
だが、妃を得ることで、今まで危ぶまれていたフェルディナントの次期皇帝即位は、確実となった。
ついでながら。
皇帝に促され、メッテルニヒが、3度目の結婚をしたのは、その1ヶ月前のことだった。
相手は、ハンガリー上流貴族の娘、メラニー・ツィヒ・フェラリス。
このたびは、新郎58歳、新婦27歳だった。
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