見え始めた希望
「ああ、やっぱり、熱が出ましたね」
西の棟に帰ってきたフランソワを出迎え、アシュラはため息をついた。
「だから、小さい子どもがいるところには、やりたくないんだ」
フランソワは肩を竦めた。
「あの子達のおかげで、モデルをやる時間が短くなって助かる。すぐに騒ぎが起きて、お開きになるからな」
「でも、疲れるでしょう?」
「そんなことはない」
赤い顔で、よろよろと椅子にへたり込んだ。
「無理しないで、ベッドで横になればいいのに」
「だって、具合は悪くないんだ」
「でも、熱が……」
「今日も、フランツ・ヨーゼフが僕の膝の上で踊りだして、それで、お開きになった」
「踊りだして? 殿下の膝の上で?」
アシュラが耳をそばだてる。
「まあ、敢えて言葉にすると。落ちると大変だからって、
「英断ですね」
「その前は、マリー・カロリーヌが、首の青いスカーフがちくちくすると言って、引っ張った拍子に、薄いレースが破れて……」
「阿鼻叫喚」
アシュラが言うと、フランソワは、ちらりと笑った。
横たわったフランソワの顔を、アシュラは覗き込んだ。
「それにしても、お顔の色が悪い。無理をしたらダメです。ひどくお辛そうに見えますよ」
「疲れただけだ。アシュラ。僕はもう、疲れちゃったよ」
「……何がありました?」
「別に」
「正直におっしゃい」
「お前は居丈高だな。アシュラだくせに、上から命令してくる。ハルトマンやモルでさえ、そんなことはしないのに」
「どちらかというと、ハルトマン将軍は、あなたのことを恐れていますよ」
「ふうん」
「で、何があったんです?」
重ねて聞かれ、フランソワは、半身を起こした。
「アシュラ。僕は、フェルディナンド大公を殺す気だったんだろうか」
「……は?」
思いもかけない言葉に、アシュラは目をぱちぱちさせた。
「フェルディナンド大公って、……ハンガリー王のことですか? あなたの叔父上の。ええと、国民の誰からも好かれているけれど、1人では何もできないという……」
「僕が4歳でウィーンに来て、初めて彼に会った時、彼は、食堂の隅で、ゴミ箱の中に、自分を押し込めようとしていたよ。両手両足が入り切らなくて、ばたばたさせていた」
「……あはは」
乾いた声で、アシュラは笑った。
フランソワは、にこりともしなかった。
「その彼が、次期皇帝だ」
「
他人事のように、アシュラは言った。
フランソワが問いかける。
「無能な皇帝の代わりに実権を握るのは?」
「宰相の、メッテルニヒでしょうね」
思いつめた人のように、フランソワはアシュラを見つめた。
「フェルディナンド大公が即位したら、僕は、ますます、ウィーンから出られなくなる」
「考えてもみませんでした。でも、確かにそうかもしれない。皇帝はもう、お年だし……」
言いかけて、アシュラは絶句した。
フェルディナンド大公が即位する。
なんと希望のない未来だろう。
オーストリアにとっても、フランソワにとっても!
再び、フランソワが問うた。
「でも、もし、仮に、F・カール大公が皇帝になったら? 僕は、大公の細君と親しいそうだから……」
「ゾフィー大公妃とは、実際に親しいでしょう?」
「そうだ。彼女なら、僕を解放してくれるだろう。F・カール叔父は、
「なるほど! それは素晴らしい……」
思いがけない希望に、アシュラの胸はときめいた。
しかし、フランソワの顔色は優れない。
「だが、
「残念ですよねえ」
深い深いため息を、アシュラは付いた。
そんな彼を、フランソワは、ちらりと見やった。他人事のように続けた。
「
「ちょっと、殿下。何を言い始めるんです?」
「何年か前、宮廷狩猟が催された時……ちょうど、お前はパリへ行っていた……のことだ。僕は、銃を構え、邪魔なフェルディナンド大公に狙いを定めた」
「だから、何の話を……」
「そして、引き金を引いた」
「えっ!?」
「僕は、彼を殺そうとしたんだよ。あの、善良で優しい大公を。自分に危害を加えようとした人間でさえ、許してしまう大公を! 僕は、最低の人間だ……」
「……ありえない」
「弾は外れた。でも確かに僕は、大公に向けて発砲したのだ。その事実は消えない」
「ありえない!」
大声で、アシュラは遮った。
目は燃え、髪は逆だっていた。
彼は、ひどく怒っていた。
「あのね、殿下。もしあなたが、本気で誰かを殺そうとしたのなら、あなたは、銃だけは、使わないと思いますよ」
「なぜそんなことが言える?」
「忘れたんですか? 殿下、あなたの銃の腕前は、最低最悪です。フェルディナンド大公に向けて撃ったって、当たるわけがありません」
「だが、実際に、そういうことが、あったんだよ。僕の撃った銃弾が、フェルディナンド大公のいた方へ飛んでいったことが」
悲しげに、フランソワは目を伏せた。
「それは、僕の心のどこかに、彼を疎ましく思う気持ちがあったからに違いない。その気持が、僕の撃った弾を、大公のいる方へ向かわせたんだ」
「下手くそなだけでしょ」
アシュラは、鼻を鳴らした。彼は、憤慨しきっていた。
「百歩譲って、あなたに殺意があったとしても、ですよ? 銃を使った時点で、それは、本気じゃないです」
「……ひどいことを言う」
「だってそうじゃないですか。現に、あなたは、私を撃ち殺そうとしたんですよ? 先日の、キツネ撃ちで」
「いや、それは……」
「ほら、見て下さい。私の頭」
室内にいたにもかかわらず、被っていた帽子を、アシュラは取り払った。腰をかがめ、フランソワの目の前に頭頂部を突き出す。
「弾が通ったところが、禿げちゃったじゃないですか。髪が生え揃うまで、恥ずかしくって、女の子の家にも行けやしない」
「すまない。アシュラ。お前の方へ弾が行くなんて。そんなつもりは、まるでなかったんだ」
「そうでしょうともよ」
「本当だ!」
「それと同じです」
ぴしゃりとアシュラは言い放った。
フランソワが、息を飲んだ。
表情を和らげ、アシュラは尋ねた。
「故意にフェルディナンド大公を狙ったなんて……、いったい誰が、そんなことを、言ったんです?」
「……レオポルド大公だ」
「ああ、あの、不謹慎で不埒な大公ね」
蔑むように、アシュラは言った。
不品行なことでは、秘密警察官の間では、有名な大公なのだ。
「あなたにろくでもない考えを吹き込んだレオポルド大公は、許し難い。でも、それは、とても示唆的でもある。そうか。フェルディナンド大公の即位がなければ、メッテルニヒは、おしまいなんだな」
「おい! 何を言い出すんだ?」
「フェルディナンド大公を邪魔者扱いにするなんて、そんな大それたことを、あのレオポルド大公が、思いつくわけがない。彼は、不埒ではあるけれども、悪賢くはありませんからね。人の言うことを鵜呑みにするのが、せいぜいだ。つまり、そう考えている人間がいるってことですよ。このウィーンにね」
「……」
「メッテルニヒは、疎まれ初めている。その確たる証左です」
「メッテルニヒが……!」
鉄壁とも思われていた、メッテルニヒの支配が、ゆるぎ始めた……。
「もう少しです、殿下。もう少しだから……」
アシュラは言葉を途切らせた。
ためらい、熱を測ろうと、額に触れようとする。
フランソワが飛び起きた。
「触るなよ。僕に、触るな」
「わかりましたよ」
アシュラがぼやいた。
「でも、せっかく起きたんだ。さあ、ベッドへ参りましょう。何か、本でも読んであげます」
「お前の朗読は適当だからな……。でも、まあいいや」
よろよろと、フランソワは立ち上がった。
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