ゾフィーと夫
日々積み重なる疲労を、ゾフィー大公妃は、気にも掛けなかった。
だが、と、
大公妃が、育児に疲れているのは、本当のことだ。
小さな子どもと、ずっと屋内に閉じこもり、わけのわからないそのおしゃべりと行動に付き合っていたら、疲れて当然だ。まともな大人なら、外の空気を吸いたくもなる。
決して母性に欠けるわけではないのに……。
ゾフィー大公妃は危険な状態にあった。
そんな時、
ライヒシュタット公が相手では、何も起こりえないということは、マダム・トゥムフィーダーにはわかっていた。
彼は、大公妃の、大きな子どもなのだ。
自由な心を持ちながら、堅苦しい宮廷を生きる、同志でもある。
だが、あの、
彼は、どこまでも、踏み込んでくる。
すでに、ゾフィー大公妃とヴァーサ公の噂が、一部の人の口の端に登りつつあった。暇を持て余し、何かおもしろいことはないかと、始終、きょろきょろ、辺りを見回している連中だ。
もし、ほんの少しの隙が、大公妃の心に生じたのなら。
母性と義務が、本当の心に負けてしまったのなら。
フランツ・ヨーゼフは、永遠に、母親を失うだろう。
ライヒシュタット公との外出は、大公妃の息抜きであると同時に、ヴァーサ公への牽制でもあった。
ゾフィー大公妃を解放することができるのは、ライヒシュタット公、ただひとりだ。
*
ゾフィーの夫、F・カールが、妻の私室を訪れた。
「まあ、F・カール大公。よくいらっしゃいました」
微笑みつつ、マダム・ストゥムフィーダーは、心の中で、舌打ちをした。
ゾフィー大公妃は、これから、庭園の東屋に行く筈だった。窮屈な宮廷での息抜きにと、
「うん。やっとうまくいったからね」
F・カールが、満面の笑みで頷いた。
何がうまく言ったのかは、わからない。しかし、この夫が来たら、ゾフィー大公妃の午後は、台無しだ。
マダム・ストゥムフィーダーは歯噛みする思いだった。
せっかく
プリンスと過ごす、30分乃至、1時間は、大公妃にとって、何より大切なものなのに。(もちろん、同行するマダム・ストゥムフィーダー自身にとっても、楽しみな時間だった)
ゾフィー大公妃が、目で合図を送ってきた。
諦めきった色が浮かんでいた。
ライヒシュタット公はきっと、帰ってしまうだろう。
夫婦二人を残し、女官たちは、退出した。
「昼食会はどうだったかい?」
二人きりになると、F・カールが尋ねた。
先日、宮廷の昼食会が行われた。F・カール大公夫妻は、夫婦で参加する予定だった。
しかし、一緒に参加するはずの夫は、とうとう、来なかった。それで、ゾフィーは、一人で、昼食会に出なければならなかった。
大変な気苦労だった。
やや
「盛況でしたわ」
「そうかい。それはよかった」
けろりとして、
「あの、あなた。後で、お義姉様に、お礼に言ってくださいませんこと?」
「
「彼女も、お一人でのご出席でしたから……」
F・カールが出られないということで、兄のフェルディナンドも、食事会は欠席した。義姉、マリア・アンナは、自分も1人で出席することにより、ゾフィーへの風当たりを和らげてくれたのだ。
「兄貴も欠席したのか。嫌いな料理でも出たのかな?」
のんきそうに、F・カールは
さすがに辛辣な一言を返そうと、ゾフィーが身構えた時だった。
閉じた扉の向こうから、派手な悲鳴が聞こえた。
ばたばたと人が走り回る音がする。
やがて、うさぎが、うさぎが、という叫び声が聞こえてきた。
「しまった。逃しちゃったか」
F・カールが指を鳴らした。
「やっぱり、檻の入り口が壊れてたんだ。急ぐと、ろくなことがないな!」
「どういうことですの?」
この辺りで騒ぎがあれば、それは大抵、夫が原因だ。なんだかよくわからないが、ろくでもないことだけは間違いない、と、ゾフィーは思った。
「うさぎを生け捕りにしたのさ。急いでいたから、新しい檻を取りに戻る時間がなかった」
「まあ! 生け捕りですって!」
部屋の外の騒ぎは、どんどん大きくなっていく。
思わずゾフィーは、部屋の扉が、ちゃんと閉まっていることを確認した。
F・カールは、平然としている。
「だって、新鮮な方がいいだろ? しめたばかりの肉は、それはそれはうまいんだ。柔らかくて、生臭さが、全然なくて。なにしろ、死後硬直が始まっていないからね……」
「あなた」
改まった声で、ゾフィーは言った。
確かに、夫のF・カールは、狩りが好きだ。数少ない、得意芸でもある。
しかし、妻の部屋へ来る前に、うさぎ狩り?
その上、この人は、宮殿で、うさぎを絞め殺すつもりだったのか。
ゾフィーや、女官たちの前で?
「あれ? うさぎ、好きだろ?」
ゾフィーの表情が変わったのに気づき、F・カールは首を傾げた。
「君に、食べさせたかったんだ。肉は、人を幸せにする。新鮮な肉を食べれば、幸福になれるぜ? 日頃の疲れなんか、いっぺんに吹き飛ぶ。すかした宮廷料理より、よっぽど滋養があるしね」
「日頃の疲れ?」
「だって、この頃、とてもしんどそうだったから。本当は、一緒に狩りに連れていきたかったのに、君、断ったろ? だから、うさぎの方に、宮殿に来てもらったのさ」
……そういえば、そんな誘いを受けたような。
「本当は、先日の食事会に間に合わせたかったんだ。でも、あの時は、全然ダメで……。僕は、自分の腕を疑ったね」
「皇帝の食事会にいらっしゃらなかったのは、狩りに出ていらしたからなの?」
「……あ」
にわかにバツの悪そうな表情が、剽軽な顔に浮かんだ。
「すまなかったよ。その、食事会に間に合わなくて」
「……」
「君に、新鮮な肉を食べさせたかった。軽く炙っただけのね。格式張った宮廷の料理ではなく」
凝ったソースを掛けた肉料理に並んだ、焼いただけの肉を、ゾフィーは思い浮かべた。豪華な料理の中で、さぞや、野趣に富んで見えるだろう。
格式張った宮廷の食事会に、F・カールが供する、野性味あふれる肉料理。
「……私の、為?」
妻の問いに、F・カールは答えなかった。照れくさそうに、そっぽを向く。
「生け捕りは難しいんだ。あれから何度も、狩りに出てるんだけど、なかなかうまくいかなくて。今日やっと、ウサギを捕まえたんだ。太ったやつだぜ? しかも、2羽!」
得意そうに、F・カールは笑った。
母親に褒めてもらいたい子どものように、ゾフィーには見えた。
F・カールは、ドアの向こうを気にしている。
「それなのに、あいつら、逃しちゃったか。メイドに預けたのがまずかったかな」
「あなた……」
ゾフィーは、気がついた。
妻の視線を、夫は追った。
「大丈夫だ。檻の針金でやっただけだから。うさぎに噛まれたわけじゃないよ」
慌てて、自分の手を、服の下に隠そうとする。
その手を、ゾフィーは両手で掴んだ。
「あなたは、私のこと、気にかけていてくれるの?」
「あたりまえじゃないか」
心外そうに、F・カールは叫んだ。
「妻の心配をしない夫なんて、どこにいる?」
「……たくさんいるわ」
たとえば、スウェーデン廃太子・ヴァーサ公とか。
「犬畜生にも劣るな」
それと知らず、F・カールは、妻の想い人を罵った。
「少なくとも、僕は違うね。僕は……」
俄にF・カールは、自分の手が、妻にしっかり握られていることに気がついたようだった。
頬を赤らめる。
「僕は……その、君に、感謝している。こんな堅苦しい宮廷に嫁いできてくれて。6年間も子どもができなくて、とても苦しんで……」
声が掠れた。
「それなのに、君は、いつも明るく前向きで。君がいると、暗く冷たい宮殿に、ぱっと光が差すようだ。君は、歌が上手で、踊りも素敵だ」
「……あなた」
妻に握られた自分の手に、F・カールは目を落とした。
ややきまり悪そうに、続ける。
「……その。初めて会った時から、僕は、君が、大好きだった。こんなきれいな人が、僕のところに来てくれるなんて……夢のようだった。あのときばかりは、
弟の結婚が、兄より早かったのは、もちろん、フェルディナンドに子をなす可能性がなかったからだ。
宮廷は、フェルディナンドを飛び越し、次の時代の皇帝を考えなければならなかった。
皇帝の息子は、あとは、この、F・カールしかいない。彼の子どもが、フェルディナンドの後を継ぐ。
「僕は、下品で、君を喜ばすような会話ひとつできない。教養もあまりないし、絵や音楽も、いまひとつ、わからない。気の利いた贈り物を選ぶこともできない」
……自覚はあったのか。
こんな時だが、ゾフィーは思った。
F・カールが品位に欠けるというのは、ウィーン宮廷でよく取りざたされていることだった。
F・カールは、顔を上げた。
ゾフィーの顔を、まともに見つめる。
「それなのに君は、僕に、子どもを授けてくれた。かわいいフランツ・ヨーゼフを」
「フランツ・ヨーゼフが生まれて、私も、すごく嬉しい」
ゾフィーは答えた。
「そうだろうともよ。でも、僕の嬉しさには叶うまい。もう、十分だ。僕は幸せだよ、ゾフィー」
「……」
ヴァーサ公のことは、とうに、諦めがついていた。ゾフィーは、フランツ・ヨーゼフを選んだのだ。かわいい、小さな息子を。そのことに、後悔はない。息子を、
ゾフィーは、バイエルンの異腹の姉、アウグステに頼んで、ヴァーサ公の結婚話を進めて貰った。年若い妻を得て、彼は今、幸せなはずだ。じきに、彼女とのことなど、忘れてしまうだろう。(※1)
深い深いため息を、ゾフィーはついた。
F・カールの眉間に憂いが走った。彼は、ひどく焦っていた。
「だから、君にも幸せであってほしいんだ。ため息なんか、吐かないで。お願いだから。君が幸せでいてくれたら、僕は本当に嬉しい」
続く言葉は、灼熱の剣のように、彼女の胸を突き刺した。
「たとえ君が、僕以外の人を見つめていようとも」
「あなたは……知っていたの?」
……ゾフィーの、グスタフ・ヴァーサへの気持ちを。
問いに対する、直接の返事はなかった。F・カールは、まっすぐにゾフィーを見つめた。
「僕は、フランツの努力に敬意を表したいと思う。敬意と……そして、感謝を」
……「フランツと、庭園を散策するのだな?」
一人で出かけるたびに、夫が問いかけてきた言葉を、ゾフィーは思い出した。
本当に、
何も気がつかない夫を、ゾフィーは呪った……。
……違う。
彼は全てを見抜いていた。
見抜いた上で……、
……「そうか。気をつけていってくるがいい」
……「くれぐれも雨に濡れないように。今頃の雨は、体に毒だ」(※2)
「あなたは、知っていたのね」
ゾフィーは繰り返した。
F・カールは、首を横に振った。
「答えることはできない。だってフランツは、本当に、君を大事に思っているから。彼の気持ちを、無碍にはできない」
きっぱり言ってから、続けた。
「でもそれは、君が、あの子を、真っ直ぐな目で見てくれたからだ。僕たち、ハプスブルクの人間にはそれができなかった。でも、僕だって、あの子が、大好きなんだよ。フランツには、迷惑な話かもしれないけどね」
そこまで言って、彼は、うつむいた。
「僕の本当の願いは……僕と一緒だと無理かもしれないけど……君に、少しでも、幸せでいてほしいんだ。それが、どういう形であってもかまわない。ただ、お願いだ。一分でも一秒でも、長く、僕の傍らいてくれたなら、僕は、とても嬉しい」
「もうひとり欲しい」
その露骨な言葉は、考える間もなく、ゾフィーの口からこぼれ落ちた。
「ひとりだけじゃない。二人でも、三人でも、もっともっと……貴方の子を」
「ゾフィー」
だが、返ってきた声には、芯があった。ゾフィーの甘いささやきを打ち消すような、意志の力が込められていた。
「僕は、君を傷つけたくないんだ」
「傷つける?」
「僕の母は……ほぼ毎年のように、子を生み、疲れ果てて死んだ。下の姉のレオポルディーネも、妊娠中に死んでいる。上の姉、マリー・ルイーゼだって、何度も孕んでいる。それが、悪い噂の元になると知りながら……」
「……」
「子どもをたくさん生むのが、ハプスブルクの女の務め。昔から、そう教えられてきた。特に、大公女は。だが、君は、よそから嫁いできた人間だ。自由な、バイエルンの王女なんだ。窮屈で残酷な、ハプスブルクの女のしきたりに従う必要なんか、これっぽっちもない。何より僕は、愛する妻の体を、傷つけたくない」
……愛する、妻。
「もうこれ以上、子どもなんて、いらない。フランツ・ヨーゼフがいてくれれば、十分だ。僕には、できすぎなくらいだよ、この人生は」
「あなたは知らないんだわ」
そっとゾフィーは、夫との間に、少しだけ距離を取った。顔を上げ、その目をまともに見つめた。
くりっとしていて、かわいらしい目だ。
「愛する人の子を産むことは、女にとって、何より幸せなことなの」
熱く火照った頬を隠すため、ゾフィーは、夫の胸に飛び込んだ。
・~・~・~・~・~・~・~・~・~
※1
7章「世話焼きの皇妃カロリーネ」「ゾフィーとフランツル」ご参照下さい
※2
5章「シェーンブルンの東屋で」ご参照下さい
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