ゾフィーと夫


  日々積み重なる疲労を、ゾフィー大公妃は、気にも掛けなかった。小さな息子フランツ・ヨーゼフを愛しているからだ。全身を覆う倦怠感の原因が、愛する息子だなどと、彼女は、決して、認めまい。

 だが、と、マダム・ストゥムフィーダー養育係は思う。

 大公妃が、育児に疲れているのは、本当のことだ。


 小さな子どもと、ずっと屋内に閉じこもり、わけのわからないそのおしゃべりと行動に付き合っていたら、疲れて当然だ。まともな大人なら、外の空気を吸いたくもなる。

 決して母性に欠けるわけではないのに……。


 ゾフィー大公妃は危険な状態にあった。


 そんな時、養育係マダム・ストゥムフィーダーは、部屋の入り口に置かれた、白いコスモスの花束を見つけた……。



 ライヒシュタット公が相手では、何も起こりえないということは、マダム・トゥムフィーダーにはわかっていた。

 彼は、大公妃の、大きな子どもなのだ。

 自由な心を持ちながら、堅苦しい宮廷を生きる、同志でもある。


 だが、あの、スウェーデンの廃太子ヴァーサ公は、危険だった。

 彼は、どこまでも、踏み込んでくる。


 すでに、ゾフィー大公妃とヴァーサ公の噂が、一部の人の口の端に登りつつあった。暇を持て余し、何かおもしろいことはないかと、始終、きょろきょろ、辺りを見回している連中だ。


 もし、ほんの少しの隙が、大公妃の心に生じたのなら。

 母性と義務が、本当の心に負けてしまったのなら。


 フランツ・ヨーゼフは、永遠に、母親を失うだろう。


 ライヒシュタット公との外出は、大公妃の息抜きであると同時に、ヴァーサ公への牽制でもあった。

 ゾフィー大公妃を解放することができるのは、ライヒシュタット公、ただひとりだ。







 ゾフィーの夫、F・カールが、妻の私室を訪れた。

 「まあ、F・カール大公。よくいらっしゃいました」

 微笑みつつ、マダム・ストゥムフィーダーは、心の中で、舌打ちをした。


 ゾフィー大公妃は、これから、庭園の東屋に行く筈だった。窮屈な宮廷での息抜きにと、ライヒシュタット公彼女の甥が、美しい庭園のそぞろ歩きに誘ってくれたのだ。


 「うん。やっとうまくいったからね」

F・カールが、満面の笑みで頷いた。


 何がうまく言ったのかは、わからない。しかし、この夫が来たら、ゾフィー大公妃の午後は、台無しだ。


 マダム・ストゥムフィーダーは歯噛みする思いだった。


 せっかく彼の甥ライヒシュタット公が、庭園のあづまやで待っているというのに。

 プリンスと過ごす、30分乃至、1時間は、大公妃にとって、何より大切なものなのに。(もちろん、同行するマダム・ストゥムフィーダー自身にとっても、楽しみな時間だった)


 ゾフィー大公妃が、目で合図を送ってきた。

 諦めきった色が浮かんでいた。

 ライヒシュタット公はきっと、帰ってしまうだろう。

 夫婦二人を残し、女官たちは、退出した。






 「昼食会はどうだったかい?」

二人きりになると、F・カールが尋ねた。


 先日、宮廷の昼食会が行われた。F・カール大公夫妻は、夫婦で参加する予定だった。

 しかし、一緒に参加するはずの夫は、とうとう、来なかった。それで、ゾフィーは、一人で、昼食会に出なければならなかった。

 大変な気苦労だった。

 やや突慳貪つっけんどんに、ゾフィーは答えた。


「盛況でしたわ」

「そうかい。それはよかった」


けろりとして、F・カール応じた。今度こそ露骨に、ゾフィーは眉を顰めた。


「あの、あなた。後で、お義姉様に、お礼に言ってくださいませんこと?」

ハンガリー王妃兄貴のヨメに? なぜ?」

「彼女も、お一人でのご出席でしたから……」


 F・カールが出られないということで、兄のフェルディナンドも、食事会は欠席した。義姉、マリア・アンナは、自分も1人で出席することにより、ゾフィーへの風当たりを和らげてくれたのだ。


「兄貴も欠席したのか。嫌いな料理でも出たのかな?」

のんきそうに、F・カールはうそぶいた。


 さすがに辛辣な一言を返そうと、ゾフィーが身構えた時だった。

 閉じた扉の向こうから、派手な悲鳴が聞こえた。

 ばたばたと人が走り回る音がする。

 やがて、うさぎが、うさぎが、という叫び声が聞こえてきた。


 「しまった。逃しちゃったか」

F・カールが指を鳴らした。

「やっぱり、檻の入り口が壊れてたんだ。急ぐと、ろくなことがないな!」

「どういうことですの?」


 この辺りで騒ぎがあれば、それは大抵、夫が原因だ。なんだかよくわからないが、ろくでもないことだけは間違いない、と、ゾフィーは思った。


「うさぎを生け捕りにしたのさ。急いでいたから、新しい檻を取りに戻る時間がなかった」

「まあ! 生け捕りですって!」


 部屋の外の騒ぎは、どんどん大きくなっていく。

 思わずゾフィーは、部屋の扉が、ちゃんと閉まっていることを確認した。

 F・カールは、平然としている。


「だって、新鮮な方がいいだろ? しめたばかりの肉は、それはそれはうまいんだ。柔らかくて、生臭さが、全然なくて。なにしろ、死後硬直が始まっていないからね……」


「あなた」

改まった声で、ゾフィーは言った。


 確かに、夫のF・カールは、狩りが好きだ。数少ない、得意芸でもある。

 しかし、妻の部屋へ来る前に、うさぎ狩り?

 その上、この人は、宮殿で、うさぎを絞め殺すつもりだったのか。

 ゾフィーや、女官たちの前で?


「あれ? うさぎ、好きだろ?」

ゾフィーの表情が変わったのに気づき、F・カールは首を傾げた。

「君に、食べさせたかったんだ。肉は、人を幸せにする。新鮮な肉を食べれば、幸福になれるぜ? 日頃の疲れなんか、いっぺんに吹き飛ぶ。すかした宮廷料理より、よっぽど滋養があるしね」


「日頃の疲れ?」

「だって、この頃、とてもしんどそうだったから。本当は、一緒に狩りに連れていきたかったのに、君、断ったろ? だから、うさぎの方に、宮殿に来てもらったのさ」


 ……そういえば、そんな誘いを受けたような。


「本当は、先日の食事会に間に合わせたかったんだ。でも、あの時は、全然ダメで……。僕は、自分の腕を疑ったね」

「皇帝の食事会にいらっしゃらなかったのは、狩りに出ていらしたからなの?」


「……あ」

にわかにバツの悪そうな表情が、剽軽な顔に浮かんだ。

「すまなかったよ。その、食事会に間に合わなくて」

「……」

「君に、新鮮な肉を食べさせたかった。軽く炙っただけのね。格式張った宮廷の料理ではなく」


 凝ったソースを掛けた肉料理に並んだ、焼いただけの肉を、ゾフィーは思い浮かべた。豪華な料理の中で、さぞや、野趣に富んで見えるだろう。

 格式張った宮廷の食事会に、F・カールが供する、野性味あふれる肉料理。


「……私の、為?」


 妻の問いに、F・カールは答えなかった。照れくさそうに、そっぽを向く。

「生け捕りは難しいんだ。あれから何度も、狩りに出てるんだけど、なかなかうまくいかなくて。今日やっと、ウサギを捕まえたんだ。太ったやつだぜ? しかも、2羽!」


 得意そうに、F・カールは笑った。

 母親に褒めてもらいたい子どものように、ゾフィーには見えた。

 F・カールは、ドアの向こうを気にしている。


「それなのに、あいつら、逃しちゃったか。メイドに預けたのがまずかったかな」

「あなた……」


 ゾフィーは、気がついた。

 F・カール手が、傷だらけなのだ。ところどころ、血が滲んでいる。


 妻の視線を、夫は追った。

「大丈夫だ。檻の針金でやっただけだから。うさぎに噛まれたわけじゃないよ」

慌てて、自分の手を、服の下に隠そうとする。


 その手を、ゾフィーは両手で掴んだ。

「あなたは、私のこと、気にかけていてくれるの?」


「あたりまえじゃないか」

心外そうに、F・カールは叫んだ。

「妻の心配をしない夫なんて、どこにいる?」

「……たくさんいるわ」


 たとえば、スウェーデン廃太子・ヴァーサ公とか。


「犬畜生にも劣るな」

 それと知らず、F・カールは、妻の想い人を罵った。

「少なくとも、僕は違うね。僕は……」


 俄にF・カールは、自分の手が、妻にしっかり握られていることに気がついたようだった。

 頬を赤らめる。


「僕は……その、君に、感謝している。こんな堅苦しい宮廷に嫁いできてくれて。6年間も子どもができなくて、とても苦しんで……」

声が掠れた。

「それなのに、君は、いつも明るく前向きで。君がいると、暗く冷たい宮殿に、ぱっと光が差すようだ。君は、歌が上手で、踊りも素敵だ」

「……あなた」


 妻に握られた自分の手に、F・カールは目を落とした。

 ややきまり悪そうに、続ける。


「……その。初めて会った時から、僕は、君が、大好きだった。こんなきれいな人が、僕のところに来てくれるなんて……夢のようだった。あのときばかりは、兄貴フェルディナンドに感謝したよ。君は、僕のものだ」



 弟の結婚が、兄より早かったのは、もちろん、フェルディナンドに子をなす可能性がなかったからだ。

 宮廷は、フェルディナンドを飛び越し、次の時代の皇帝を考えなければならなかった。

 皇帝の息子は、あとは、この、F・カールしかいない。彼の子どもが、フェルディナンドの後を継ぐ。



「僕は、下品で、君を喜ばすような会話ひとつできない。教養もあまりないし、絵や音楽も、いまひとつ、わからない。気の利いた贈り物を選ぶこともできない」


 ……自覚はあったのか。

 こんな時だが、ゾフィーは思った。

 F・カールが品位に欠けるというのは、ウィーン宮廷でよく取りざたされていることだった。


 F・カールは、顔を上げた。

 ゾフィーの顔を、まともに見つめる。


「それなのに君は、僕に、子どもを授けてくれた。かわいいフランツ・ヨーゼフを」


「フランツ・ヨーゼフが生まれて、私も、すごく嬉しい」

ゾフィーは答えた。


「そうだろうともよ。でも、僕の嬉しさには叶うまい。もう、十分だ。僕は幸せだよ、ゾフィー」

「……」


 ヴァーサ公のことは、とうに、諦めがついていた。ゾフィーは、フランツ・ヨーゼフを選んだのだ。かわいい、小さな息子を。そのことに、後悔はない。息子を、フランツルのような、哀しい境遇につき落とすことは、どうしても、できなかった。


 ゾフィーは、バイエルンの異腹の姉、アウグステに頼んで、ヴァーサ公の結婚話を進めて貰った。年若い妻を得て、彼は今、幸せなはずだ。じきに、彼女とのことなど、忘れてしまうだろう。(※1)



 深い深いため息を、ゾフィーはついた。

 F・カールの眉間に憂いが走った。彼は、ひどく焦っていた。


「だから、君にも幸せであってほしいんだ。ため息なんか、吐かないで。お願いだから。君が幸せでいてくれたら、僕は本当に嬉しい」

 続く言葉は、灼熱の剣のように、彼女の胸を突き刺した。

「たとえ君が、僕以外の人を見つめていようとも」


「あなたは……知っていたの?」

 ……ゾフィーの、グスタフ・ヴァーサへの気持ちを。


 問いに対する、直接の返事はなかった。F・カールは、まっすぐにゾフィーを見つめた。

「僕は、フランツの努力に敬意を表したいと思う。敬意と……そして、感謝を」



 ……「フランツと、庭園を散策するのだな?」

 一人で出かけるたびに、夫が問いかけてきた言葉を、ゾフィーは思い出した。


 本当に、フランツルと遊びに出かける時は、まだ、よかった。だが、ヴァーサと会いに行く時には、耐え難かった。

 何も気がつかない夫を、ゾフィーは呪った……。


 ……違う。

 彼は全てを見抜いていた。

 見抜いた上で……、


 ……「そうか。気をつけていってくるがいい」

 ……「くれぐれも雨に濡れないように。今頃の雨は、体に毒だ」(※2)



 「あなたは、知っていたのね」

 ゾフィーは繰り返した。

 F・カールは、首を横に振った。

「答えることはできない。だってフランツは、本当に、君を大事に思っているから。彼の気持ちを、無碍にはできない」


きっぱり言ってから、続けた。

「でもそれは、君が、あの子を、真っ直ぐな目で見てくれたからだ。僕たち、ハプスブルクの人間にはそれができなかった。でも、僕だって、あの子が、大好きなんだよ。フランツには、迷惑な話かもしれないけどね」


 そこまで言って、彼は、うつむいた。

「僕の本当の願いは……僕と一緒だと無理かもしれないけど……君に、少しでも、幸せでいてほしいんだ。それが、どういう形であってもかまわない。ただ、お願いだ。一分でも一秒でも、長く、僕の傍らいてくれたなら、僕は、とても嬉しい」


 「もうひとり欲しい」

その露骨な言葉は、考える間もなく、ゾフィーの口からこぼれ落ちた。

「ひとりだけじゃない。二人でも、三人でも、もっともっと……貴方の子を」

「ゾフィー」


 だが、返ってきた声には、芯があった。ゾフィーの甘いささやきを打ち消すような、意志の力が込められていた。


「僕は、君を傷つけたくないんだ」

「傷つける?」

「僕の母は……ほぼ毎年のように、子を生み、疲れ果てて死んだ。下の姉のレオポルディーネも、妊娠中に死んでいる。上の姉、マリー・ルイーゼだって、何度も孕んでいる。それが、悪い噂の元になると知りながら……」

「……」


「子どもをたくさん生むのが、ハプスブルクの女の務め。昔から、そう教えられてきた。特に、大公女は。だが、君は、よそから嫁いできた人間だ。自由な、バイエルンの王女なんだ。窮屈で残酷な、ハプスブルクの女のしきたりに従う必要なんか、これっぽっちもない。何より僕は、愛する妻の体を、傷つけたくない」


 ……愛する、妻。


「もうこれ以上、子どもなんて、いらない。フランツ・ヨーゼフがいてくれれば、十分だ。僕には、できすぎなくらいだよ、この人生は」

「あなたは知らないんだわ」


 そっとゾフィーは、夫との間に、少しだけ距離を取った。顔を上げ、その目をまともに見つめた。

 くりっとしていて、かわいらしい目だ。フランツ・ヨーゼフ小さな息子とそっくりなことに、今さらながらに、ゾフィーは気づいた。


「愛する人の子を産むことは、女にとって、何より幸せなことなの」

 熱く火照った頬を隠すため、ゾフィーは、夫の胸に飛び込んだ。








・~・~・~・~・~・~・~・~・~


※1

7章「世話焼きの皇妃カロリーネ」「ゾフィーとフランツル」ご参照下さい


※2

5章「シェーンブルンの東屋で」ご参照下さい

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