プリンスの似姿
画家が、珍しくも、ため息をついた。
「だが、その慎重路線はどうかと、俺は、思うんだ」
「慎重。大いに結構じゃないか」
「いや、アシュラ。世の中には、後先考えずに突っ走らないと、成功しないことだってあるんだぞ」
「エオリアと、そのお友達のポーランドの令嬢のようにか?」
「あれはまあ、やりすぎだ」
エオリアのことは、あまり考えたくなかった。彼女のことが心配だった。だが、それ以上に、かっこ悪い失恋が、みじめすぎた。
ダッフィンガーが、にやりと笑った。
「彼女は、殿下にぞっこん。うまくいかないものだな」
「……」
「二人でボートに乗っていたぞ」
「……そうか」
強引に、アシュラは、話を戻した。
「いずれにせよ、プリンスの似姿が出回るのは、いいことではないぞ」
「そんな考え方ではダメだ」
ダッフィンガーは、大きく首を横に降った。
「彼は、外へ出るべきだ。閉じこめられたままでは、やがて忘れ去られてしまう。現に、フランスの7月の革命では、彼の名は、出なかったではないか」
「ダッフィンガー、お前……」
彼を、ウィーンから出さないというのは、
「そうだ」
ダッフィンガーは大きく頷いた。
「メッテルニヒの考えは、間違っている。このままでは、飼い殺しだ。若者の可能性を押し潰すことになる。俺は、それが、許せない」
「……ゲンツも、そう考えているのか?」
ダッフィンガーは、ゲンツの下にいる。そのゲンツは、メッテルニヒの懐刀ともいわれる、秘書官長だ。
「さあな」
ダッフィンガーは肩を竦めた。
「だが、ゲンツは、メッテルニヒとは、考え方が違う。少なくとも彼は、この国の民衆の苦しみを理解している」
工業化に伴い、都市に集中した労働者達の劣悪な環境。
田舎の慢性的な人手不足。
華やかな
「プリンスに、民衆を救えというのか?」
重ねて、アシュラは尋ねた。
民衆の犠牲となって、長いこと、ウィーン宮廷に囚われてきたフランソワ。
その彼に、民衆を救えというのは、あまりに虫が良すぎると思った。
「違う。俺はただ、有能な若者を閉じ込めておくのに我慢がならないだけだ。翼を持つ鳥を、鳥かごに押し込めてはいけない」
「それで、彼の肖像画を外国に差し向けたのか?」
「民衆は、彼を知る必要がある」
「敵の手にも、入るんだぞ? ナポレオンの息子を邪魔だと思う輩の手に!」
アシュラは激高した。
あまりに不用心だと思った。
いくらナポレオンに似せて描いたからといったって……。
ダッフィンガーが、にやりと笑った。
「こっちへ来い」
アトリエの奥の、陽の差し込まない片隅に連れて行かれた。
白い布がかかったキャンバスが置かれていた。
ダッフィンガーは、大きな粗い生地を、さっと跳ね除けた。
「……」
「これは、フランスの新王、ルイ・フィリップに頼まれたものだ。前の帝王、ナポレオンの息子に敬意を表し、客間に飾りたいと……何をする、アシュラ!」
殴りかかってきたアシュラの拳を、危ういところで右へ避けた。
「なんだこれは!」
再び拳を固め、アシュラは叫んだ。
画家の顔面めがけて打ち込もうとする。
「よせ。やめろ」
鼻のすれすれで、拳を受け止め、ダッフィンガーが叫んだ。
「この絵が気に入らないのか?」
「気に入らない?」
荒い息を吐きつつ、アシュラは叫んだ。
「なんだこれは! いくらなんでも、あんまりだ!」
目の周りの隈取り、大きな顎と受け口、ちりちりの巻き毛……。
「まるで女みたいじゃないか! お前には、殿下が、こんな風に見えるのか!」
「危ない! 絵の前で暴れるのはやめろ!」
「そんな絵! 俺が引き裂いてやる!」
「ルイ・フィリップの要望に、合わせたんだよ」
ダッフィンガーは叫んだ。
「
「ああ、そうだ」
ひとまず攻撃が止み、ほっとしたように、ダッフィンガーが言った。
「まあ、座れ。せっかくの絵を破損させられたら敵わない。」
手近な椅子を勧める。しぶしぶと、アシュラは腰をおろした。
「ルイ・フィリップの人望は、ナポレオン人気には到底、及ばない。もし、ナポレオン2世が、対抗馬として現れたら? ルイ・フィリップに、勝ち目はない」
「当たり前だ! プリンスのほうがいいに決まってる!」
「だから、
言われてみれば、肖像画は、確かに、パルマ女公の面影を宿している。
「しかし、せめて髪くらい、もっとちゃんとセットしてやってもいいじゃないか……」
フランソワの金色に輝く髪が、アシュラは好きだ。
「馬鹿だな、お前は。少しでも、ハンサムに見えたら、ダメなんだ。この絵を見て、ルイ・フィリップは喜ぶことだろう。うちの息子のほうが、数倍、マシだってね」
「はあ? そんなことの為に、殿下の評判を貶める気か!」
「アシュラ。お前なあ」
ダッフィンガーはため息をついた。
「刺客が怖いと言ったのは、お前だろ? 刺客がこの絵を見て来たとして、その刺客は、町中で、われらがプリンスを見分けることができると思うか?」
「……思わない」
「ちょうどいいじゃないか」
「よくはない! 彼は、凛々しいプリンスだ!」
「敵にも、教えてあげたいんだな。彼の美しさを」
ダッフィンガーは薄く笑った。
「その平等精神には、敬意を表する」
「黙れ。そもそもなぜ、ルイ・フィリップが、お前ごときに、プリンスの絵を依頼するんだ?」
「プリンスが、ちょくちょく、このアトリエを訪れるからだよ」
アシュラは目を丸くした。
我が意を得たりとばかり、ダッフィンガーは、にやりと笑った。
「俺は、眼の前で、殿下にポージングしてもらって、描いたことがあるからな。それも、何度も」
「ありえない」
「お前がどう思おうと、事実だから、仕方がない。殿下には、ご自分の肖像画を贈りたい人が、たくさんいるようだ。辻馬車に乗って、このアトリエへ通ってこられる」
ダッフィンガーは、市井の画家だ。彼の描く肖像画は水彩画で、安価だ。市民たちは、気軽に、彼に、自分の似姿を描いてもらうことができる。
そのダッフィンガーに、プリンスが、自分の肖像画を頼むとは!
「もっとちゃんとした画家はいないのか!」
思わずアシュラは毒づいた。
かりにも、皇族である。せめて、水彩画ではなく、油絵画家に描かせるとか。
「しかも、辻馬車で来るって!?」
「目立たないようにだろ? あの方は、控え目な方だ」
ダッフィンガーは、気を悪くした風もない。けろりとして続けた。
「つまり、実際にモデルを見て描いているという評判が、フランス王室にまで伝わった。それで、恐れ多くも、今回のご依頼となったわけだ。だから俺は、顧客を喜ばせるべく、彼らが観たい絵を描いた。ハプスブルク家の血の優勢な、母親似の殿下を、ね」
「ダッフィンガー……。お前には、良心ってものがないのか! イタリアやフランスには、あんなに凛々しい貴公子の肖像を送っておいて……」
「あれも、殿下。これも、殿下。」
けろりとして、ダッフィンガーが答えた。
「人々は、見たいものを見る。画家は、顧客のご要望に応えるだけだ」
「……俺は、本物のプリンスの姿が、一番いいと思うぞ」
ぼそりと、アシュラはつぶやいた。
「アシュラ、気をつけろ」
ダッフィンガーが、声を改めた。
「プリンスが成長し、その人格が固まるにつれて、メッテルニヒの憎しみはより強くなっている。メッテルニヒは、ナポレオンの息子を守ってやってきたと公言している。しかし、今や、誰もそんな風に思っちゃいない。プリンスは、ただ、閉じ込められているだけだ。彼は、メッテルニヒ政権の、喉に刺さった棘だと、みな、知っている」
それは、昔から言われてきたことだ。
昔と違うのは、実際のプリンスが、優雅に成長した貴公子が、外国の大使らの前に姿を現したということ……。
「メッテルニヒは、未だに、プリンスを守るフリをしなければならない。ゲンツが言っていた。今やメッテルニヒは、彼を見ることさえ嫌になっている」
「ダッフィンガー。お前、前に、俺に言ったよな……」
……「お前なんて、宰相の描く世界の、小さな埃だ。埃が重なって、美しい絵の汚れになる前に、吹き払うのは当然のことだ」
アシュラがメッテルニヒに、ライヒシュタット公の見張りを強化するよう、直訴に行こうとした時のことだ。ダッフィンガーはこう言って止めた。
シャラメの「未来の娘婿」を、無駄に死なせたくなかったから、止めた、とも。
あのときは、「未来の娘婿」という言葉に気を取られ、聞き流してしまった。
けれど、冷静に考えれば、これは、メッテルニヒは、アシュラを殺しかねない、ということだ。
去っていった秘密警察の上司、ノエがまさしく、同じことを警告していた……。
「それは、俺が、プリンスを守ろうとするからか?」
「当たり前だ。それ以外、お前にどんな価値がある?」
「そうだな」
アシュラは笑いだした。
「全くその通りだ」
「お前には、逃げ出す権利がある」
珍しく、ダッフィンガーは真面目な顔をしている。
「もし……」
「俺は、フランソワのそばにいる」
画家を遮り、きっぱりとアシュラは言った。
「気をつけろ」
ダッフィンガーは繰り返した。
「気をつけるんだ、アシュラ」
※
今回のお話には、イメージの基になった絵があります。wikiによると、フランスのコンデ美術館(Musée Condé)所蔵の絵です。
コンデ美術館は、オーマーレ公アンリ・ドルレアンが遺贈したコレクションが基になっています。アンリ・ドルレアンは、7月革命で即位した、
もちろん、ダッフィンガーは、ライヒシュタット公と同時代人。つまり、この絵は……、
ナポレオン人気に食われ気味の、フランス新王、ルイ・フィリップが、ナポレオンの息子の絵を手に入れたとしたら。
あまりいい目的ではないのは確かだ、と思ったのが、今回のお話を書いた動機です。
私のブログに、問題の肖像画を載せてみました。もしよろしかったら。
https://serimomoplus.blog.fc2.com/blog-entry-29.html
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