マルモン元帥、裏切り者のラグーザ
このパーティには、在ウィーンのフランス大使も参加していた。
メゾン大使である。
彼は、ナポレオン帝国時代の将軍でもあった。さらに、ルイ18世・シャルル10世の、ブルボン復古王朝のもとでは、元帥、伯爵にも取り立てられている。
そして今、7月革命後の新体制下で、彼はルイ・フィリップ王朝の戦争大臣を務め、同時に、フランス大使としてウィーンに駐在していた。
……もし、プリンスと顔を合わせちゃったら、気まずいぞ。
メゾン大使は思った。
なんといっても、彼は、かつての、ナポレオンの将軍である。それなのに、ナポレオンが没落すると、すぐにブルボン復古王朝に
メゾン大使の経歴は、あまり外聞のよいものではなかった。とくに、没落したかつての
大使が見ていると、ライヒシュタット公は、いろいろな人と、愛想よく話していた。少しも、気後れした風もなく、過不足なく、完璧なマナーを保っている。
おしゃべり好きなのに違いないと、大使は思った。
ライヒシュタット公は、自分を見つけたら、きっと話しかけて来るだろうと、メゾン大使は憂えた。
そしたら、自分は、どのような顔をして、彼と接すれば良いのだ?
そのような困った事態に陥らないためにも、大使は、ライヒシュタット公を、常に視界の端にとどめていた。
……それにしても、あれはどう見ても、フランス人だな。
……たとえ一山ほどのオーストリア青年の中に混じっていたとしても、すぐにわかる。彼は、全然、オーストリア人らしくない。どうしたって、フランス人なんだ!
メゾン大使は、他の出席者たちと同じく、否応なく、ライヒシュタット公に惹きつけられる自分を感じた。
思慮深そうな外見や表情。物怖じしない、それでいて優雅な物腰。相手に合わせる語学力、完璧なマナー。
ハンサムで、育ちの良い若者だ。
……どのみち、彼は、成功するだろう。
……その名に秘められた父の思い出によって。
……魅力的なその外見によって。
その優美さに感嘆していると、ライヒシュタット公が、静かに移動し始めた。
……あ!
その視線の先を見て、メゾン大使は、驚愕した。
このパーティーには、メゾンの他にも、フランスの軍人が、もう一人、参加していた。
マルモン元帥だ。
メゾンと同じく、ブルボン復古王朝に仕えた彼は、7月革命の累が及ぶことを恐れ、ちょうどこの時は、ウィーンに避難していた。
ナポレオン時代、将軍に過ぎなかったメゾンと違って、マルモンは、栄えある帝国元帥の一人だった。
そして、ナポレオンを退位に追い込んだことでも有名だ。
1814年、ナポレオンの転戦中、マルモンは、パリ防衛を任されていた。パリには、
翌日、パリは陥落し、ナポレオンの勝機はなくなった。皇帝は、退位を余儀なくされた。
マルモン元帥の地位、ラグーザ公爵は、裏切り者の代名詞でもある。
今、傍らにディートリヒシュタイン伯爵を従え、ライヒシュタット公が、その、
*
……似ている。
マルモンの心は震えた。彼は、自分に近づいてくる青年から、目が離せなかった。
かつての主の息子は、まっすぐに、マルモンの目を見つめていた。
……同じ輝き、炎のようなゆらめき、そして熱量……同じ目だ!
息子の目は、父のそれより、若干、小さく、また、窪んでいるようにも感じられた。だが、鋭く、ひっきりなしに動きながらも、突き刺すように彼を見つめる青い瞳は、ナポレオンと、全く同質のものだった。
秀でた額は、ナポレオンを思い出させずにはいられなかったし、顔の下の部分……特に顎も、父の面影を彷彿とさせる。肌の色が青白く見えるのは、ナポレオンの若い頃と瓜二つだった。
……彼は、私を、糾弾するのか。
ナポレオンが、セント・ヘレナ島で、帝国の裏切り者として挙げた4人(※)の一人である、自分を……。
ライヒシュタット公は、窓際にいたマルモンの、すぐそばまで着ていた。
彼は、立ち止まった。
「マルモン元帥! 父の、古くからの戦友にお会いできて、とても嬉しいです!」
そして、マルモンの手を、しっかりと握りしめた。
*
……おやおや、
離れた場所から様子を窺っていたメゾン大使は、背伸びした。
背伸びをしているのは、彼だけではなかった。
ライヒシュタット公と、マルモン元帥は、コンソール・テーブル(幅の狭い小さなテーブル。窓のそばなどに置く)を間に挟み、お互い身を乗り出すようにして、小声で話している。
年若い青年は頬を高潮させ、そして、年配の、かつての
これは、てっきり、マルモン元帥は、ナポレオンの息子に叱責されているのだと、誰もが思った。
だが、二人の話す声は、囁くように小さく、誰にも聞き取ることはできなかった。
……あの、
メゾン大使は苛立った。
……あいつ、自分に注目が集まってるのが、わかってやってるな。
*
「あなたを……あなたを見ていると、ナポレオンの若い頃を思い出します……」
涙にむせぶ声で、マルモンは言った。
「出会ったばかりの頃、あなたの父上は、砲兵大尉で、一方の私は、無位の士官だった。あなたは、その頃のお父さんに、そっくりです……」
トゥーロンの砲撃、エジプト遠征、ブリュメールのクーデター。
蓋をしていた若き日の思い出が、弾けるように、マルモンの口から溢れ出た。
「あの、高貴なまでの才能! 澄み渡った判断力! そして、若き日の、偉大な成功……」
涙に潤んだ目で、ライヒシュタット公を見つめた。
「思い出さずには、いられない!」
ナポレオンの生きた思い出をその息子に語って聞かせたのは、前の年の夏、グラーツの地区司令官、マッテチェリに続いて、マルモンが、二人目だった。(※7章「プロケシュ=オースティンとの出逢い」参照下さい)
ライヒシュタット公は、熱心に聞いていた。
マルモンが話し終わると、彼は言った。
「フランスとオーストリアは、同盟を結ばねばなりせん。両国の軍は、並んで、ともに手を取り合って戦わなくては。私は、決して、フランスと戦おうとは思いません。戦ってはならないのです。それは、私の父が、禁じたことだから。私は、父に逆らうことはできません。私の心が、それを禁じるのです」
別れ際、ライヒシュタット公は、自分のところを定期的に訪れて、ナポレオンの話をしてほしいと、願った。
「しかし、あなたのお国の宰相が、どう思われるか……」
マルモンは、用心深かった。年齢も重ねている。彼は、フランスの7月革命から、保護を求めて、オーストリアへ渡ってきた。この国の宰相の不興を買うわけにはいかなかった。
「宰相なら、ほら、あそこに」
それまで存在を消したようだったディートリヒシュタインが言った。
メッテルニヒも、英国大使主催のパーティーに顔を出していた。
マルモンは、ライヒシュタット公の熱意に促されるままに、オーストリア宰相の元へと向かった。
「私は、あなたがライヒシュタット公に会うのに、何の不都合も見いだせませんよ」
案に相違して、メッテルニヒの態度は、朗らかなものだった。
「彼が父親のことを知るのに、あなた以上の適任者はいないでしょうからな」
「ですが、オーストリアは、ナポレオンの敵だった筈です」
「ライヒシュタット公が、父親の、真実の姿を知ることは、間違っているとは思いません。あなたの思い出には、ナポレオンの優れた側面も、多分に混じっているでしょう。しかし、それだけではなく、」
ヨーロッパの御者は、じっとマルモンを見つめた。
瞬きをしないその目は、まるで、蛇の目のようだった。
「彼の、悪い面もお伝えになるのが、よろしいでしょう。ナポレオンの幻想、そして、プライド、野望……彼を滅亡に導き、その優れた力を破壊したもろもろについても、ね。ライヒシュタット公には、真実を伝えるのが、一番良いでしょう」
イギリス大使のパーティーで、マルモン元帥に話しかけた……。
これは、ライヒシュタット公が、ナポレオンの息子だということを、強く、周囲の人々に再認識させた。
そして、マルモンの、感激に打ち震えた様子は、皇帝の孫が、依然として、ナポレオンの臣下に対して、強い影響力を持っていることを印象づけた。
彼の、社交界デビューは、大成功といえた。
*
英国大使のパーティーから3日後から、
月曜日と金曜日の朝の、週に2回。
1月28日から、4月6日まで、全部で、17回に及んだ。
*
……くそっ。やられた。
……ナポレオンの息子が!
社交界デビュー一発目で、いい度胸だと、メッテルニヒは歯噛みした。
ライヒシュタット公に、父親の思い出話をして差し上げたい……。
あの状況で、頼まれたら、嫌とはいえないではないか。
マルモン元帥の申し出を、メッテルニヒが許可したことに、ウィーン中が驚いていた。
しかし、メッテルニヒとしては、致し方のないことだった。
……やっぱり彼は、優れた俳優なのだ!
ライヒシュタット公が、父の古くからの部下に、親しみを感じた、などという茶番は、メッテルニヒには、信じがたかった。
……これは、牽制だな。
……私と、それから、
……あの、古狸め……。
家庭教師のディートリヒシュタインも一枚噛んでいるに違いないと、メッテルニヒは見て取った。
というか、父親の思い出話を餌に、ライヒシュタット公をマルモン元帥の元へ導いたのは、間違いなく、彼だ。
……思い知らせてくれる。
フランスでは依然、ナポレオン人気が、ルイ・フィリップの人気を、遥かに上回っていた。
7月革命の時は、ナポレオンの息子は、ウィーンの帳に覆われたままだった。彼がどういう人間か、フランスでは、まるで知れ渡っていなかった。
だから、ルイ・フィリップの即位が、可能だったのだ。
フランス大使館を通してメッテルニヒが流した、発達に障碍がある、という噂も、それに拍車をかけた。
……だが、今や、マルモンを通して、彼は、容易に、ボナパルニストと繋がることができる。
裏切り者とはいえ、マルモンは、帝国の元帥だった。ナポレオンも、最後には遺書で、彼のことを許している。
また彼は、ブルボン復古王朝、そして、
魅力あふれる若き貴公子、ナポレオンの息子と、ブルボン家の支流の末裔、ルイ・フィリップ。しかも、彼の父親は、ルイ16世の
どちらに軍配が挙がるかは、火を見るより明らかだ。
……裏切り者の
考えたくはなかった。だが……、
……フランスで、次にもし、暴動や革命が起きたら!
その時こそ、ナポレオンの息子は、フランスを掌握するだろう。
フランスを。もしかしたら、父親のように、ヨーロッパ全土を、掌中に収めたいと、野望を燃やすかもしれない。
憎い、と、メッテルニヒは思った。
ナポレオンの息子が、憎い。
だが、社交界にデビューした彼に、世界の視線が集まっていた。
滅多なことはできない。
……。
*~*~*~*~*~*~*~*~*
※ ナポレオンが、セント・ヘレナ島で、帝国の裏切り者として挙げた4人
残りの3人は、
・ピエール・オジュロ
マルモンと同じ1814年、リヨンを明け渡し、ルイ18世に寝返りました
・タレーラン
革命初期からルイ・フィリップ時代まで、時々の政権に取り入りました。
・ラファイエット
1815年、代議員副議長として、ナポレオンの失脚に寄与しました。そういえば彼は、7月革命の折、ルイ・フィリップの肩を抱いて、群衆の前に姿を現しましたね……。
です。
ボナパルニストの間では、マルモン元帥は、ライヒシュタット公の家庭教師、と位置づけられているようです。ほんの短期間、父の話をしただけなのですが。
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