プロケシュ=オースティンとの出逢い
打ち上げられた花火が、シューッ、と、音を立てた。
夜空に、大輪の花が開く。
人々の歓声が上がった。
ウィーンから、皇帝が訪れていた。そして、パルマからは、大公女、マリー・ルイーゼが、蒸気船でアドリア海を渡るという目新しいルートを経て、ここ、グラーツを訪れた。
グラーツ城を取り囲んだ人々の興奮は、高まるばかりだった。
「ナポレオン、万歳!」
誰かが叫んだ。
その叫びは、あちこちに、伝播した。
そして、とうとう、群衆の一人が、こう、叫んだ。
「若きナポレオン! 万歳!」
*
「プリンス。晩餐会が始まります」
ディートリヒシュタインが呼びに来た。ベランダに立ち、夜空を見上げている教え子に、中へ入るよう、促した。
「あまりにも無駄遣いだと思いませんか」
空を見上げ、フランソワは小さくため息をついた。
「こんな金があるのだったら、慈善事業に寄付すればいいのに。または、もっと有効に使ってくれる公共機関に」
ディートリヒシュタインは、肩を竦めた。
彼らには、聞こえなかったようだ。
群衆の熱狂が、誰に向かったのか……。
食事も済み、人々は、思い思いに、場を変え、歓談に
腰をカマーバンドで引き締め、膝裏まで届く長い上着を着用したフランソワも、愛想よく、周囲の人々と談話していた。肩からは、皇族を示すサッシュが、斜めに胸を横切っている。
時折、
不意に、彼のそばに集まってきた人々の群れが、割れた。
白い髭の地区司令官が、近寄ってきた。
彼は、目に涙をいっぱい、ためていた。
「プリンス。……なんて立派になられて。
言い終わるなり、滝のように涙を流した。
フランソワは、目を丸くした。
老人は、マッテチェリと名乗った。
オーストリア軍に入り、グラーツの司令官となる前は、ナポレオン軍にいたと話した。
当時はまだ、傭兵制度が残っていた。職業軍人は、自分が忠誠を誓う軍を選べたのだ。
「私は、あなたのお父様と、ご一緒に、戦ったのですぞ。かの、偉大なる戦い、マレンゴにおいて」
誇らしげに、マッテチェリは胸をそらした。
フランソワの顔が、紅潮した。彼は、老人の腕を掴んだ。
「……詳しく……、……詳しく聞かせて下さい」
興奮で、声が上ずっている。
マッテチェリは、大きく頷いた。
「当時、私は、ベルティエ元帥の副官として、プロイセン軍と戦っていました。命令を下す
マッテチェリの思い出は、鮮明だった。
彼は、ナポレオンが命令を下す様子を克明に描写し、その、ものに動じぬ豪胆さを褒めそやした。
「なにしろ、大砲の響きの強さだけで、相手の位置と戦闘の状況を把握できるのです。お仲間の元帥たちと冗談を言い合っていたかと思うと、不意に命令を発せられ、それがまた、的確ときた。常に平静で、自己抑制にたけ、その半面、注意深く慎重でいらっしゃる。だから、瞬時に、正しい判断が下せるのです」
マッテチェリの話は、尽きることがなかった。フランソワは、熱心に、殆ど、息もしないで聞き入った。
白ひげの老兵は、最後にこう言った。
「殿下。あなたは、偉大な名を有しておられます。あなたは、全方位から敵に脅かされるこの国の、まさに守護神となられましょう。そして、我らが愛する君主に、名誉あるご奉仕をされるでしょう」
フランソワは答えた。
「神が、この私に、父の20分の1でも、才能を与えてくれたのなら、嬉しいのですが。その能力を、私は、全て、このオーストリアに捧げます。貴方と共に、この国に尽くせるのは、私にとって、大きな喜びです」
2日後、マッテチェリは再び、皇室の晩餐会に呼ばれた。
34歳の将校、アントン・プロケシュ=オースティンだ。
プロケシュは、始め、反ナポレオン派だった。若き日のプロケシュは、ナポレオンの独裁に反対した。彼は、オーストリア軍に入り、フランスと戦った。
しかし、やがてナポレンが敗北し、フランスにルイ18世の王政が復古すると、あまりのその旧弊ぶりに、逆に、ナポレオンを擁護するようになった。
ナポレオンの廃位は致命的な誤りであり、信頼の、不当なる欠如だ、という論陣を、彼は張った。著書もあった。
プロケシュは、
プロケシュには、自信がなかった。
その時、空気が微かに揺れ動いて、彼女の息子が、近づいてきた。
ライヒシュタット公……ナポレオンの息子だ。
金髪碧眼の、美しい王子だった。背が高く、均整の取れた体つきをしている。唇がふっくらとしているのは、母親譲りだろうか。だが、尖った顎は、明らかに、ナポレオンに似ていた。
「母上。どうぞ、お席の方へ」
低く優しい声で、彼は母を誘った。
息子に手を取られ、
やがて、晩餐会が始まった。プロケシュのテーブルには、
その日の大きな話題は、先日行われたシューベルトの音楽会だった。2年前に亡くなったシューベルトは、今や、ウィーン音楽会の大きな人気をさらっていた。
皇帝のテーブルでは、彼の話でもちきりだった。芸術に関心が深く、パルマにオペラ劇場を落成させたばかりという
だが、プロケシュのテーブルでは違った。
プロケシュの向かい側には、皇妃とヨーハン大公が座していた。隣は、ライヒシュタット公だ。皇妃とヨーハン大公は、しきりに、ギリシアでのプロケシュの見聞を聞きたがった。
もともとプロケシュは、海軍に入り、東地中海に回される予定だった。そのため、ギリシアに、長く滞在していた。
話しながら、不意にプロケシュは、自分の隣にいた青年から、抗いがたい引力を感じた。暴力的なまでの熱量が、自分に注がれているのが伝わってくる。
潤んだ青い瞳が、非常に強い光を湛えて自分を見据えているのがわかる。
……?
隣りにいるのは、まるで、自分の心を奪い去っていく少女に出会った、10代の少年のようだった。少なくとも、プロケシュには、そう、感じられた。
運命の恋に、初めて出会った、ティーンエイジャー。
……?
だが、隣を見て確認するのは、不躾だし、マナーに反する。彼の隣にいるのは、皇帝の孫なのだ。
気のせいだと、プロケシュは思った。この頃、疲れが溜まっているようだ。
プロケシュは頭を振り、経験談に集中した。
「ライヒシュタット公!」
来客の一人が、彼を呼びに来た。軍人のようだ。
プロケシュに絡みついていた熱が、ふっと消えた。ライヒシュタット公は、軍人に親しげに微笑み返し、立ち上がった。
食事は済んでいた。二人は談笑しながら、テーブルを離れていった。
「ギリシア王には、どなたが即位されるんでしょうね。コーブルク公が辞退されてから、どなたの名も上がっていないけど」
二人を見送り、皇妃が尋ねた。
ギリシアは、つい先ごろ、イギリス、フランス、ロシアの助けを借りて、トルコから独立を果たしたばかりだった。
「本来なら、ギリシア人の中から、王を出すべきだと思いますよ」
ヨーハン大公が応えた。
「しかし、実際のところ、独立までは協調できていた国内諸勢力も、誰が王になるかということになれば、話はまた、別でしょう。いろんな派閥が対立をし始める。独立を援助したイギリスやロシア、フランスの思惑もあるでしょう。国内から王を選べば、再び、内乱などということに、なりかねない」
ため息をついた。
「だから、力のある外国王家から、王を引っ張ってくる。外来王は、必要悪なんでしょうな」
その考えは、全く突然、プロケシュの頭の中に降ってきた。
「ギリシア王なら、ライヒシュタット公はいかがでしょう!」
ヨーハン大公と皇妃に向かい、彼は言った。
声が、上ずった。
この考えは、居合わせた人々から、穏やかな笑みを引き出しただけだった。
プロケシュは知らなかったが、皇帝が、異教の国であるギリシアへ、孫をやるわけがないというのは、周知の事実だった。
「私は、賛成だわ」
唯一、
やがて、晩餐会はお開きとなり、帰宅の時間が近づいた。
プロケシュは、19歳の貴公子に、お別れの挨拶をしに行った。
ライヒシュタット公の前に立ち、彼は、腰を折った。辞去の挨拶を口にしようとする。その時、不意に、ライヒシュタット公の両手が伸びてきた。彼の手は、プロケシュの手を、鷲掴みにした。
しっとりと潤った、ひどく熱い手だ。
驚いて、プロケシュは目を上げた。相手の頬は、紅潮していた。
「僕は、ずっと前から、あなたのことを知っていました」
耳元で囁き、ぱっと手を放した。
プロケシュは、あっけにとられ、彼を見つめた。
青い瞳が、強烈な輝きを放っている。
「また、お会いしましょう」
そう言い残し、ライヒシュタット公は、立ち去っていった。
……一体、今のは、何の社交辞令だ?
暫く呆然と、プロケッシュはその場に立ちすくんでいた。
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