社交界デビュー



 1831年1月25日。

 英国大使カウリー主催のパーティーで、フランソワは、社交界デューを果たした。


 「ライヒシュタット公、ご到着!」

執事が高らかに呼び上げると、貴賓達の間に、興奮の渦が巻き起こった。

 今まで、ウィーンの帳に隠されてきたプリンスが、国際社会の縮図のようなこの会場に姿を表すのだ。


 間もなく現れた年若い青年の姿を一目見ようと、人々は、一斉に、広間に押し寄せた。


 女性でさえ羨むほどの豊かな髪、デリケートな肌の色。白い手の、長い指の爪は、中国風によく手入れされていた。

 若さと美しさの晴れやかさ。

 期せずして、感嘆の声が沸き起こった。





 アテンドをしてきたディートリヒシュタイン伯爵家庭教師は、得意のあまり、胸を張りすぎて、ひっくり返りそうになった。


 彼は、無常の幸福の内にいた。まさに、雲の上の楽園を飛行中、といった感じだ。

 プリンスが、外交と社交で活躍することは、この家庭教師の長年の夢であった。軍務などより、よほどプリンスにふさわしいと、今でも思っている。

 ただ、生徒本人が希望するから、軍務やむなしの心境に至っただけだ。


 ……しかし、皇帝は、ちゃんとわかっておられた!

 いずれ、プリンスは軍務を諦め、外交畑に行くこともあるかもしれない。

 彼がもっと、成長したのなら!

 今日はその、布石の日なのだ。

 彼は、自分の最高傑作であるプリンスを、ほれぼれと眺めた。





 二人はまず、ホストの英国大使の元へ挨拶に行った。

「会場の話題をさらいましたな」

 一通り挨拶が済むと、英国大使、カウリー卿は、いたずらっぽい目をして笑った。

「あなたが到着したときの皆さんの様子と言ったら! 全く、大変な騒ぎでしたよ」


 さっとプリンスが顔を赤らめた。

 ディートリヒシュタインが、そっと小突く。

 プリンスが何か言いかけた。


「本当にねえ」

夫を押しのけ、大使夫人が割り込んできた。

「貴方のその美しさといったら! なみの令嬢じゃ、かないませんことよ。特にその、見事な御髪おぐし! まるで光り輝くようじゃございませんこと?」


 ますますプリンスの顔が紅潮する。


「……、……、そんなことはありません」

やっとのことで、彼は返した。

「あら! 英語もお上手でいらっしゃる」


「だが、紳士に『美しい』は、失礼じゃないかい?」

カウリー卿夫の英国大使が、割り込んだ。

 夫人は口を尖らせた。

「じゃ、他にどう言えばいいんですの? あたくしは決して、なよなよしていると申し上げたわけじゃございませんことよ」


 夫に噛みつき、素早く、夫人は、プリンスに向き直った。

 にわかにその頬が緩む。

「本当に、背もお高くて、その上、スマートで。こんなに素晴らしい貴公子は、わが大英帝国中を探しても、見つからないんじゃないかしら」


「これっ!」

英国大使がうろたえた。妻の背を軽く小突く。

「誰が聞いているかわからんというのに」

「だって、真実ですもの」

妻は、動じなかった。大使は、苦笑いをした。

「ははは。妻は貴方に夢中ですな。まったくもって、妬けることです」


「……、……」

プリンスは、口をぱくぱくさせている。


「あなたに妬いてもらわなくても結構ですことよ」

 つん、と夫人がそっぽを向いた。

 プリンスに向き直り、甘い声で付け足す。

「誰だって、この方の魅力には抗えないことを、今、私は予言しておきますわ。ねえ、プリンス」

「……、……」


 新たな来客の名を呼ばう声が聞こえた。

 大使夫妻は、名残惜しげにプリンスの方を振り返りつつ、去っていった。





 ぶんぶんぶん。

 その羽音は、フランソワの耳に、確かに聞こえた気がした。

 ディートリヒシュタインが彼の周りを飛び回っている音である。


「あれじゃ、充分な会話が成り立っていません! もっと愛想よくしなくちゃダメでしょ、プリンス!」

教え子の耳元で、ディートリヒシュタインは咎めた。

「もっと気品を持って、礼儀正しく、話し方にも気を配らなければ」

「でも、大使だけならまだしも、僕、年配の御婦人は、苦手なんです」

「そんなことを言っている場合じゃありません! あなたは、皇帝の孫なんですよ? あなたの恥は、皇帝の恥、」

「わかりました! わかりましたよ!」


「本当ですか?」

ディートリヒシュタインは、疑い深そうな顔をした。

「それなら、ほら。あそこにいる、プロイセンの軍人に挨拶に行きましょう」

「軍人?」

フランソワの目の色が変わった。

「さあ、プリンス。一緒に、」

「大丈夫。一人で行けます」


 フランソワは、所在なさげに突っ立っているプロイセンの軍人に近づいていった。



 「これはこれは、ライヒシュタット公。ご立派になられて」

相手の顔に、喜色が浮かんだ。

「私のことを、覚えておいでかな?」

「……いえ。申し訳ありません」

「無理もありません。あなたはまだ、2歳? 3歳でしたかな? ランブイエの城に、われらが国王プロイセン国王、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世が、貴方とお母様を尋ねて行かれた時、私も、同行していたのです」


「ランブイエ……」

 フランソワは、複雑な顔をした。



 1814年。パリが陥落した直後のことである。

 メッテルニヒの采配で、マリー・ルイーゼとフランソワは、パリ近郊のランブイエ城に護送されていた。



 将軍の顔が、笑いを堪えるように歪んだ。

「もっとも、あなたは、お昼寝中でしたが」

「それはそれは。その節は、失礼を致しました」

 即妙に、フランソワが答える。


 軍人は、ますますおかしそうな顔になった。

「後から聞いたのですが、わられがプロイセン王は、当時、あなたから、お菓子泥棒の咎を着せられていたそうですな。お昼寝中で、なによりでした」



 パリ脱出が、あまりに急だったので、フランソワの持ち物は、殆ど、持ち出すことができなかった。

 幼い彼は、玩具は「ルイ18世」が、そしてお菓子は、「悪いプロイセン王」が、それぞれ盗んでいったのだと、確信していた。(※1)


 フランソワは笑いだした。

「お菓子は、イエナ・アウエルシュタットの代金だと思って下さい(※2)」


 軍人は、一瞬、苦虫を噛み潰したような顔になった。

 すぐに彼は、にっこりと笑った。

「おかげで、わがプロイセン軍は、旧態依然とした軍の改革に着手する、いい機会を得ましたよ。(※3)以来、連綿と続いてきた悪弊を打破することができました」


「プロイセンの軍事改革のことは、聞いています!」

プリンスの目が輝いた。

「将校に、貴族だけでなく、一般市民を取りた立てるというやり方に、僕も賛成です。有能な者は、身分に関係なく、上を目指せるようにすべきです」

「ですが、平民を取り立てるには、問題もありましてな。彼らは、軍を、有利な就職先くらいにしか考えていませんから」

「プロイセンの陸軍士官用学校は、まさに庶民の軍務教育の場なのでしょう? 彼らには、何より先に、名誉という概念を教えるべきで……」



 ぶんぶんぶん。

「失礼失礼」

 ディートリヒシュタインが割り込んだ。



 将軍から生徒を引き離し、ディートリヒシュタインが小言を述べている。

「プロイセンの軍人に、イエナ・アウエルシュタットの話を出すとは! まったくもって、礼儀正しくありませんぞ!」

「だって、あの将軍だって、って言ったじゃないですか! 負けたのは、オーストリアなんですよ!?」

「おや、知っていましたか」

「当たり前です!」


「だが、先にけしかけたのは、あなたでした! だいたい、しゃべり過ぎなんです! あの軍人へのあなたの態度は、あまりに馴れ馴れしすぎる……」


「先生!」

小声でフランソワは言い返した。

「さっきは、しゃべり足りてないって言ってませんでしたか?」


「今回は、話し過ぎです! 軍人である前に、あなたはプリンスなんですぞ? あなたに挨拶したい人は、他にも大勢います。もっと周りに気を配らなくては」

「だって、」

「自分の趣味に突っ走って、おしゃべりに夢中になっていては、ダメじゃないですか!」


 低い声で、フランソワは唸った。








*~*~*~*~*~*~*~*~*~*


※1 ルイ18世と悪いプロイセン王の、泥棒説

1章「パルマ小公子」ご参照下さい。プロイセン王が訪問した時、ローマ王が「お昼寝中」だったのは、おそらく、当時の養育係、ママ・キューの策略です。


※2 お菓子は、イエナ・アウエルシュタットの代金だと思って下さい

パリ陥落の8年前、プロイセンは、イエナとアウエルシュタットで、ナポレオン軍に大敗しています。


※3 フリードリヒ大王の成功

18世紀半ば、オーストリア継承戦争・7年戦争を指します。フリードリヒ大王(2世)は、オーストリアの女帝、マリア・テレジアの、生涯の宿敵でした。




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