ゾフィー大公妃への花束
部屋の外へ出ようとしたバロネス・ストゥムフィーダーは、足元に、花束が置かれているのに気がついた。
白いコスモスを束ねたものだ。
腰を屈め、拾い上げた。
「言い忘れたわ! 明日は、午後からで結構よ。あなたはこの頃、働き過ぎですもの。半日くらいあなたがいなくたって、
マダム・ストゥムフィーダーを追って、ゾフィー大公妃が出てきた。
ゾフィーは、立ち止まったままの養育係を、驚いたように見つめた。
もしくは、彼女が手にした、白い花束を。
「あなたにですわ、大公妃。お部屋の入口に、置いてありました」
マダム・ストゥムフィーダーは、ゾフィーに花束を差し出した。
「……」
一瞬、ゾフィーの顔が、素に戻った……。
……少なくとも、マダム・ストゥムフィーダーには、そう感じられた。
喜び?
当惑。
戸惑い……。
みるみる、その顔を、笑みが覆った。自然体を装っているが、いつもそばにいるマダム・ストゥムフィーダーには、すぐわかる。
懸命に演じられた笑みだ。
「ライヒシュタット公からよ!」
必要以上に、嬉しそうにゾフィーは言った。
「私のお爺さん(※1)が、持ってきたんだわ!」
「さようですか」
何心なさげに、ストゥムフィーダーは、相づちを打った。
「長いこと、ここにあったのでしょうか。すぐに花瓶に生けましょう」
「いえ、私がやるからいいわ」
息子の養育係の手から、ゾフィーは、花束をひったくった。
「……あなたは、非番ですものね」
言い訳のように付け足す。
……違う。
……ライヒシュタット公は、白い花など持ってこない。
1歳を迎え、フランツ・ヨーゼフは、花ごときでくしゃみをすることは、なくなった。むしろ、掴み取り、振り回して喜ぶ。時には、花弁の柔らな花を、口元に運んでいくので、注意が必要だ。
フランツ・ヨーゼフの従兄、ライヒシュタット公は、花が好きだった。この春も(それは、任官する前のことだ)、彼は、チューリップの鑑賞会に参加し、また、
ライヒシュタット公の花好きは、
また彼は、
去年、彼の母、
……ライヒシュタット公なら、もっと色鮮やかな花を選ぶはず。同じコスモスにしたって、彼なら、かわいらしいピンク色の花束にするはずだわ。
「ライヒシュタット公も、中にお入りになればいいのに。こんなところに置かれて、お花がかわいそうですわ。いつもはずかずかお入りになるくせに、今日に限って、」
マダム・ストゥムフィーダーは、心の裡を押し隠した。さり気なく、
ゾフィーの顔に、当惑の色が浮かんだ。
「あら、それは……それはきっと、フランツ・ヨーゼフがお昼寝中だと思ったのよ!
早口でまくしたてる。
「お従兄姉様たちとご一緒できて、殿下も、嬉しいのでしょう。夜もぐっすりおやすみになりますしね」
ストゥムフィーダーは、同意した。彼女は、それ以上の追及はしなかった。
ほっとしたように、ゾフィーは微笑みを浮かべた。
「本当にね。引き止めてしまって申し訳なかったわ、マダム・ストゥムフィーダー。今日は、しっかり休んでね」
養育係は、膝を折って一礼し、立ち去っていった。
一人きりになると、ゾフィーは、白いコスモスの花束を抱きしめた。
*
「ライヒシュタット公」
宮殿の西の棟(※ライヒシュタット公の住居がある)。
フランソワは、女官に呼び止められた。
「マダム・ストゥムフィーダー!」
驚いたように、彼は立ち止まった。
「今日は、どうされたのです?」
「あなたがご病気と伺ったもので」
その瞬間、白皙の美貌に、怒りにも似た表情が浮かんだ。
「いえ、そのようなことはありません。僕は、元気です」
激しい口調で言い返す。
バロネス・ストゥムフィーダーは、首を傾げた。
「ですが、皇帝から、2ヶ月の休養を申しつかったのでしょう?」
「
バロネスは、しげしげと、相手を眺めた。
以前、会った時と比べ、確かに、面窶れしている。声も小さく、囁くようだ。
「随分と、お痩せになったわ」
思い切って、バロネスは言った。
「それは、身長が伸びたからですよ。だから、痩せて見えるのです」
高らかに、彼は笑い飛ばした。
「そうでしょうか……」
「そうですよ。ところで、今日はどうされたのですか? 絵のモデルは、もう、終わったはずですが」
1歳児と、おしゃまな9歳の女の子をモデルにするのに、
……もう大丈夫。あとは、スケッチと記憶で、なんとか。
早々にモデル達……ライヒシュタット公も含めて……は、お役御免になっていた。
バロネスは微笑んだ。
「実は、ゾフィー大公妃のことで、お願いがあるのです」
「ゾフィー大公妃の!」
イヒシュタット公の顔色が変わった。
「彼女に何か!?」
……大公妃は、彼の、ママンですものね。
……パルマの母上の代わりの。いえ、それ以上に、身近な。
バロネス・ストゥムフィーダーは、二人の仲を、正確に把握していた。
ゾフィー大公妃は、ライヒシュタット公の叔父の妻にあたる。自由なバイエルンから嫁いできたゾフィー大公妃は、規則づくめのオーストリアの宮廷生活になじめかった。
ウィーン宮廷において、彼女は、ライヒシュタット公と同じように、異邦人だった。
去年、結婚6年にして、ようやく、フランツ・ヨーゼフを得た。彼女の孤独感には、一応の終止符が打たれたはずだが……。
「これは、産後の婦人にはよくあることなんです」
重々しい口調で、バロネスは言った。
「ですから、ご心配になるには全く及ばないのですが……大公妃は、時々、ひどい気分の落ち込みに悩んでおられまして」
「えっ! そうなんですか!」
驚いたように、ライヒシュタット公が短く叫ぶ。
「だって、絵の先生のところでは、とても元気……いえ、楽しげでいらっしゃったのに」
「ですから、気分にムラがあるのです。それに、エルダー先生のところには、
マリア・クレメンティーナは、皇帝の娘である。ゾフィー大公妃からしたら、夫の妹、すなわち、小姑だ。
「確かに、マリー・カロリーヌは、騒々しかったですからね……」
ライヒシュタット公は、眉を顰めた。
「その上に、育児の疲れが重なって……大公妃は、時折、ひどい、憂鬱に悩まれているのです」
「ああ、かわいそうに!」
両手をもみ絞って、ライヒシュタット公は叫んだ。
「すぐに、なんとかしてあげないと……。全く、
「こういうことは、夫が関わると、余計、ひどくなるんです!」
きっぱりとバロネス・ストゥムフィーダーは斥けた。
あの、下品なF・カール大公に出てこられたら、全てはおしまいだ。
「ですからね、ライヒシュタット公。時々、大公妃を、外に連れ出してやって下さいませんこと?
「そんなことで治るんですか?」
「もちろんです」
大きくバロネスは頷いた。
「わかりました」
ストゥムフィーダーの話に、ライヒシュタット公は、何の疑いも抱いていないようだった。
彼女は、もうひと押し、することにした。
「とりあえず、花をお贈りになるのも、いいかもしれませんね。先日の花束も、大公妃は、ことのほか、喜んでおられました」
「花束?」
端正な美貌に、怪訝そうな表情が浮かんだ。
ゆっくりと、ストゥムフィーダーは告げた。
「白いコスモスの花言葉は、優美。女性に対する、最高の賞賛の言葉です」
瞬時に、不審げな表情が消え失せた。
彼は、悟ったのだ。
ゾフィー大公妃に花束を贈ったのは、多分……。
せかせかと、彼は了承した。
「そうですね! また、お贈りしますとも。今日の午後にでも」
「お願いしますよ、ライヒシュタット公」
丁寧に、バロネス・ストゥムフィーダーは、頭を下げた。
顔を上げ、青い瞳を、まともに見つめる。
「私は、
……あなたのように。
全てを理解した色が、青ざめた顔に浮かんだ。
*
その日の午後。
ライヒシュタット公から贈られてきたのは、黄色い薔薇の束だった。
ゾフィー大公妃は怪訝そうに眉を寄せ、フランツ・ヨーゼフは、ことのほか、喜んだ。
……彼は、わかっているのだろうか。
薔薇の茎から棘を外しつつ、マダム・ストゥムフィーダーは考えた。
……黄色い薔薇の花言葉は、「嫉妬」。
待ちきれない、という風に、フランツ・ヨーゼフが、よちよちと、こちらに向かって、歩いてくる。
……しかしまあ、イギリスでは、「友情」ともいうそうだし。
・~・~・~・~・~・~・~・
※1 私のお爺さん
フランツは、ゾフィーのことを、「僕のママン」と呼んでいました。その、意趣返しでしょう。
「まあ! 私は貴方より6歳、年上なだけよ? それなのに、ママはないでしょ、ママは! そういう貴方だって、随分、ジジむさく見えるわ! いいわよ。これからは、あなたのことを、お爺さん、って呼んであげるから。覚悟しておくことね、フランツル!」
こんな感じでしょうか……。
※2 色鮮やかな花……
このエピソードは、7章「フランツ・ヨーゼフ誕生」にございます。なお、向日葵のエピソードは、創作です。ライヒシュタット公とマリー・ルイーゼ(ちょうどウィーンに滞在中でした)が、生まれたばかりのフランツ・ヨーゼフに会いに行って、ライヒシュタット公が、赤ちゃんにメロメロだったことだけが、本当です。
(「苺をトッピングしたバニラアイスのよう」は、本当に、ライヒシュタット公の言葉です)
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