ずっとあなたを


 ……また、お会いしましょう。

 もちろん、そんなのは、単なる別れの挨拶だと、プロケシュは思っていた。

 だから、翌朝、ライヒシュタット公の家庭教師、ディートリヒシュタイン伯爵が、迎えに現れたのには、本当に、驚いた。





 自室の入り口に、プロケシュの姿を認めたプリンスは、文字通り、駆け寄ってきた。まるで子鹿のように跳ねている。その姿は、若さだけが持つ、強い熱意に溢れていた。


「僕は、以前から、あなたのことを知っていました」

昨夜と同じことを、プリンスは繰り返した。

「おわかりですか? 僕はもうずっと長いこと、あなたに、愛を抱いていたのです」


「……」

 相手の強い感情の波動に、プロケシュは、思わず後退った。

 ライヒシュタット公とは、昨夜が、初対面なのだ。彼には、何の心当たりもなかった。


 委細構わず、プリンスは続ける。

「だって、貴方は、僕の父の名誉を擁護して下さった。……世界が父の敵に回っていた時に! 僕は、貴方がお書きになった、ワーテルローの戦いに関する研究書を読みました。その、一行一句まで理解する為に、僕は貴方の御本を、二度、翻訳しました。……フランス語と、それから、イタリア語に!」


 全く思いがけない賛辞だった。

 そして、熱烈な、称賛だった。


「小著を、そのようにお読み下されたとは……それは、本当に、嬉しい限りです。全くもって……光栄です」

 しどろもどろと、プロケシュは応じた。


 少し遅れて、著者として、最大級の喜びが襲ってきた。プロケシュの心に、大きな歓喜が湧き上がった。

 喜びはあまりに大きく、後から思えば彼は、ぶっきらぼうにプリンスに接っしてしまったかもしれない。嬉しい気持ちの伝え方が、わからなかったのだ。



 「まあまあプリンス。プロケシュ少佐も」

にこにこと笑って、ディートリヒシュタインが口を出した。

「立ったままではなんですから。ささ、こちらへ」


 ヘラクレスの12の冒険を象った入り口を通り、プリンスの私室に通された。

 窓の下からは、警備の兵士の、威勢のいい掛け声が聞こえてくる。

 プリンスの部屋は、気持ちの良い雑然さに包まれていた。



 ……ライヒシュタット公を、ギリシア王に。

 一夜明け、その考えは、プロケシュの中で、ゆうべより一段と、確固たるものとなっていた。

 プロケシュは、ギリシアについて語った。


「ギリシアは、豊かな国です。彼の国と友好関係にあれば、オーストリアは、豊富な農産物や海産物を手に入れることができる。一方で、自国の産物を、ギリシアに輸出し、外貨を得ることができます。もちろん、オーストリアとの交易は、ギリシアにとっても、大変、益のあることです」


 言葉を区切り、すぐに続けた。

「どうですか? ギリシア王に立候補されてみては?」

 ライヒシュタット公は、穏やかに微笑んだ。

 だが、返事は帰ってこなかった。



 さらに二人は、貿易と経済について、話し合った。

 プロケシュの話を、ライヒシュタット公は、熱心に聞いていた。



 二人の会話を妨げたのは、侍従だった。彼は、ホーエンローエ将軍の来訪を告げた。

「これは、これは。お約束でしたか」

プロケシュは、慌てて、席を立った。

「いいえ! いいえ!」

殆ど悲鳴のような声で、ライヒシュタット公は叫んだ。

「まだここに居て下さい! 将軍は、ちょっと立ち寄られただけです。すぐに、帰られます!」


 間もなく現れたホーエンローエ将軍は、ライヒシュタット公に急かされるようにして、本当にすぐに、立ち去っていった。

 邪魔者はいなくなったとばかり、プリンスは、プロケシュを呼び戻した。



 プロケシュは、再び、地中海の国、ギリシアの良さをアピールし始めた。

 プリンスは、じっと聞き入っている。


 「ギリシア王に、というプロケシュ少佐のご意見に、反対は致しません」

 再び、ギリシア王への立候補を促したプロケシュに、返事を返したのは、ディートリヒシュタイン伯爵だった。


 会話に熱中していた二人は、彼の存在を、すっかり忘れていた。だが、伯爵はずっと二人のそばにいた。黙って会話を聞いており、時折、微笑んでいた。その様子は、大層、友好的で、慈愛に満ちているように、プロケシュの目には映っていた。


 ディートリヒシュタインは続けた。

「私の本音と致しましては、ナポレオンの国、フランスの王冠こそが、プリンスには、真にふさわしいと考えております」


 はっと、ライヒシュタット公が息を呑むのがわかった。

「先生……」

掠れた声で、彼は、何か言おうとした。


 ディートリヒシュタインは、にっこりと笑った。やや、皮肉な笑みだった。

「もちろん、ご親切にも、メッテルニヒ宰相が、私のこの、ささやかな意見に賛成してくれれば、という条件付きで、です」


 ……ナポレオン。

 師の口から、父の名が出た途端、プリンスは、歯止めが効かなくなったようだ。

 彼は、プロケシュに向き直った。その唇から、熱い言葉が、湧き出た。


「人は、もっと、彼の言葉に、強い賞賛を顕すべきです! 父は、僕の、生涯の目標です。僕の唯一の願いは、父のように、優れた軍人になることです!」



 話は、軍事戦略へ、流れていった。

 プロケシュは、軍事作戦に関するライヒシュタット公の、豊富な知識に驚いた。


 ……賭けてもいいが、戦略技術について、彼は、わが軍の誰よりも、長けているぞ!



 プリンスはまた、自分は、子どもの頃から、ずっとひとりぼっちだったと語った。自分は、真から尊敬できる、それゆえ己の全てをさらけ出せる、親友がほしいのだ、と。


 彼は、熱い眼差しを、プロケシュに向けた。青い目が、潤んで見える。

「僕の傍らに留まって下さい。どうかこの僕に、犠牲を捧げて下さい。あなたの未来を、僕に下さい。僕たちは、お互いに、わかり合えるはずだ!」


 まるでティーンエイジャー(確かに彼は、ぎりぎり19歳だった)から、熱烈な愛を捧げられたような気がして、プロケシュは、落ち着かなかった。もぞもぞと、椅子の上で、尻を動かす。


 相手の様子など一切構わず、プリンスが続けた。

 殆ど熱狂とさえいえるほどの、熱い思いに満ちた口調で。


「もし僕が、もう一人のオイゲン侯(※)として、オーストリア側につくように運命づけられているとしたら……。でも、僕は、自分に疑問を禁じ得ないのです。いったいどうやって、この自分は、その任務を果たせば良いのだ? ってね! 僕は、これから先の、軍での人事に、疑問を抱いているんです。軍務において、要求されるものや、高貴な義務について、僕を、教え導いてくれる人が必要です。政府宰相の押し付けではなく! しかし……」


 ライヒシュタット公は、言葉を濁した。傍らでは、ディートリヒシュタインが、苦い顔をしている。

 なんとか、穏便な言葉を、プリンスは探しているようだった。

 とうとう、彼は、意を決したように、言ってのけた。

「僕の身の回りには、そうした、充分な能力を持つ者が、いないんです!」



 プロケシュは、プリンスが、胸襟を開いてくれたのを感じた。

 長く孤独だったプリンスが、初めて、自分の胸の裡を、人に明かしたのだ。

 それは、驚くべきことだった。








※オイゲン公

17世紀から18世紀始めにかけて、ハプスブルク家に仕えた、フランスの武将です。オーストリアの将校として、彼は、母国フランスとも戦っています。

このお話でも、あちこちで言及しています。直近では、6章「ゾフィーと廃太子」の本文中に、簡単な説明があります。




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