密会



 高い木の梢が空を覆う、窪地。小さなあずまやが、そこにある。


 けだるい昼下がり。

 木々の葉に隠れ、うとうととまどろんでいた鳥たちが、一斉に飛び立った。


 下草を押し分けるようにして、革のブーツを履いた軍人が現れた。オーストリア将校の勲章を2つ、胸に飾っている。ズボンの色は、鮮やかな赤だ。

 ためらいもなく、将校は、あずまやの中に入っていった。




 「ヴァーサ公」

 足音荒く入ってきた上官を見ても、フランソワは、眉ひとつ、動かさなかった。

「そろそろお見えになるころだと思っていました」

 落ち着き払って、迎え入れる。

 あずまやには、他に人の姿はない。

 侍従はおろか、付き人のひとりもいなかった。


 ヴァーサは、無言で、彼の前に、仁王立ちした。

「そんなところに立っていらっしゃらないで……どうぞこちらへ」


 慇懃に、フランソワが、目の前の椅子を勧める。籐で編まれた、南洋風の椅子だ。寒くなり始めたシェーンブルンには、似つかわしいとはいえなかった。

 繊細な編み椅子に、ヴァーサは、どっかと腰を下ろした。


 くすりと、フランソワが笑った。


「何を笑っている」

「いえ……。ヴァーサ公。どうして僕がここにいるとわかりました?」

「私も、昼食会に、同席していた」

「そうですか。奇遇ですね。僕も、昼食会にいましたよ。まあ、僕は、食事はいつも、宮廷の連中と摂らなければならないわけですが」



 6月に実際の軍務についたフランソワは、宮廷から独立を果たした。

 自由を得た彼は、さっそく、仲間を集めて、食事会を開いた。

 仲間……軍の仲間である。必ずしも、貴族ばかりではない。

 はじめは、おとなしくしていた軍人達も、次第に、遠慮を忘れた。そこが、宮殿であることを忘れ、大騒ぎを繰り広げた。


 これが、宮廷の不評を買った。

 皇帝の元に、大公たち……宮殿に居住する、皇帝の下の弟たち……からの苦情が、殺到した。

 以降、フランソワは、宮殿での食事は、皇帝のテーブルで摂らなければならなくなった。

 退屈な、宮廷の面々と一緒に。


 アルザー通りの兵舎にいる間は、このひどい束縛から開放されていた。

 だが、体調を崩し、また、コレラの流行で、ここシェーンブルン宮殿に籠もることにより、再び、閉塞的な習慣が、復活したのだ。



「でも、先日は、少しはましでした。ゾフィー大公妃がいらしたから。もちろん、あなたもです、ヴァーサ公」


 先日の昼食会は、比較的、大きなものだった。皇帝夫妻の他、二人の大公皇帝の息子の妻たち、サレルノ公夫妻皇帝の娘夫妻も列席していた。


 妻が、皇妃の縁者ということで、ヴァーサ夫妻も招かれていた。


 それなのに、どういうわけか、二人の大公皇帝の息子たちは、姿を見せなかった。


 ゾフィー大公妃は、義理の姉、マリア・アンナフェルディナンド大公妃と同じテーブルだった。

 彼女は、一度も、ヴァーサに目を向けなかった……。



「大公妃のことを、ずっと見ていたわけじゃない」

 いきなり、ヴァーサは、弁解から始めた。

「私の妻が見ていたのだ。つまり、扇をだ」

「……扇」


 フランソワは眉を顰めた。

 なおも、ヴァーサは言い募る。


「ゾフィー大公妃の扇だ。妻が、それを、見ていた。大公妃は、扇を開いて、扇の骨をふたつ、君に見せたろう? だから、2時とわかった」

「なるほど」


「つまり、私の妻ルイーゼが、だ」

「ええ、奥様……僕の姪が、ですね。ルイーゼが、僕とゾフィーが会う約束の時間は、2時だと、見て取った」

「そうだ」


「どうしてここあずまやだとおわかりになったんです?」

重ねて、フランソワが尋ねる。

「それは……」

 ヴァーサは言いよどんだ。

 思い切ったように顔を上げた。

「ここが、彼女の気に入りの場所だからだ。シェーンブルンで密会するとしたら、ここしかない」


「密会」

くすくすと、フランソワは笑い出した。

「僕とゾフィーが、密会」


 ほぼやけくそのように、ヴァーサは、声を荒らげた。

「いずれにしろ、彼女は来ない。さっき、彼女の部屋を、F・カール大公が訪れたからな」

「へえ。叔父上が」


 落ち着き払って、フランソワが答えた。あたかも、自分たちの約束の時間に、叔父ゾフィーを訪れるのは、想定の範囲内だったとでもいうように。


 フランソワは、笑い止まない。春先に比べ、一段と痩せた肩が、神経質に上下する。その様子を見つめ、きっぱりとヴァーサは言った。

 「誤解をするな。私が君のところへ来たのは、ゾフィー大公妃の話ではない」


 青白い顔に、初めて、当惑が浮かんだ。

「ゾフィーではない? では、あなたが、僕に何を? ……他に人がいないとわかっている、この場所で?」


 「ライヒシュタット公。君は、具合が悪いのだろう?」

 思いがけない言葉が、ヴァーサの口から漏れた。

 鋼色の目が、真剣な眼差しで、年若い青年を見つめる。

「春、君は、体調には全く問題がないと言った。だから、私は、軍の上層部に提出する評価書にも、そう書いた。私は……君は信じてくれないかもしれないが、私は、君を、高く評価している。一点の汚点もない評価を、君に与えたかったのだ」

「……」


 フランソワの唇が震えた。

 だが彼は、何も言わない。


「だが、私は間違っていた。今ではそう思う。君の侍医……何と言ったか……が、兵舎を訪れるのを、兵士らが、何度も、目撃している。君は、ずっと具合が悪かったのだ。それを隠して、軍務に邁進した。声が枯れ、体がぼろぼろになるまで」


 フランソワは、激しく首を横に振った。

「違います! マルファッティ侍医は、ちょっとした不調だと言いました。塩風呂に入り、セルツァー水炭酸水を飲めば治るんです。本当は、軍務を休むには及ばないんだ!」

「それは嘘だ」


 冷静に、ヴァーサは答えた。椅子に背を押し付け、自分より若い男の、強い抗議に負けまいと、身構える。


 フランソワのそれは、抗議というより、熱情だった。

 長く憧れていた軍務への。

 ナポレオンを成功に導いた……。


「嘘ではありません! 僕は健康です。現に今日も、こうしてここで、ゾフィーと待ち合わせをしている!」

「その必要は、ないんだよ」


 異様に静かな声だった。

 ヴァーサは、じっとフランソワを見つめた。


「私は、ゾフィーの気持ちを、最大限に尊重する。彼女がオーストリアを選ぶなら、私は、ただただ、彼女に忠誠を尽くそう。……オーストリアの軍人として」


 フランソワの目が、大きく見開かれた。

 信じられないという風に、彼は、枯れた声で叫んだ。


「彼女を嫌いになったのですか? フランツ・ヨーゼフ叔父の子を産んだ彼女を?」

「まさか! 彼女のことは、ずっと好きだ。ずっとずっと、愛し続ける」


「嘘だ!」

激しい怒りが、その目に燃える。

「ルイーゼと結婚して、あなたは、ゾフィーを、捨てたのだ」


「嘘ではない。ただ、前よりもっと、彼女の幸せを願うようになっただけだ」

「わからない……」


 当惑よりも、怒りの方が勝って見えた。

 反対に、ヴァーサには余裕があった。


「わからなくていい。君も、やがてわかる。一途であるだけが、愛ではないのだ。私は、彼女を破滅へ導くようなことはしない」

「彼女がこの国の大公妃だから、だからあなたは……、でもそれは、彼女のせいじゃない!」

「違うといったろう? 私は、今でも彼女を愛している! 誰よりも!」


 フランソワが怯んだ。

 思わず大声を出した自分を、ヴァーサは恥じた。

 大きく息を吸い、感情を鎮めた。


「彼女は、小さな息子を選んだ。私ではなく。その意味が、わかるか?」

「それは、オーストリアへの義務と献身……」

「呆れたな。私がふられた元凶には、自覚がない」


 ヴァーサは、首を振った。

 この恋が生んだ、最後の恨みをこめて、フランソワを睨み据えた。


「君がいたからだよ」

「……なんですって!」

「彼女は、自分の息子に、君のような思いをさせたくなかった。この、儀礼で縛られた冷たい宮廷に、ひとりぼっちで放り出したくはなかったのだ」


 実際には、父君F・カール大公がいるわけだが。

 しかし、あの、享楽的で政治的野心の皆無な皇帝の次男……しかも、彼は、昔から、下品だといわれていた……に、息子を守り通すことは、難しいだろう。


「……僕の、せい?」

 呆然と、フランソワが囁く。


 ヴァーサは、鼻で笑ってやった。

「君は、傲慢な自信家だな。違うよ。息子への愛だ。そこは、間違えてはいけない。私は、そんな彼女を尊重する。これから先、私の、彼女への愛は、彼女とその息子……オーストリアへの献身として、存在し続けるだろう」


 張り詰めていたヴァーサの表情が緩んだ。

 別の緊張感が、その彫りの深い顔に浮かぶ。


「だから、私への牽制は、不要だ。君は、彼女と出歩く必要はない。おとなしく寝室に籠もって、療養するがいい」

「い……やだ」


 息が詰まったような音が、フランソワの喉から漏れた。

 激しく、彼は咳き込んだ。

 痛ましげに、ヴァーサが、眉を寄せた。


「君は、具合が悪いのだろう? そんな体で、夜遅くまで、人混みの中を出歩くのは、苦しいだろうに。声枯れだって、ちっとも治ってないじゃないか」

「僕は、ゾフィーをエスコートして……」

「彼女は、気がついていないのか?」



 自分で質問しておいて、ゾフィーは、何も気がついていなかろう、と、ヴァーサは思った。

 この青年は、完璧に自分を隠すことができる。体調の悪さも、強い意思で、制御することができる。


 隣で観劇し、あるいは音楽を聞きながら、きっとゾフィーは、彼の不調に、気づいていなかろう。

 悟らせまいと、彼が、全力で努力しているからだ。


 咳は影を顰め、体温も、平温に見えるだろう。少しくらいだるそうに見えても、彼はそれを、心の鬱屈……退屈、人の多さ、煩わしい社交……のせいにしてしまうに違いない。


 だから、上官である自分も、騙されたのだ。皇帝が、強制帰還命令を出すまで、部下の不調に、気づかなかった……。



 ヴァーサは首を振った。

「君が、ゾフィーと連れ立って、人前に出る必要はない。だって、私は、もう、彼女のそばに行かない。その手も握らなければ、不躾な視線を送ったりもしない」


「……花も?」

咳の合間から、聞こえた。


「花?」

「あなたは、ゾフィーに、コスモスの花を送ったでしょう? 優美な、白いコスモスの花束を」

「ああ……」

ヴァーサはためらった。

「花を送るのくらいは、許してほしい。陰ながら、彼女を賛美することくらいは……」


「それなら、黄色い花にして下さい」

「黄色?」

フランツ・ヨーゼフ幼い従弟(幼い甥)が喜ぶのです。マダム・ストゥムフィーダー養育係も」

 乾いた笑いが、その唇から漏れた。


「……。なあ、ライヒシュタット公。ひとつだけ、教えてほしい」

 改まってヴァーサは尋ねた。

 フランソワはまだ、小さく咳き込んでいる。

「なぜそこまで、彼女に尽くそうとする?」


 悪い噂を、一身に引き受けて。

 病の身をひきずるようにして。


「あなたと同じですよ。彼女のことが、大好きだから」


 ……男が女を愛するように?

 だが、それ以上の問いかけを、ヴァーサはためらった。


 頑なな微笑が、面窶れした顔に浮かんでいる。普段は美しい彼が、凄みを帯びて見えた。

 ヴァーサがそれ以上踏み込むのを、彼は、全身で拒絶していた。


 ……フランツル。

 ヴァーサの耳に、ゾフィーが彼を呼ぶ声が蘇った。

 明るく楽しげな声。

 会えて嬉しいという、素朴な喜び。

 こんな風に親しげに、彼に話しかける者を、ヴァーサは、他に見たことがなかった。


 たくさんの儀礼と作法に、がんじがらめに縛られて暮らす彼の孤独を、ヴァーサは思った。

 仲間を呼んでの食事会ですら、顰蹙の的になるのだ。宮廷の中には、彼の才能を妬み、彼が皇帝に愛されていることを嫉む者もいると聞く。また、メッテルニヒなど、依然としてナポレオンの亡霊を、その息子に重ねる臣下も多い。


 連れてこられたウィーン宮廷母の実家で、彼は、未だに異邦人だった。



 かつて、ゾフィーも、孤独だった。バイエルンから嫁いだこの国に、彼女は、なじむことができなかった。

 だから、叔母ゾフィーフランソワの間に、きずながうまれた。同じ孤独を理解し合うきずなだ。


 やがて、フランツ・ヨーゼフ息子を得て、ゾフィーは、彼女本来の役割に帰ることができた。未来の皇帝の母、という、確固とした地位へ。

 だが、フランソワは……。



 咳は、なかなか治まらなかった。ひゅるひゅると胸が鳴る音が聞こえる。声は、初めから、ひどく掠れていた。


「大丈夫か? それは、普通の咳じゃないぞ。おそらくは、胸の病だ。きちんと静養しなければ、大変なことになる」


「胸の病などではありません!」

 ぴたりと咳が止まった。

 激昂した声が言い返した。

「肝臓の病なのです! 父と同じく!」

 ナポレオンの死因は、肝臓の病だと、ヴァーサも聞いたことがある。


 ……父と同じ病だからといって、それがどうなる。


「もうこれ以上、父親にかかずらうな」

故国スウェーデンを追われ、今や狂人となった父を持つヴァーサ(※)は言い放った。

「前にも言った。それは、不幸だ」

「ですから、僕は……」


 口答えを、ヴァーサは、許さなかった。

 彼と二人きりで会わねばならなかった理由を、ヴァーサは実行に移した。

 彼は命じた。


「ハンガリー第60連隊大隊長に命じる。医師の許可があるまで、静養のこと。静養は、皇帝ご自身のご指示でもある。反抗は許されない。なお、上官の命令に逆らい、軍務に戻った場合は、軍法会議にかける」

「……」


 血の気の失せた唇が震えた。

 色のない目で、フランソワはただただ、ヴァーサ上官を、見つめた。








・~・~・~・~・~・~・~・


※ ヴァーサの父については、

7章「ゾフィーとヴァーサとスウェーデン」

を、ご参照下さい。





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