プロケシュの訪れ
10月1日。
思いもかけない人が、シェーンブルン宮殿のライヒシュタット公の元を訪れた。
プロケシュ少佐だ。
ボローニャの教皇庁へ派遣されていたプロケシュ少佐が、ウィーンへ一時帰国したのだ。
最初、プリンスは、文字通り、息を詰まらせた。
ありえない、といった顔で、親友の顔を見守るばかりだった。
「ほら、プリンス。プロケシュ少佐に挨拶なさい」
プロケシュにくっついてきたディートリヒシュタインが言うと、ようやく、我に返ったようだった。
「少佐。あなたに会えて嬉しい。言葉に表すことのできない喜びです」
掠れた声で、彼はつぶやいた。
「ですが、プロケシュ少佐。本当にあなたなのですね? 僕の所へ、帰ってきてくれたんですね?」
プロケシュは、笑いだした。
「そんな、幽霊を見るような目で見るのは、止めて下さいよ。私です。プロケシュ=オースティンですよ」
おずおずと、フランソワは、プロケシュの手を握った。
「僕はてっきり……僕は、あなたに疎まれたのだとばかり、思っていました」
「あなたを嫌いになるような者はおりません」
握られた両手を、プロケシュは、しっかりと握り返した。
「この夏、プリンスは、君に手紙を書いたのだよ、プロケシュ少佐。だが、君から返事がなかったのを、気にかけておられるのだ」
傍らから、ディートリヒシュタインが口を出した。
プロケシュは、ちらっと、ディートリヒシュタインを見た。
「それは、行き違いになっていたんです。この夏、私は、スイスへ行っていましたから」
スイスで、プロケシュが、兄の侯爵と会ったことは、ディートリヒシュタインも知っているはずだ。
兄の侯爵だけではない。
オルタンス=ボアルネや、エリザ・ナポレオーネ、そして、
「旅から帰って、僕は、あなたからの手紙を見つけました。ご病気だと書かれていました。返事を書く間も惜しいと思い、そのまま、馬に飛び乗りました」
「本当に?」
プリンスの目が輝いた。
今にも、仔犬のように、飛びついてきそうだ。
プロケシュは慌てた。
「そのままというのは、ちょっと語弊が……。正確には、
「でも、すぐにいらしてくれた」
プロケシュを見つめるプリンスの目は、涙ぐんでいるようにさえ見えた。
「僕は嬉しいです、プロケシュ少佐。あなたの友情を疑わなくてよかった……」
「それより殿下」
照れくさくなって、36歳のプロケシュは咳払いをした。
「ご病気だったんですって?」
プリンスは、ぽっと頬を赤らめた。
「たいしたことはありません。医者が騒ぐだけです。医者と……それから、ディートリヒシュタイン先生が」
じろりと睨まれ、ディートリヒシュタインは、そっぽをむいた。
この夏、ウィーンにコレラが流行り、宮廷はシェーンブルンに避難した。しかし、プリンスは、アルザー通りの兵舎から、離れようとしない。
心配するディートリヒシュタインの元に、グスタフ・ナイペルクが、不安を煽る情報を齎した。
プリンスは、声がれがひどく、隊列の中ほどまで、声が届かないほどだという。それにひどく疲れやすくなっているとも、グスタフは伝えた。
……グスタフを、プリンスの周辺に置いておいて良かった。
グスタフはさらに、プリンスが、4日も、訓練を休んでいると伝えた。
全てを軍務に捧げているプリンスが、軍務を休むとは。
しかも、4日も!
もはや猶予はならぬと、ディートリヒシュタインは思った。彼は、即座に皇帝に進言し、ようやく、プリンスは、シェーンブルンでの静養を受け入れた。
だが、マルファッティ医師が勧めたのは、2週間の休養だけだった。
9月に入り、プリンスは、立て続けに連隊の指揮を執った。
案の定、プリンスの具合は悪化し、無理を押しての軍務であることは、一目瞭然だった。
今度は、マルファッティ医師が皇帝に進言し、再び、プリンスは、シェーンブルンに引き戻された。
「マルファッティは、僕を、『逮捕』したのです」
不満そうに、プリンスが訴えた。
「それから僕はずっと、囚われの身です」
「確かに少し、お痩せになったようですね……」
しげしげとプリンスを眺め、プロケシュは言った。
6ヶ月半ぶりに再会したプリンスは、しかし、心配していたほど、具合が悪いようには見えなかった。
プリンスが、最初にシェーンブルン宮殿に引き上げてきた時、宮廷の人々は、あまりの顔色の悪さに驚いたという。
しかし今、プロケシュの前にいるプリンスは、……以前と全く同じとは言わないけれど……活気に満ちて見えた。
……宮廷の人々は、心配しすぎだ。
自分を安心させるように、プロケシュは思った。
病気の心配より、むしろ、別のことを、気にかけてほしかった。
その、遅すぎる昇進を。
ウィーンから出られない鬱屈を。
「さあ、プロケシュ少佐。話して下さい。僕はあなたに聞きたいことが、いっぱいある。それから、僕の
プロケシュの手を引き、プリンスがはしゃいだ。
椅子まで、引っ張っていく。
その間も、待ちきれないのか、しきりと、シェーンブルンの外の様子を聞きたがった。
郊外の離宮では、情報が遮断されているのだ。
今まで離れていた時間を埋め合わせるように、二人の友は、熱心に語り合った。
……なんとまあ。プリンスの全身に、生気が漲っているではないか。
話し込む二人を見ながら、
今までの不調が、嘘のようだ。プロケシュと再会を喜び合うプリンスには、生き生きとした情熱と、活力が戻ってきたようだった。
プロケシュとの会話は、プリンスにとって、真に有用であると、今更ながらに、ディートリヒシュタインは実感した。
……プロケシュ少佐となら、プリンスも、心の赴くままに、さまざまなことを語り合うことができる。
彼が、自分に、本当の気持ちを打ち明けないのは、仕方のないことだと、ディートリヒシュタインは、達観していた。
なにしろ自分は、彼の家庭教師だったのだから。16年間にも渡って、彼の監視をしてきたのだから。
プロケシュ少佐は、ある意味、ディートリヒシュタインの贖罪だった。
その気持ちから、
年の近い(それでも、16歳ほどの開きがあるが……)彼なら、プリンスも、胸襟を開いて接することができるだろう。
広く世界を見聞してきたプロケシュは、物事を公平に、フラットに見通す力を持っていた。
そこが、あの、軍の付き人たちとは違うところだ。
特に、ハルトマン将軍の心は、あまりに乾いているように、ディートリヒシュタインには感じられた。ろくに本も読まないし、芝居を観にも行かない。それどころか、冗談ひとつ、通じない。彼は、面白みにかけるのだ。
極めて軍人らしいといえばその通りだが、ハルトマン将軍は、軍人でしかなかった。
上官がそのていたらくなので、モルら、二人の部下たちも、プリンスと親しく交わることができない。
……やはり、プロケシュは、プリンスにとって、必要なのだ。
立て続けにプロケシュが口にした、国内外の夥しいニュース……プリンスの知らないことばかりだった……が、彼を、大いに、活気づけたようだった。
……よかった。これでやっと、以前の、元気なプリンスが戻ってくる。
夢中で語り合っている二人を、ディートリヒシュタインは、惚れ惚れと眺めた。
*
翌日、ライヒシュタット公は、プロケシュに、手紙を書いた。
「
貴方を見て、私の心は、喜びに満ち溢れています。あなたは私に、なんと大きな力を呼び起こして下さるのでしょう! 政治、歴史、軍務、科学……私のそれらは、国を統合し、あるいは破壊する理性です……が、私の頭の中にはあります。それらは、貴方の知性、知識、つまり、貴方のアドヴァイスがなければ、到底、実現し得ぬものです。
私には、それはそれはたくさんのアイディアがあります。ですが、それらはひどく無分別な考えなので、心の奥底にずっと押し込め、時折、浮上させるだけにしてきました。
ですが、今、貴方が、帰っていらしたのです。貴方は、私がアイディアを、解き放つのを、決して諌めたりはなさらないし、空に浮き上がったアイディアを、引きずりおろしたりもなさらないでしょう。
……。
」
プロケシュは、来年2月までの滞在予定だった。
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