幽霊……
とぼとぼと、シャラメが歩いてきた。
腰を屈め、うつむき加減になっている。両手に重そうな本の包を下げ、よろめいている。
一気に齢をとったようだった。
「シャラメさん!」
アシュラが声をかけると、驚いたように立ち止まった。
「アシュラ……」
両手の大事な荷物が、地面に落ちる。
「死んだんじゃなかったのか!」
「勝手に殺さないで下さいよ」
アシュラは笑った。
「さては、幽霊だな」
虚ろな目を、シャラメはアシュラに向けた。
「幽霊なら、こんなところにいないで、お願いだから、どうか、エオリアについていてやってくれ。あの娘が、怪我をしないように。病気にならないように。ひどい目に遭わないように! アシュラ。お前、
「それを言いますか!」
アシュラはむっとした。
「彼女なら、大丈夫です。僕よりずっと強い女丈夫が一緒ですから。というか、僕は死んでいませんよ、シャラメさん!」
シャラメが目を見開いた。死んだようだったその顔に、光が宿る。
「本当にお前か? アシュラ。生きているんだな?」
「ご覧のとおりですよ。ほら。手だって温かいでしょう?」
アシュラが握りしめた両手を、シャラメは振り放した。
「お前がしっかりしないから! お前がしっかり、エオリアを捕まえておいてくれないから!」
そして、声を放って泣き始めた。
少しして落ち着いたシャラメに、アシュラは、ポーランドでエオリアに会ったことを伝えた。彼女が、ユスティナ・パディーニというポーランド貴族令嬢と一緒だったこと、共にリトアニアへ向かったことを話した。
シャラメの嘆きは、留まるところを知らなかった。
「お前が、エオリアに振られたのは、必然だ。だが、あの子が、ポーランドへ行く、どのような必然があるというのか」
「彼女達は、ライヒシュタット公のために、戦うのだそうですよ」
「ポーランドで? 何を馬鹿な! ローマ王は、フランスの王と決まっている」
深い深い溜め息をついた。
「いずれエオリアにも、そのことがわかるだろう。だから、あの子は、必ず帰ってくる」
「その場合は、彼女は、フランスへ行くんじゃないでしょうか……」
言いかけて、シャラメに睨まれた。
「だったら、お前も、フランスへ行け! おおそうだ。お前は、ウィーンにいたら危険だと、ノエという男が言ってきたぞ」
シャラメは、一通の手紙を手渡した。秘密警察の上司、ノエからの手紙だ。アシュラは、その場で広げて読んだ。
「
アシュラ
この手紙を読んでいるということは、ウィーンに帰ってきちまったんだな。お前のことだから、フランスあたりで、かわいい女の子でも捕えたかと思ったのだが。
残念ながら、ウィーンは、お前にとって、危険だ。お前には、メッテルニヒ侯から、召喚令状が出されている。入れ違いを装い、俺はお前を国外へ逃したが、彼は、お前の家の周辺を、詳しく知りたがっていた。つまり、刺客を差し向けるということだ。
おそらく、ライヒシュタット公がらみだろう。俺の留守中に、お前、何をやったんだ? ゲンツによると、メッテルニヒの彼への憎しみは、留まるところをしらないというじゃないか。お前は肩入れし過ぎたんだよ、彼に。
俺は、ナポレオンの姪をライヒシュタット公に会わせた失策……神よ。どうか宰相がこれを、故意ではなく、失策だと思ってくれますように……により、秘密警察をクビになった。これからは、自由に、のんびりと暮らすつもりだ。ウィーンを出てね。
お前も、そうすることを勧める。
じゃあな、アシュラ。お前はいい、部下だった。
一介の、ノエ
」
ノエのあまりのお気楽ぶりに、アシュラは脱力した。
もう一度読み返して、ようやく、気がついた。
自分が、メッテルニヒから狙われている?
しかし、何の心当たりもなかった。
かつて、緑の皿の毒殺未遂を暴いたことはある。姿を消した、厨房のコックの仕業だ。おそらくは、ブルボン家の手先の。
しかし、その件は、フランソワが、公表をいやがった。
メッテルニヒは、知らないはずだ。
確かに、彼の警備を厳重にせよと直訴に行きはした。だが、ダッフィンガーに阻まれ、近くまで行くことさえできなかった。
他には……。
「宮廷資材横領の件は、捜査終了に付すべし。
これ以上の調査を禁ずる」
不意に、その一節が、アシュラの脳裏に湧き上がった。優美な飾り文字の署名……メッテルニヒと……ともに。
赤カビ。
その調査を、メッテルニヒは、禁じた。
しかし、なぜ? その疑問は、まだ、解けていない。
「バーラインは、パルマへ行ったんですね」
ワルシャワで、エオリアが言っていたことが、ずっと気になっていた。
なんだか、胸騒ぎを感じる。
「ああ。いくら、
暗い顔で、シャラメも頷いた。
アシュラもノエもおらず、厨房の監視役もいない。
今、フランソワの周りは、まるで無防備だということになる。
もし、メッテルニヒが、フランソワを憎んでいるとしたら……。
7月革命でブルボン王朝が倒れたのは、朗報だった。しかし、より身近な敵が……しかもこの国の権力者でもある……いるのだとしたら!
「おい! シャラメはいるか!」
その時、荒々しく、書店のドアが開いた。
画家のダッフィンガーが立っていた。
「俺は腹が減った。パンだけでいい。まずいスープがないのはかえって好都合……」
「まずいスープで悪かったな!」
思わずアシュラは言い返した。
エオリアのスープの味が思い出される。確かに、それは、個性的な味だったが……。
「げ。アシュラじゃないか! 生きていたのか」
「生きていたよ。悪かったな」
「別に悪くない。俺は嬉しいぞ。シャラメも喜んでいる」
「喜んでなんかないよ」
ぼそりとシャラメは答えた。
「だが、……なんというか……少し、安心したな」
「それを、喜ぶというのだ」
尊大に、ダッフィンガーは答えた。
ふん、と、シャラメは鼻を鳴らした。
「俺だって、エオリアの代わりくらいできる。どれ、まずい茶でも淹れてやろう」
そう言って、キッチンへ向かった。
すぐに、アシュラは、ダッフィンガーに詰め寄った。
「ダッフィンガー! 俺はお前に言いたいことがある。お前、なんだって、イタリアやフランスに、プリンスの肖像画を、」
「しっ!」
ダッフィンガーは、素早くアシュラの口を封じた。
素早く店の奥を窺う。
「気のいい書店主に、これ以上、負担をかけたくない。俺のアトリエへ来い」
*
裏通りを出て、賑やかなレオポルシュタットとも離れる。少し行った下町に、ダッフィンガーのスタジオはあった。
雑然としたアトリエには、絵の具や筆が散らばり、食べかけの果物が放り出されている。
腐りかけたりんごの臭気が鼻を衝く。口で呼吸をしつつ、アシュラは糾弾した。
「お前、イタリアの、
「なかなかいい出来だったろ?」
ダッフィンガーはにやにやと笑うばかりだ。
アシュラはむっとした。
「イタリアのもフランスのも、ナポレオンに似せすぎだ」
「そうだ。客が観たい絵を描く。それが、プロの仕事というものだ」
「危険じゃないか! フランスでは、お前の絵を元絵にして、印刷してばらまこうとしているんだぞ」
「元絵? やつら改変する気だな」
ダッフィンガーが舌打ちをした。
「人の傑作を。失礼なことだ」
「ダッフィンガー!」
耐えきれず、アシュラは叫んだ。
「なんだって、プリンスを売るような真似をしたんだ!」
「売る? そこまで写実的じゃなかったろ?」
「でも、見る人が見れば、あれは、あきらかに、プリンスだ。ライヒシュタット公に見える」
「だが、イアリアの、
「……エリザ・ナポレオーネは、ウィーンへ来たんだな」
ノエの手紙には、確かにそう書いてあった。ナポレオンの姪を、ライヒシュタット公に接触させた責任を取って、辞任すると。
だがアシュラは、念を押さずにはいられなかった。
あの、エリザ・ナポレオーネが。
フランソワのフランス奪還を狙う、従姉が。
フランソワに会って、そして……。
平然と、ダッフィンガーはうそぶいた。
「安心しろ。ナポレオンの姪は、空手で帰っていった。彼女がプリンスに接触した件は、秘密警察と家庭教師が一緒になって、もみ消した。殿下は、まだ、ウィーンに監禁中だ」
「……」
深いため息を、アシュラはついた。
エリザは、悪い女ではない。ただ、ちょっと変な方向を向いているだけだ。それは、本当に、フランソワにとって、危険なのだろうか? それとも……。
ウィーンにいるのと。
エリザ・ナポレオーネと一緒に、国外へ出るのと。
どちらがフランソワにとっていいのか、わからなくなりそうだった。
生まれて初めて、父方の親戚と会って、フランソワは今、どんな気持ちでいるだろう……。
「彼には今、プロケシュ少佐という友達がいてな。何かと彼に、相談しているらしい」
ダッフィンガーは、プリンスの近況を教えてくれる気になったらしい。
「プロケシュ?」
初めて聞く名だった。
「ああ。ちょっと年は上だけどな。なんでも殿下は、彼に、ぞっこんなんだと」
「ぞっこん?」
「つまり、
「そうか……」
……ついにあのプリンスにも、「友達」ができたのか。
あんなに「友達」を欲しがっていたフランソワ。
良かったじゃないかと、アシュラは思った。
それなのに、なぜか、胸が、ちくりとした。
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