ポリティカルな話題
「フランツ」
馴れ馴れしい声が呼び止めた。モルと離れるのを、待っていたかのようなタイミングだ。
「……レオポルド大公」
「
憂鬱そうだったフランソワの顔に、笑みが浮かんだ。
「早いですね。僕は、ひょっとして、叔母様と
「安心しろ。
レオポルドは笑った。
「おめかしって……」
「ああ。何しろ皇帝に献上する絵だからな。おめかしにも、時間がかかるのさ」
「大変ですね、女の子は」
並んで歩く二人を、大きな絵の包みを抱えた侍従が、よたよたと追い越していく。
レオポルドが、それを目で追う。
「
「現実味?
さして興味もない、といった口調だ。
レオポルドは顔を顰めた。
「お前も、
「馬鹿? ひどいな、レオポルド大公」
「いいのか、フランツ」
レオポルドは、辺りを見回した。
周囲は雑然としており、二人の会話に耳をすませている者はいない。
「わかっているだろう? メッテルニヒの政権が続く限り、お前は、ウィーンから出られない。軍での活躍も、認められない。
フランソワの顔に、新鮮な血の色が差した。怒りをこめて、彼はレオポルドを睨んだ。
「不吉なことは言わないで下さい!」
「不吉? 何を言うんだ。確実に来る未来だ。人は、永遠には生きられない。どうしたって、死ぬからな。たとえ皇帝であっても免れられない運命だ。いいか。皇帝が死んで、
「……」
フランソワの顔が、みるみる青ざめていく。
「でも、もし、フェルディナンドが、いなくなったら?」
「レオポルド大公!」
「まあ、聞け。仮定の話だ。一方で、
「あなたがそんなことを考えていたとは……。見損ないましたよ、レオポルト大公!」
「それに、
「ゾフィーまで……。いやらしい言い方はしないで下さい! 彼女を巻き込んだら、許さない!」
すごい剣幕だった。
さすがのレオポルドも怯んだ。
「すまなかったよ。ぞっこんなんて言って。だが、ゾフィーは、メッテルニヒを気にしない。彼女なら、お前を自由にしてくれるに違いないと思ったんだ。お前は、赴任地も自由に選べるだろうし、実戦に赴くことも許されるだろう」
「……」
「なあ、フランツ」
レオポルドは、フランソワにすり寄った。
「お前だって、フェルディナンドを邪魔に思っているだろう? だってお前は、あいつに向けて、発砲したことがあったものな」
「は?」
「狩りの時」
「いったい何の話です?」
フランソワには、本当に、何のことやらわからなかった。
レオポルトは呆れた。
「まさか、忘れたとか? 数年前の宮廷狩猟のことだ。お前の撃った銃弾が、フェルディナンドの近くに着弾したことがあったじゃないか」
「あれは!」
それは、不幸な偶然だった。
フランソワがキジを狙って撃った弾が、偶然、叔父のフェルディナンド大公の近くに着弾したのだ。
当時、フェルディナンド大公の周りにも、フランソワの周りにも、大勢の人がいた。彼らは、最初から最後まで見ていた。
これが、偶発的な出来事であることは、明らかだった。
……「何を大騒ぎしてるんだい?」
馬上から、当の大公が、きょとんとして尋ねた。
ライヒシュタット公の撃った銃弾が、近くに着弾したのだと、側近が説明した。
……「故意ではございませんでしょう。しかし、恐れ多くも、殿下のいらっしゃる方角に銃口を向けたのです。彼の処遇を、いかがなさいますか」
フェルディナンド大公に、まともな思考力はない。しかし彼は、はっきりと答えた。
……「許すよ。僕は、フランツを許す」
その後、皇族を取りまとめている
もちろん、狩りに同行した人々の口から、悪い噂が広がることもなかった。なぜならそれは、本当に、単なる事故だったからだ。しかも、実害のない……。
……。
「よく考えてみろ、フランツ。お前の心にも、フェルディナンドを邪魔に思う気持ちが、きっとあるはずだ」
「ありません! 断じて!」
「心の奥深く、自分にも隠した闇の中に」
「いいえ!」
「みじめでかわいそうな生き物、フェルディナンド。彼が即位したら、この国はどうなる?」
「お父様!」
不意に、甲高い女の子の声が響き渡った。
白いドレスでめかしこんだ女の子が駆けてくる。
くりくりした大きな目に、かわいらしいおちょぼ口。淡い金髪をてっぺんで分け、両サイドでふわふわカールさせてる。
「マリー・カロリーヌ!」
途端に、レオポルド大公の顔が、だらしなく歪んだ。
「私の天使……」
一方のフランソワの顔は、強張ったままだ。
「あなた、」
女の子の後ろから、その母、クレメンティーネが姿を現した。
「あら、フランツ。早いわね」
「叔母様。ご機嫌麗しゅう」
わずかに微笑み、フランソワは応えた。
「いいのよ、堅苦しい挨拶は」
マリー・ルイーゼの妹であるクレメンティーネは、下の姉、レオポルディーネとともに、なにかと、フランツに肩入れしてきた。
マリー・ルイーゼがナポレオンに、レオポルディーネがブラジルへ売り渡されたのに比べると、彼女の結婚は、ずっとましだった。
ただしレオポルド大公との結婚は、凄まじいまでの血族婚であったのだが。(※)
息が落ち着くと、クレメンティーネは、甥の顔が、異様なまでに白いのに気がついた。夫との間に漂う、険悪な空気にも。
「あなた……」
じろりと夫を睨む。
「いや、俺は何も」
「嘘でしょう?」
「嘘なものか」
そわそわと、レオポルド大公は付け足した。
「ただ、フランツと、ちょっと、
「あなたが
クレメンティーネは鼻で笑った。
「女の話と、
「いや、その、」
「フランツに何を言ったの!」
「……」
「白状なさい!」
レオポルドは、イタリア・ブルボン家の末流だった。父方の血筋が、ブルボン家の支流に当たる。
今、彼の甥のフェルディナンド2世が、イタリアの両シチリア国を治めている。
しかしレオポルドは、父方ブルボン家よりも、母方のハプスブルク家を選んだ。
ナポレオンに領土を奪われたのを機に、レオポルドは、母とともに母の実家であるオーストリアに逃げ込んだ。そのまま、サレルノ公として、ウィーン宮廷に居続けている。
ただし、サレルノ公は、名義だけのものである。彼には、実質的な領土はない。
ウィーン会議が終わってから、ハプスブルク家との繋がりをさらに強調するために、彼は、皇帝の娘(姉の娘でもある)を、妻に娶った。
それが、フランソワの叔母、クレメンティーネだ。
つまり、レオポルドは、8つ年下の妻に、頭が上がらない。
「正直に言って、フランツ。この人、また、
「いいえ、違いますよ、叔母様」
「そうだ。悪口なんか、言うわけない! 私は、
怒りと困惑の間を行き来していたフランソワの顔が、ぱっと輝いた。
だが、一瞬のことだった。レオポルドが続けたのだ。
「あの、異性に対する積極性! 貪欲なまでの恋愛への傾倒……。君も見習うべきだ、クレメンティーネ」
「パパ。いせいにたいするせっきょくせい、って、何?」
足元で、かわいらしい声がした。
フランツより、幾分淡い色の瞳が、父を見上げている。
「……あなた」
クレメンティーネの口調が、危険信号を帯びた。
はっと、レオポルドは我に返った。
「おお、マリー・カロリーヌ、キュートな天使。パパは、
「何? 教えて、お父様!」
甘い声で、娘がねだる。レオポルド大公は、相好を崩した。
「本当に、お前は、かわいいね、マリー・カロリーヌ。あのね。パパはね。
「あなた!」
金切り声で、妻が叫んだ。
ますます狼狽して、レオポルドは口走った。
「いや、決して、フェルディナンドが邪魔なわけでは……」
「フェルディナンドは、私の兄なのよ!」
「
クレメンティーネは、胸の前で手を組んだ。
「だいたいわかったわ」
「本気にしてませんよ、叔母様」
掠れた声がつぶやいた。
「レオポルド大公は、冗談をおっしゃっただけです」
「フランツ!」
大公の目に、感動の色が浮かんだ。
「俺はお前に、あんなにひどいことを言ったのに……」
「
クレメンティーネが怒りの声を上げて、夫に詰め寄る。
「いや、その……」
たじたじと、レオポルドは、後退った。
「大したことじゃありません、叔母様」
「フランツ……。お前は、本当に、いいやつだな……」
「ライヒシュタット公って、イケメンよね!」
足元から、サレルノ公に賛同する声が上がった。
「これっ! マリー・カロリーヌ!」
「だめだ! お前は誰にもやらん!」
母と父が、同時に叫んだ。
・~・~・~・~・~・~・~・~・
※血族婚
サレルノ公レオポルドは、フランソワの祖父の皇帝(フランツ帝)とは、従兄弟同士になります。
なお、フランツ帝は、レオポルドの姉と結婚しています(2番目の皇妃)。この姉が産んだ娘が、レオポルドの妻、クレメンティーネです。つまりクレメンティーネは、叔父と結婚したわけですね。それ以前に、父の皇帝が、従兄妹同士で結婚していますから……。
サレルノ公レオポルドとその妻クレメンティーネの続柄、また、ブルボン家とハプスブルク家の関わりは、系譜6「ライヒシュタット公とボルドー公」にまとめてあります。ですが、ここは、すんごい血族婚! くらいのご理解でよろしいかと思います。
https://serimomo139.web.fc2.com/franz.html#henri
(ページトップは、
https://serimomo139.web.fc2.com/franz.html
)
クレメンティーネは、姉たちのように、メッテルニヒに売り飛ばされなくて済んだのですが、これはこれで、大変そうです。
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