Ich liebe Sie zeit lange.
その翌日も、プロケシュは、ライヒシュタット公の元を訪れた。
約束は、していなかった。
プリンスは、馬に乗って出掛けようとしているところだった。
即座に、彼は、外出を取り止めた。
「ギリシアのことです」
プロケシュを伴い、部屋に戻ると、いきなり、彼は、語り始めた。
「あなたは、僕に、ギリシア王になるよう、勧めました。しかし、そんなことが、この僕に、可能でしょうか。僕は、あまりにも若すぎます。一人で、国を治めるなどという大事が、この僕に、務まるでしょうか?」
それは、弁解にも近いものに、プロケシュには聞こえた。
……若い時代に、自信を持てないのは、よくあることだ。
……しかし、それにしても彼は、ギリシアにあまり魅力を感じていないような……。
プロケシュは思った。そして、はたと気がついた。
……ライヒシュタット公の大志は、もっとずっと気高く、遥かなものだ!
少しして、いつも二人のそばに張り付いていたディートリヒシュタイン伯爵が、席を外した。
その僅かな隙を狙ったかのように、プリンスは、プロケシュの両手を握った。
その手は、驚くほど、熱かった。
「お願いだから、正直に答えて下さい。僕には、何か、良いところがありますか? この僕に、大きな未来を受け止める力は、あるのでしょうか?」
「殿下、お忘れなきよう。私と貴方は、数日前に知り合ったばかりです。しかし、……」
彼の軍務の知識の豊富さについて、感じたことをことを言おうとした。
だが、そのプロケシュの口を封じるように、プリンスが叫んだ。
「それとも、僕は、全くの役立たずでしょうか!?」
19歳の青年の言葉だ。
人生で最も、傲岸不遜にもなれる、この時期に、こうまで、己を否定してしまうとは。
だが、この自信のなさこそが、未経験の素直さ、即ち、貴重な若さの無垢、そのものだともいえた。
誠意をこめて、プロケシュは答えた。
「貴方はもっと、自信をお持ちになるべきです」
「自信?」
フランソワは繰り返した。
プロケシュの励ましは、全く彼の心に届いていないようだった。なおも、彼は、質問を重ねた。
「お願いだから、教えて下さい。偉大なる帝王の息子は、一体何になればいいんですか? 欧州同盟国は、かつての皇帝の息子に、独立した地位を許すとお思いですか?」
ずっと、彼が抱いていた疑問だった。
誰にも打ち明けられずに来た、希望と不安。
……ナポレオンの息子。
それこそが、彼が抱えた宿痾だと言えた。
鷲の息子であるがゆえに、彼は、その羽を広げることを許されない……。
性急に解を出すことが、プロケシュにはできなかった。
ほんの僅かな慰めさえも、嘘くさく聞こえただろう。
ことはそれほど、簡単ではないのだ。
プロケシュの沈黙を、フランソワは、誠実さの証と受け取ったようだ。
長い間、心に抱いていたであろう思いが、溢れ出た。
「いったいどうやって、僕は、フランスへの献身と、オーストリアへの義務を両立させればいいのか。……もし、フランスが、僕を呼んだとしたら」
その目が、光った。
プロケシュは踏み込んだ。
「フランスへ、お帰りになるお気持ちが、おありなんですね?」
息を吸い、殆ど、前へのめるような勢いで、彼は、言い募った。
「フランスの無政府主義者が呼んだのでは、ダメです。そうではなくて、フランス帝国の……父の築いた帝国の……高潔な理念を信頼する人達が欲したら! そしたら僕は、即座に、応じるつもりです。その場合、もし、同盟国が、邪魔をするようなら、僕は、ヨーロッパ全土にこの剣を向け、戦う所存です」
……この人は。
プロケシュは息を飲んだ。
不意に、プリンスの声が、弱々しくなった。
「でも、教えて下さい。フランス帝国は、今でも存在するのですか? 僕には、わからない。小さな声では、ダメです。より多くの民衆の声がなければ……」
溜息を吐いた。きっと目を上げる。
「もし、フランスへ帰ることが叶わぬ運命なら、僕は、もうひとりの、オイゲン侯となり、この国の為に戦うことを熱望します。僕は、祖父が好きです。そして、オーストリア皇族の一員であることを、肌に感じています。だから、オーストリアの為なら、喜んで、剣を、世界に向けるでしょう」
一瞬のためらいがあった。
「ただひとつ、フランスを除いて」
生涯で初めて、フランソワは、自由に語ることを、自らに許した。
新しい友、プロケシュの前で。
ほとばしり出る言葉は、留まることをしらなかった。
彼は、心を開いた。
「誰も、僕の父を、理解していません! 彼の行動が、ただ野心によるものだと考え、彼を中傷するのは、恥ずべきことです! 父は、ヨーロッパの幸福を見据えた、雄大な善行に、生涯を費やしたというのに。オーストリアも、彼を、誤解し、故に、自国の利益を見誤りました。オーストリアは、ロシアの罠にはまってしまったのです。だから、僕は……、ロシアと戦い、勝利する以外に、
プロケシュは、プリンスの鮮やかな知性と判断力、明晰な思考と実践的な知能に、圧倒された。
彼は、社会秩序の保たれた国家、そのものであるように、プロケシュには感じられた。
プロケシュは、足繁く、プリンスの元に通うようになった。プリンスもまた、プロケシュの来訪を歓迎し、その訪れを熱望した。
*
プロケシュは、彼に、アレクサンダー大王の、浮かし彫りの入ったコインを進呈した。彼が、東方から、持ち帰ったものだ。
この後、プロケシュは、スイスへ向けて旅立つことになっていた。前から決められていたことなので、取り消すことができない。
しばらく、プリンスとは会えなくなる。お別れの挨拶のつもりだった。
「本当にいいのですか?」
プリンスは、ひどく喜んだ。受け取ったコインを、ためつすがめつ、眺めている。
「大したものではないのですよ」
差し出したプロケシュの方が、決まりが悪い思いがした。
彼は、プレゼントというものを、貰い慣れていないのではないか、とさえ、感じた。
「プリンスは、アレクサンダーに似ていますね」
巨大な帝国を築いた、英雄に。
だが、プロケシュは、そこまでは、言わなかった。
「大切にします。あなたのいない間、これを見て……」
言葉が途切れた。
青い目が、潤んでいた。
……だが、アレクサンダーは、若くして死んだのではなかったか。
プロケシュがそのことを思い出したのは、スイスに向けて馬上の人となった時だった。
※プロケシュからもらったこのコインを、フランソワは、首から下げて、亡くなるまで身につけていたそうです……
この章に入ってからここまでは、ほぼ全て、資料に忠実に描いたものです。特に、フランソワの言葉はそうです。
創作は、場面転換のつなぎと、「焦りと不安」の、マリー・ルイーゼの心情描写です。ですが、フランソワが15歳の時に、彼女が皇帝に、息子の昇格を願い出たのは本当ですし、また、13歳で軍曹に任命される前の年に、クツシェラ将軍が、パルマのマリー・ルイーゼに対し、「(息子さんの)このように低い身分(軍曹)でのスタートにショックを覚えていらっしゃるでしょう。大佐より下の任命は、考えられなかったはずです」云々と書き送っていますので、あながち大きな間違いではないと確信しています。
特筆すべきは、プロケシュへの、フランソワの傾倒です。
(長くなりますので、以下は、興味をお持ちの方だけ……)
まず、バーデンでの晩餐会で、プロケシュが、隣に座ったフランソワの視線を感じる場面です。私が頼りにした資料、私は、英語版で読んだ(しか読めない)のですが、翻訳者も混乱していたようで、文法がすごく崩れていて、ほぼ英語じゃありませんでした。別の資料を参照して、また、人から聞いたりして、なんとか意味を取った次第です。
ですよねえ。初めて恋に落ちた10代の男の子が、熱い視線で見つめるとしたら、普通は、若い女の子ですよねえ。34歳のプロケシュじゃなく。特に、この時代は。
英語翻訳者が混乱するのも、無理ないと思います。
また、
「僕は、以前から、あなたのことを知っていました」(「プロケシュ=オースティンとの出逢い」「ずっとあなたを」)
と、
「おわかりですか? 僕はもうずっと長いこと、あなたに、愛を抱いていたのです」
(「ずっとあなたを」)
なんですけど……。
英語版では、それぞれ、
" I have known you for a long time."
" I have held you in affection for a long time."
となっていました。
あふぇくしょん? らぶ、ではないの?
当然、腐女子の私は思いました。それで、原典(それはフランス語でした)で、確認してみたのです。
フランス語で愛している、は、確か、
原書では、Je vous aime depuis longtemps. になっていました。調べてみると、これは、相手が目上の場合に多く用いる表現だそうです。そして、
そこで、はたと気がついたのです。この資料には、元ネタがあった筈。資料は、後にプロケシュが出版した書籍から、ライヒシュタット公の言葉を拾っているのです。
探しましたとも。で、グーグルBooks で無料公開されているのを見つけました。今度は、ドイツ語です。
("Mein Verhältnis zum Herzog von Reichstadt" Anton Prokesch Von Osten)
幸い、全文検索ができたので、二人が出会った年月日とか、二人が出会った場所("Graz")とかで検索をかけて、後者をキーワードに、なんとか、それらしい箇所を見つけました。ですがこれ、なんか変な活字で……フラクトゥールというんですか? 古い本のスキャン・データなので、私には、アルファベットさえ、解読できないんです。くーーーー、ここまで来てぇーーーー、殿下のお言葉がぁーーーーっ!
そっから先は、腐女子の根性です。時の流れごときに、負けるわけにはまいりません。いろいろ参照し、活字を見比べ、ほぼ半日かけて、ついに、解読しました! 初対面の翌日、プロケシュに会った時の、プリンスの言葉です。
Ich kenne Sie und liebe Sie zeit lange.
(Ich 私 / kenne 知る / Sie あなたの敬語表現 / und 英語のand / liebe 愛している / zeit lange 長い間)
ちなみにこれをグーグル翻訳にぶちこむと、
英語:I know you and love you for a long time.
日本語:私はあなたを知っていて、長い間あなたを愛しています。
という、素敵な訳が出てきました!
殿下、やっぱり……
じゃなくて、古い活字から意味が立ち上がってきた時、私が胸をうたれたのは、liebe ではなく、zeit lange の方でした。
そんなにも孤独だった、長い時間……。
長文、失礼致しました。
次回から、冷静に戻ります。どうかお見限りなきように。
(すみません、今週は、ここまでです)
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