ゾフィーの扇言葉
音楽会も終わり、人々は、思い思いに席を移し始めた。
ある者はタバコを楽しみ、ある者は、給仕の盆からワイングラスを取り上げる。コンソール・テーブル(幅の狭い小さなテーブル)を間に挟み、密談する紳士達もいた。
ひときわ華やかな集まりは、ゾフィー大公妃のテーブルだ。めかしこんだ貴婦人たちが集まり、切り分けたノッケルン(メレンゲ菓子)を楽しんでいた。
女性だけの一群は、華やかであるが、かしましい。始終笑い声が漏れ伝わってくる。ひどく楽しげで、気になる集まりだった。
年齢を問わず、紳士方は、時折、ちらりと無遠慮な眼差しを、このテーブルに投げかけている。
ゾフィー大公妃は、頷きながら、同年輩の貴婦人の話を聞いていた。聞きながら、手に持った扇を、しきりといじっていた。
不意に、閉じたままのそれを、顔の前へ持っていった。
あくびでも隠したのだろうか。彼女は、退屈しているようだった。
夢中でしゃべっていた貴婦人が話し終えた。すると、ゾフィーは、微笑んで席を立った。
しとやかに周囲の女性たちに挨拶し、テーブルを離れていく。
少しして、立ち上がった者がいた。
彼女の甥の、ライヒシュタット公だ。
彼はずっと、1人でいた。人を寄せ付けぬ気配を漂わせ、煙草を吸っていた。
ライヒシュタット公は煙草をもみ消し、広間から出ていった。
「あれ、絶対、密会だわ」
ヴァーサ公の妻、ルイーゼが囁いた。
「密会?」
ヴァーサは眉を吊り上げた。
去年結婚したばかりのヴァーサ公夫妻は、シェーンブルン宮殿の一角に居住を許されていた。
今年の夏、コレラを避けて、宮廷そのものがシェーンブルンに移ってきた。今、若い妻は、生き生きして見える。
反対に、ヴァーサは、うんざりしていた。
コレラの流行は、若く丈夫なはずの兵士たちの間でも、流行り始めた。兵舎は閉められ、彼は、無聊を囲っていた。
「密会って……誰が? 誰と?」
「いやだ。あなた、何も見ていなかったの?」
新妻は、呆れたように夫を見やった。
「今、ライヒシュタット公が出ていったじゃないの」
ライヒシュタット公は、皇帝に命じられ、強制的に、ここシェーンブルン宮廷に送還されていた。
幸い彼は健康を取り戻し、こうして、社交の集まりにも顔を出すようになった。
「ライヒシュタット公が密会だって? いったい、誰と?」
呆れてヴァーサは妻の顔を見た。
上官の目には、彼は、そこまで回復しているようには思えなかった。
少なくとも、女性とどうこうしようというまでには。
ライヒシュタット公は、ひどく痩せて窶れて見えた。
妻は、飲んでいた紅茶のカップを置いた。夫の方へ身を乗り出す。
「ゾフィー大公妃とよ!」
「!」
新妻の口から飛び出したその名に、ヴァーサは、息が詰まった。動揺を悟られぬよう、わざとゆっくり、ブランデーグラスを手の中で回す。おもむろに、琥珀色の液体を嚥下した。
「ありえないだろう」
焼け付くような熱が喉を滑り落ちていくのを感じながら言った。
「ゾフィー大公妃は、彼よりずっと早く、退出されたし」
その女性の存在を、彼は常に、意識に留めていた。
新妻の、罪のない話を聞きながら、その首元を飾るサファイヤのネックレスを褒めてやりながら、ヴァーサは常に、ゾフィーの姿を、目の端で追っていた。
「本当にあなたの目は節穴ね」
12最年下の妻……「叔父」であるライヒシュタット公と同じ年だ……は、ため息をついた。(※1)
「退出される前に、ゾフィー大公妃が、彼に、合図を送っていたじゃない」
「だって彼女は、ずっと大勢の貴婦人方に囲まれていたぞ?」
目ざとい貴婦人方の中心にあって、いつ、そんな機会があったというのか。
「さっき、大公妃は、こうされたでしょ?」
ルイーゼは、テーブルの上に置いてあった扇を、右手に持った。
閉じたまま、ゆっくりと、扇を顔の前に持っていく。
「……そういえば」
そんなふうな仕草を見た気がした。
「これはね。『私についてきて』って、合図なの。ライヒシュタット公はそれを見て、大公妃の後について、外へ出たのよ」
「……」
「
得意げに、妻は教えた。
「扇言葉?」
「扇を使って、相手に、気持ちを伝えるの。だって宮廷では、なかなか、意中の人と二人きりになれないじゃない?」
そんなものがあるとは、ヴァーサは、初めて聞いた。
スウェーデンに生まれた彼は、10歳の時に、クーデターで、父が王座を追われた。少年時代は、ヨーロッパの各地を点々として育った。
宮廷のしきたりやマナーは、ウィーンに来てから覚えた。だが、このような暗黙のやり取りが横行しているなどとは、まるで知らなかった。
「あなたには、肝心なことが、見えてないのよ。でも、大公妃が退出されたことや、扇をいじっていらしたことは、知っているのよ……」
「だが、扇言葉なんて、そんなもの、軍人の生活には必要ないではないか」
ヴァーサは言い返した。
「そうでもないわよ」
妻は、肩を竦めた。
彼女は、閉じたままの扇を、バーサの前に突き出した。
「この扇を見て?」
「見ているが」
「わかる?」
「何が?」
「扇言葉」
「わかるわけないだろ」
ヴァーサは匙を投げた。
女というのは、ややこしいと思った。
「答えがほしいの。今じゃなくていいから。いつか。そのうちに」(※2)
さっと、ルイーズは、扇をテーブルに戻した。
ヴァーサには、妻の言っていることが、さっぱりわからなかった。
*
劇場。庭園。そして、高い木の梢で隠された、シェーンブルンの
再び、あちこちで、ゾフィー大公妃とライヒシュタット公が、連れだって歩いている姿が見られるようになった。
もはやライヒシュタット公は、子どもではない。背の高い、麗しい貴公子だ。今は休んでいるが、独立して、連隊を率いている。
口さがない宮廷の人々は、噂話に興じた。しかし、大公妃もライヒシュタット公も、気にする素振りもみせなかった。
反対に、密かに囁かれていた、ヴァーサ公とゾフィー大公妃の噂は、かき消すように消えていった。
密かに流れていた噂……。フランツ・ヨーゼフは、実は、ヴァーサ公の子どもだという、ゴシップ……を、思い出す人も、もはや、いなくなった。
・~・~・~・~・~・~・~・~・
※1 ヴァーサ公の妻、ルイーゼについて
ルイーゼの祖父は、アレクサンドル・ボアルネの従兄です。アレクサンドル・ボアルネは、ナポレオンの最初の妻、ジョゼフィーヌの最初の夫です。
絶頂期を迎えた、皇帝ナポレオンは、バーデン公国と親交を結びたいと思いました。だれか適当な女の子を、バーデン公の嫁にやりたいのですが、妹たちは皆結婚してしまい、誰もいません。
そこで、目をつけたのが、妻の先夫の従兄の娘、ステファニーです(もはや他人ですね……)。ナポレオンは、急遽ステファニーを自分の養女にし、バーデンへ嫁がせました。こうして生まれたのが、ルイーゼです。
ですから、ルイーゼは、ライヒシュタット公の姪ということになります。ちなみに、二人は同じ年の生まれです。
長じてルイーゼは、スウェーデン廃太子、グスタフ・ヴァーサの妻になりました。ヴァーサ公は、ライヒシュタット公の、軍での上官に当たります。
「世話焼きの皇妃カロリーネ(7章)」はフィクションですが、血縁関係は、本当です。
※ 扇を閉じたまま見せる
ルイーゼが、夫ヴァーサ公に示してみせた、この、扇言葉の意味は、
「私のこと、愛してる?」
です。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます