焦りと不安



 ナイペルク将軍が亡くなってから、一年半が過ぎていた。


 この一年半ほどの間に、パルマのマリー・ルイーゼは、オペラ劇場の完成式を盛大に執り行ったり、スイスに旅行に出掛けたりした。

 クリスマスには、パルマに戻って、二人の子どもと、ナイペルクが前の結婚で得た子どもたちと過ごした。


 カーニバルの頃には、多少老けた気はしたが、気力が蘇り、意気揚々と行事に参加することができるようになっていた。


 ウィーンのもう一人の息子、フランソワからは、何週間か、音信が途絶えた。

 しかし間もなく、以前よりも頻繁に手紙を寄越すようになった。

 手紙には、愛情が籠もっていた。だが、以前よりも砕けた感じになり、自分の望みを、はっきりと伝えてくるようになった。



僕の血の中には、軍人の血が流れています。軍務以外の何物も、僕を幸福にすることはできません。だから、お願いです、親愛なるお母様。何卒、僕がスタートラインに立つ手助けして下さいませんか?

……



僕につけられる軍人は、道案内人であると同時に、友でなければなりません。お願いです、お母様。あなたの持てる全ての力を使って、僕よりずっと優れた人材が選ばれるようにして下さい。間違っても、恐ろしいトンマがやってくることのないように、どうか、お母様のお力を貸して下さい。

……。



 母の過ちを盾に、フランソワ息子は、優位に立とうとしているようだった。そして、彼なりの人生を切り開こうとしているように、マリー・ルイーゼには、感じられた。

 それはそれで、良かった。息子に頼られ、母としての自信が、再び、自分の身の中に漲ってくるのを、彼女は感じた。




 この年(1830年)、6月17日。マリー・ルイーゼは、蒸気船でアドリア海を渡って、トリエステに到着した。

 蒸気船で海を渡るのは、まだ、珍しいことだった。彼女の冒険は、かなり、話題に上った。


 イタリア半島の根本のトリエステから北上し、オーストリアの古都、グラーツへ向かう。グラーツでは、父の皇帝と、息子が、待っていた。


 2年ぶりに会う皇帝も、息子も、彼女の再婚のことには、触れようとしなかった。マリー・ルイーゼが安心したことには、フランソワは、異父妹弟のことは一切、話題にしなかった。


 マリー・ルイーゼは、9月30日まで、オーストリアに滞在する予定だった。







 2年ぶりに会った息子フランソワは、揉み上げを生やし、一層、精悍になっていた。

 背は2年前よりもまた伸び、そして、すらっとした、優美な体躯になっていた。


 ……この体つきは、ハプスブルク家のものだわ。

 マリー・ルイーゼは思った。

 ……息子に会った人は、ナポレオンに似ているとばかり言うけれど、そんなことはない。彼には、ハプスブルクの血が、色濃く流れているのよ。


 ディートリヒシュタインは、夜明けの咳と声枯れを心配した手紙を書き送ってきていた。だが、全く、そんな気配は感じられない。

 息子は、元気そうだった。



 「お母様。僕はもう、独立したいのです。軍に入り、ウィーン宮廷の外に出たいのです」

 母が落ち着くのを待って、フランソワは話を持ちかけてきた。

 それは、マリー・ルイーゼには、予期していたことであった。



 9年前、11歳のフランソワを、軍曹に任命するとの内示がパルマに届いた時、彼女は、大いに驚いたものだ。

 オーストリア大公女である自分の息子皇帝の孫が、よもや、将校の、ほぼ最下位の身分に就けられるとは、思わなかったからだ。正直、大佐より下の位は、考えていなかった。


 しかし、フランソワは、不平は一切言ってこなかった。むしろ、喜んで軍務に励んでいるらしかった。

 その後、長いこと、軍曹からの昇級はなかった。それでも、彼は、不満を言わなかった。


 だが、マリー・ルイーゼは、納得できなかった。

 それで、息子が15歳の時に、父の皇帝に、昇進を願い出た。


 この時、家庭教師ディートリヒシュタインは、猛反対した。教え子の若さと未熟さを指摘し、人々の熱狂に巻き込まれる不安を説いた。

 皇帝は、家庭教師の意見を受け容れた。昇進は、2年先まで見送られた。


 それでも、まだ、大尉である。大尉には、平民出身者でさえ、なれる。


 さすがに、この夏は、昇級させるようなことを、皇帝は言っていたが、未だ、大佐には、ほど遠い。


 自分が昇級しないのは、実務経験がない為だと、フランソワは、納得していた。彼からは、皇帝に、昇級を願い出ては、いないらしい。


 マリー・ルイーゼには、歯がゆかった。

 息子には、ぜひとも、大佐になってほしかった 白い上着に赤いズボン、腰には金の飾りを下げて、誇らしげに、自分の前に、姿を現してほしいのだ。


 大佐昇進。

 まずは、そこからだ。



お祖父様皇帝には、僕を軍に入れる御意思はおありです。ですが、それはいったいいつのことになるのか……」

 未だ、具体的なことは、何も決まっていないという。


 昇進を希望するのではないところが、いかにも彼らしい。マリー・ルイーゼには、いまひとつ、物足りなかった。

 だが、ようやく、彼にも「欲」が出てきたのだ。一人前の男としての「欲」が。

 マリー・ルイーゼは、嬉しかった。


 軍に入れば、従軍経験さえあれば、昇進は、思いのままだ。

 マリー・ルイーゼ愛娘に頼まれれば、皇帝もきっと、彼の早期入隊を実現してくれるだろう。



 さっそく、家庭教師ディートリヒシュタインと、新任の医師マルファッティを交えて、話し合いが持たれた。



 「外国や、国内でも辺鄙な駐屯地へ赴任するのは、私は、反対です」

 ディートリヒシュタインが、いつもの意見を延べた。

「そういう所では、外国の政治勢力や、ひょっとして、暗殺者だって、容易に、プリンスに近づけてしまうでしょう。そもそも、プリンスは、フランスと、戦えますか?」


 もちろん、彼は、パルマへも、この趣旨の手紙を、何通も書き送ってきていた。

 ディートリヒシュタイン伯爵は、プリンスの本領は、社交や外交にあるべきだと、主張していた。


 しかし、マリー・ルイーゼは、気がついた。

 ディートリヒシュタインの口調が、トーンダウンしているのだ。


 ……彼は、生徒を尊重する教師だよ。最後には、生徒の希望を聞き入れる。

 亡くなったナイペルク二番目の夫が、そう評していた。

 ディートリヒシュタインは、ナイペルクの親友だった。


 今、フランソワ彼の生徒は、入隊を希望している。教師ディートリヒシュタインは、明らかに、教え子の希望を受け容れていた。あまつさえ、ひそかに応援さえしているのが、マリー・ルイーゼには、見て取れた。



 「僕は、軍務に励みたいのです!」

母に向かい、フランソワが、強調する。


 マリー・ルイーゼは、ちらりと、家庭教師ディートリヒシュタインを見た。

 何か言いたげにディートリヒシュタインは、口を開き、だが、何も言わなかった。


 マリー・ルイーゼは、大きく頷いた。

「わかりました。入隊を早めるよう、私から、お父様皇帝にお願いしてみましょう」


「お待ち下さい」

 穏やかな、だが、はっきりとした声が制した。

 マルファッティ医師だ。

 痩せて色の浅黒いこのイタリア人医師とは、マリー・ルイーゼは、初対面だった。



 マルファッティは、亡くなったシュタウデンハイムの後任だ。

 亡くなる直前に、シュタウデンハイム医師は、フランソワを、肺の病だと診断している。

 しかし、マルファッティは、肺の病は、二次的なものだと結論づけた。成長期が終わり、体のバランスが整えば、次第に治まると言って、マリー・ルイーゼを安心させてくれた。


 事実、彼女が見ている限り、フランソワは、殆ど、咳してはいない。

 ディートリヒシュタインは、彼女母親に会ったから治まったのだと、言い張っているが……。


 いずれにしろ、その程度の咳なら、いつもの家庭教師の心配性に過ぎないと、マリー・ルイーゼは楽観していた。



 「なんでしょう、マルファッティ医師」

 フランソワの咳が心配いらないのだとしたら、新任医師に、いったい、何の意見があるというのだろう。


「ディートリヒシュタイン先生はここにおられますが……我々は、もうお二方の、ご意見も参考にすべきではないでしょうか」


「もうお二方?」

「はい。ウィーンにお残りになっている、フォレスチ先生とオベナウス先生です。お二人も、プリンスの教育に心を配り、常に、プリンスの身の回りにおられるわけですから、ぜひとも、ご意見を伺わなければなりません」



「でも、フォレスチ先生もオベナウス先生も、ここグラーツには、おられませんよ!」

悲鳴のような声を、フランソワが上げた。


「ですから、いずれ」

落ち着き払って、医師は答えた。

マリー・ルイーゼ母上様には、皇帝へお願い事をされるのは、それまで、お待ちになられたらいかがでしょう。実際に両先生に会われて、ご意見をお聞きになってからでも、遅くはないと思います」


「……そうね。フォレスチ先生とオベナウス先生にも、お世話になっていますものね」

マリー・ルイーゼはつぶやいた。


「それでは、いつになるか……」

珍しく、フランソワが、感情に捕らわれた声を出した。


 息子は、何を焦っているのだろう、と、マリー・ルイーゼは不思議に思った。

 まるで、体の奥底の、何か見えない信号に急かされているようだ。

 19歳のフランソワの前には、長い未来が、洋々と拡がっているというのに?



 いずれにしろ、彼女は、息子の将来について、皇帝と話し合うつもりでウィーンに来た。


 皇帝自身も、フランソワが実際の軍務につくことに、賛成しているという。

 ただ、赴任地がまだ決まっていないというだけだ。それも、プラハの名が、候補地に挙がっている。

 昇進はともかく、実際に軍隊生活に入るのは、時間の問題と思われた。



 理を説くように、マルファッティが諭す。

「皇帝には、ウィーンにて、お二人の先生方のご意見も聞かれた上で。その方が、ずっと説得力が増す筈です」


 ……そしてこの医師マルファッティは、どうやら、フランソワを、軍隊に入れたくないみたいだ。

 一抹の不安が、マリー・ルイーゼの胸を過る。実は息子の容態は、深刻なのものなのかもしれない……。


 しかし医師は、全ては、皮膚の過敏と、肝臓の不調から来ていると、断言した。いずれにしろ、成長期が終われば治まる、一過性の症状に過ぎない、と。


 医師は、マリー・ルイーゼ愛娘から皇帝へのお願いを、どうしても先送りさせたいようだった。

 少なくともそれは、医学的見地からではない。

 医師マルファッティは、フランソワを、ウィーンの外へ出したくないだけのように、マリー・ルイーゼには思えた。


 ……まるで、メッテルニヒ宰相が乗り移っているようだわ。



 フランソワが、じっと、自分を見つめている。

 しかし彼女には、ウィーンで留守番をしている、二人の教師を蔑ろにすることは、できなかった。


「もちろんだわ。フランツの面倒を、ここまで見てくれたんですもの。是非とも、フォレスチ先生とオベナウス先生のご意見を、お聞きしなくては」


 皮肉な目で、フランソワは、医師マルファッティを見た。続いて、ディートリヒシュタインにも、縋るような眼差しを向ける。


 教師は、教え子の視線を外した。


「失礼します」

言葉少なに一礼し、彼は、退室していった。

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