イタリア争乱の気配


 宰相メッテルニヒは、イタリア騒乱の気配を察知していた。


 イタリアに反乱が起きる……?

 尚早な判断であると、人々は思っていた。事実、パルマ領主、マリー・ルイーゼは、メッテルニヒの注意喚起を、笑って受け流した。


 ……イタリア蜂起は近い。

 だが、メッテルニヒは、



「カルボナリの動きが、活発になっています」

ライヒシュタット公の最新の主治医、マルファッティが、耳打ちしてきたのは、つい最近のことだ。



 マルファッティ医師は、故郷イタリアの同志への仕送りに、うんざりしていた。

 メッテルニヒに正体を知られたことも、それに拍車をかけていた。


 それで、仲間を裏切り、こっそりと、オーストリアの宰相メッテルニヒに、民衆の蜂起を密告した。



 その時、メッテルニヒの頭に、天啓がひらめいた。

 ……。




  フェルディナンド大公のハンガリー王戴冠も終わり、宮廷がようやく落ち着きを取り戻した頃のことだった。皇帝の重臣、ザウラウ侯がやってきた。

「貴侯と話そうと思ったのだ。酒を酌み交わしながら」


「私に何か、お話が?」

 用心深くメッテルニヒは尋ねた。

 かかか、と、この重臣は笑った。

「なに。アルプスの澄んだ空気と、ヨーハン大公の、麗しい父性について、楽しく語らおうと思っただけだ」


 ……ヨーハン大公?

 ヨーハン大公は、子どもの頃から、ライヒシュタット公をかわいがっている。そして、春先から、家庭教師ディートリヒシュタイン伯爵が、明け方の咳を、心配していた。


 ザウラウの言いたいことは、だいたい、予想がついた。

 メッテルニヒは、ザウラウの誘いに応じた。



 果たして、ザウラウは、ライヒシュタット公の、アルプスへの転地を打診してきた。

「実は、医師の診断書を見てな。それによると、ライヒシュタット公には、どうしても、転地療法が必要だということになるな」


 地獄耳の、このかつての警察大臣は、いつの間にか、侍医の診断書を入手していた。それも、肺の病と診断した、故シュタウデンハイム前任の医師の出した診断書だ。

 シュタウデンハイムは、ライヒシュタット公は、結核だと、述べていた。ご丁寧に、二名の同僚医師の意見セカンド・オピニオン付きで。


 ……マルファッティ新しい侍医に、別な診断結果を出させたのに。わざわざ、古い診断書を見てくるとは。

 ザウラウの底意地の悪さに、メッテルニヒは、苛立ちを覚えた。


「アルプスですか。しかし、もう、じきに冬です。雪と寒さで、大変でしょう」

 あえて、結核には触れず、彼は、応じた。


 ザウラウは逡巡している。おおざっぱなこの重臣は、季節のことなど、考えなかったに違いない。


 ……転地療養などではない。

 ……他に、企みがあるのは、間違いない。

 ……黒幕は、当然、ヨーハン大公だ。

 実力ある皇帝の弟ヨーハン大公と、ナポレオンの息子ライヒシュタット公。しかも、ヨーハンは、兄の皇帝より、14歳も若い。


 今上帝あってこそ、自分の力が発揮できることは、メッテルニヒにもわかっていた。

 今上帝の次は……。


 ハプスブルク家による帝位は、長男が継ぐことが鉄則だ。もちろん、次は、長男、フェルディナント大公が即位するのだ。

 体が弱く、一人では何もできない、フェルディナント大公が。


 このままいけば、新帝の元でも、メッテルニヒの政権は、安定して続く筈だった。


 すでに、イシュトヴァーンハンガリー王冠の戴冠はすませた。来年早々には、サルディニアから、妃を迎える手はずも調っている。多分、間違いなく、形だけの結婚になるだろうが。


 だが、もし、ここに、フェルディナント即位に、横槍が入ったら?

 それが、メッテルニヒの心配のひとつだった。


 対抗馬として、皇帝の次男、F・カールがいる。だが彼は、とうてい、皇帝の器ではない。本人も、帝位には何の興味もないらしい。


 翻って、皇帝の兄弟に目を向けると……。


 カール大公は、既に、隠遁生活に入っている。

 その次の、皇位継承順序は……。

 アルプス王、ヨーハン大公だ。民から妻を娶り、その結婚によって、一層、民衆からの人気を博した……。


 ……民衆に人気。

 「民」の脅威は、この頃、増してくる一方だった。

 しかも、ヨーハンが、ライヒシュタット公ナポレオンの息子まで、己の陣営につけたとすると……。


 ……あの生意気な青年を。

 ……行動によって勝つ、だと? それが困るというのだ。あの者は、人の忠告を聞き容れない。父親そっくりだ。


 1813年、メッテルニヒの提示した和睦を、断固として拒絶したナポレオンの顔が、脳裏に蘇った。ナポレオンが、「戦場で、百万の人間の命が失われようと、自分は気に掛けはしない」と言って帽子を投げ捨てた捨てた時、メッテルニヒの彼への評価は、完全に失われた。

(※1章「パパ・フランツをやっつけろ」)


 あの時はっきりと、メッテルニヒはナポレオンを見限った。あれから20年近くが経つが、今、父親の面影を、メッテルニヒは、はっきりと、その息子の上に見た。

 2歳の時に生き別れになった息子の上に。



「では、来年の春になったら。暖かくなったら、是非、ライヒシュタット公をアルプスへ行かせるとよい」

 ザウラウののどかな声が、メッテルニヒの憂慮を遮った。

 即座に、メッテルニヒは頭を切り替え、反論を試みた。


「しかし、彼は今、軍務に夢中です。呑気に転地療養など、ライヒシュタット公ご自身が、納得なさいませんでしょう」


「そうよの」

のんびりと、ザウラウは肯った。

「しからば、儂から、皇帝に頼んでみようか。ライヒシュタット公も軍人。軍人とあらば、皇帝の命令には、従わないわけにはいかぬからの」

「……」


 メッテルニヒは、絶句した。

 ……アルプス。

 ……ヨーハン。

 ……ナポレオンの息子。


「約束だ。春になったら、ライヒシュタット公を、アルプスへ療養にやるように」

 呑気な口調が打って変わった。きっぱりと、ザウラウが告げた。


 自分の地位が、足元から揺るがされるのが、メッテルニヒには、見えたような気がした。




 ……。

 マルファッティが、カルボナリの蜂起の兆しを漏らしたのは、このすぐ後のことだった。

 まさに、内憂外患だ。

 だが。

 ……ちょうどよいではないか。

 メッテルニヒの頭に、天啓が閃いた。

 ……邪魔な年寄りは、イタリア争乱に紛れて、消えてもらおう。





 フランツ・ヨーゼフ・フォン・ザウラウ、皇帝の信頼厚い重臣が、トスカーナ大使に任命され、ウィーンを離れたのは、それからすぐのことだった。


 ザウラウは、70歳。

 温暖な気候のイタリアへの赴任という、人事だ。ザウラウの、長年の貢献への褒美と、人々は考えた。


 ……。

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