ハンガリー王戴冠式
プロケシュはスイスへ、そして、フランソワは、プラハへ向かった。
9月28日、プラハで、皇帝の長男、フェルディナンド大公の、ハンガリー王即位が行われた。
来るべきオーストリア皇帝即位を前に、フェルディナンドは、
皇族として、フランソワも、この式典に列席せねばならない。アルプスで静かに暮らしていた
フランソワとは、久しぶりの再会だった。
ヨーハンは、兄の孫が、時折、ひどく咳き込むのに気が付き、首を傾げた。
静かな式典の最中は、全力で、咳を堪えているようだった。そして、それは、8割方、成功していた。
だが、彼が時折漏らす咳は、明らかに、胸の奥から湧いてくる咳だった。
典礼、規則、前例。
堅苦しい式典だった。
フランソワは、へとへとに疲れていた。
そしてそれは、彼だけではなかった。細かい決まりごとに従うことで、宮廷の人々は、皆、神経をすり減らしてた。
食事会で、メッテルニヒが目ざとく、フランソワを見つけ、近寄ってきた。
宰相は、さきほどの式典で、彼が犯した小さなミスを注意し、小言は、長引いた。年若い青年は、礼儀正しく、宰相の説教を聞いている。
「何につけても、私にアドヴァイスを求めるとよろしい」
宰相の言葉が、ヨーハンの耳に入った。
なおも、くどくどと何か言っている。
……まるで、フランソワを、自分の道具だと見做しているようだ。
聞いていて、ヨーハンは、不快に思った。
この傲慢な説教を止めさせようと、ヨーハンは、二人に近づいて行った。
彼が話しかけようとした時、それまで黙っていたフランソワが口を開いた。
「行動によって勝つことができる者だけが、信頼できる者です」
宰相のアドヴァイスなど不要だとばかりの物言いに、さすがに、宰相は、たじろいだ。
「フランツ」
頃合いは良いとばかり、ヨーハンは、割り込んだ。
「ちょっといいか」
「あ、おじさん」
それまで無表情だったフランソワの顔が輝いた。
「ライヒシュタットをお借りしてもよろしいですか、宰相」
「ええ、もう、お話は終わりましたから」
苦虫を噛みつぶしたような顔で、宰相は答えた。
「お前、なかなか言うじゃないか」
ふたりきりになると、ヨーハンは言った。
「そうですか? 僕は、十分、礼儀正しかったと思います」
「自分で言うやつがいるか!」
ヨーハンは笑った。
「ある人が、僕には価値があると教えてくれたんです。それだけのことですよ」
「ある人?」
「プロケシュ=オースティン少佐です」
「ああ」
グラーツの城で、ヨーハンも会っている。彼は、中東の珍しい話を、たくさんしてくれた。だが、彼が言った、ライヒシュタット公をギリシア王に、という意見は、彼が宮廷の……皇帝の……ことをあまりにも知らなすぎることを露呈していた。
あの頑固な
「彼は、ものごとを、そのまま受け取る癖があるな。もう少し、疑うということを覚えた方がいい」
ヨーハンの批判に対し、即座に、フランツの反論が返ってきた。
「裏表がないんです! 清らかで誠実な性格なんです!」
「惚れ込んでるな」
ヨーハンの表情が、柔らかく変化した。優しい雰囲気を保ったまま、彼は尋ねた。
「もうすぐ、任官だな。配属先は、決まりそうか?」
途端にフランソワの顔が曇った。
「まだです」
「まだ? おいおい、地方赴任の話が出てから、もう、何ヶ月経つと思っているんだ?
これでは、宰相ばかりか、皇帝まで、フランツの信用を失うことになっても、当然だ。
「お祖父様は……」
言いかけて、不意に、フランソワが咳き込んだ。今まで耐えていたのが、こらえきれなくなった、というような咳だ。
「ひどい咳だ。熱はあるのか」
ヨーハンが、ごほごほと咳き込むフランソワの額に、手を当てた。
なんとか咳を止めようと、フランソワは、体を折った。ヨーハンの手が離れる。
「熱はないな」
「そんなにひどい咳ではありませんよ、おじさん」
咳の合間に、フランソワが言い返す。
ヨーハンの頭に、警告が灯った。
「その咳は、普通じゃない。声だって、ひどく掠れている」
そういえば、ディートリヒシュタイン伯爵が、ひどく心配していたことを、ヨーハンは思い出した。
「恐らく胸の病だろう。今のうちに、しっかりと治しておけ。軍務となれば、お前は、すぐに無理をするからな。ディートリヒシュタイン先生も、心配していたぞ」
「あの、心配性の婆さんが……」
「フランツ!」
一言のもとに、ヨーハンは、フランソワを黙らせた。
声を和らげ、続ける。
「そうだ。フェルディナンドのハンガリー王戴冠が終わったら、アルプスへ来るといい。山の空気はきれいだ。お前の肺に、きっと良い働きをするだろう。お前のお母さんだって、去年は、スイスで休養をとっていたろう?」
ナイペルクが亡くなってから、マリー・ルイーゼは、スイスへ療養に出掛けていた。
そのせいで、
「いえ。僕は……」
「まだ、配属先さえ決まってないじゃないか。今のうちに、充分休んで、体調をしっかり整えるんだ」
「宰相が、許しませんよ」
「手は打ってある」
ヨーハンは声を潜めた。
「大丈夫だよ。メッテルニヒなら、ザウラウに任せれば。ザウラウが相手なら、やつも、否とは、言えまいよ」
フランツ・ヨーゼフ・フォン・ザウラウは、古くから皇帝に仕える、重臣である。メッテルニヒはおろか、皇帝さえ、一目置いている。
ナポレオンとの戦争で、ヨーハンは、このザウラウと共に、戦った。二人の間には、強い絆がある。
「アルプスには、アンナもいるし。お前の世話は、彼女が完璧に看てくれるぞ」
「僕を、奥さんに会わせたくないんじゃなかったですか、おじさん? それとも、声枯れで、魅力が、激減したのかな」
「……、」
「ヨーハン大公」
ヨーハンが怒鳴り散らす前に、フランソワは、口調を改めた。その表情は、真摯な輝きに満ちていた。神々しくさえ見える。厳粛な面持ちで、彼は、大公と対峙していた。
「僕の体調は、万全です。また、そうでなければ、
「だから、焦るなと言っているだろう?」
「焦るな? 世界が目まぐるしく変わりつつある、今、この時に!?」
掠れた声が、大きくなった。
「今! 今です、おじさん! それなのに、僕のところには、諸外国の情報は、一切、入ってこない。僕は、19歳になりました。僕の年齢で、おじさんはもう、実戦に出ていたでしょう? 自分の連隊を率いて、戦っていたはずだ。それなのに僕は未だ、見習いの身に過ぎない。僕の父が、士官に任官したのは、16歳の時だったというのに! このままいったら、僕は、いつまで経っても、父に追いつけない。それどころか、スタートラインに立つことさえ、できないんだ!」
兄の孫は、ひどく焦っているように、ヨーハンは思えた。それも、無理ないことなのだが……。
だが、この咳は気になった。
明らかに、普通ではない。
「軍でのキャリアは、いつでも始められる。焦ることはない」
「もしも、丈夫になれなかったら?」
「!」
ヨーハンは言葉に詰まった。
フランソワは続けた。
「今この時の共感は、二度と得られない、貴重なものです。父の幕僚も、多くは、若い日に得た、気のおけない友だった。僕は、幼い頃から、同じ年齢の者たちとは、隔離されて育ちました。だから、友を作れる時間は、少ししかない。何ものにも代えがたい友を、生涯に亘る友情を得るために、僕は今すぐ、軍務を始める必要があるんです」
「プロケシュ少佐なら、とっくに、お前のものだろう」
「やっと手に入れた親友です。手放すわけにはいかない。彼の協力を得て、僕は、自分の軍を、この手で動かすのです。そこが、始まりだ」
「……フランツ」
ヨーハンは、フランソワの肩に両手を置いた。ぐっと力を籠めて掴む。彼の背は、高かった。だが、掴んだ肩は、握り潰せそうなほどに細く、華奢だった。
ヨーハンは、青い目を覗き込んだ。澄み切った、痛々しいほどに青い目を。
静かに、フランソワは、自分の肩から、大叔父の手を外した。
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