アントワネットとフェルゼンの恋物語
入り口に取り付けたカウベルが、澄んだアルプスの音を響かせた。
はっと、エオリアは顔を上げた。
待ち侘びていた人が、入ってきた。
「殿下! お待ちしていました!」
思わず叫んでから、自分の口を抑えた。
……この方は、自分などが、親しく口をきいていい、お人ではない。
改まり、やや、しゃちほこ張った口調で、エオリアは告げた。
「申し訳ありません。シャトーブリアンの御本、まだ、入荷していないんです。なんか、フランスは今、大変な不景気のようで」
父のシャラメが、そのようなことを言っていた。
フランソワが、金色の眉を顰めた。
「フランスの人々に、せめて食糧だけでも、行き渡っていればいいのだが。あと、着るものも」
「殿下……」
エオリアは、胸がいっぱいになった。
……やっぱりこの人は。
……この人こそが、フランスの帝王にふさわしい。
「本のことなら、急いでない。どうせ今は、読書の為の時間が、取れないし。パルマから、母上が、いらしてるから」
「皇妃様が!」
かつてのフランス皇妃、ナポレオンの妻であり、ローマ王の母親でもあるマリー・ルイーゼは、まだ、オーストリアに滞在中だった。
今回、彼女は、グラーツから、郊外のシェーンブルン、保養地バーデンなどを、点々としていた。だが、ウィーン市内のホーフブルク宮殿には、一向に、足を向けようとしなかった。
宮廷の人々の、陰口を恐れているのだ。
貴族や官僚だけではない。
その時、エオリアは、ローマ王の気持ちを思って、少し、泣いた。
「先日は、父が無礼なことを申し上げて、失礼しました」
やや改まった口調で、彼女は言った。
シャトーブリアンは、王党派の作家だ。かつて、ナポレオンを、ローマの暴君、ネロに譬え、パリから追放された。
シャラメは、
「別に」
彼は、気にかけていないようだった。
「今日は、別のお願いがある」
「お願い?」
なんだって、叶えて差し上げたい、と、エオリアは思った。
裸で馬に乗って、ウィーンを練り歩け、と言われたら、彼女は即座にそれを、実行しただろう。
しかし、ローマ王が、そんな破廉恥なことを言うはずがなかった。
「この店では、新聞は読めないだろうか?」
「新聞?」
「オーストリアのではない。欧州各国の新聞が欲しい。フランス、ポーランド、ベルギー、イタリア、それから、ギリシアの新聞も」
……見識をお広めになろうとしてらっしゃるのだわ。
……さすが、王者の器。
思わず、熱い目で、プリンスを見つめてしまう。
金髪碧眼の王子は、ぽっと頬を赤らめた。
「それから、僕は、スウェーデンについて、もっともっと、知りたいんだ」
「スウェーデン、ですか?」
スェーデン、ホルシュタイン=ゴットルプ朝最後の王、カール13世には、跡継ぎがいなかった。
当初、皇太子に指名された、デンマーク出身の王子も、落馬事故で亡くなっている。その葬儀の時に殺されたのが、有名なフェルゼン伯爵だった。
スウェーデンについてエオリアが知っているのは、このフェルゼン伯の母国だということくらいだった。
「……フェルゼン伯爵も、お気の毒に。でもやっと、愛する
エオリアは、胸の前で手を組み合わせた。
かつてのフランス王妃、マリー・アントワネットと、フェルゼン伯爵の恋物語は、彼女の憧れだった。
もっとも、フランスでは、マリー・アントワネットの評判は良くない。しかし、ここは、オーストリアである。
「……不倫は、ダメだ」
つぶやくような声が、聞こえた。
エオリアは息を呑んだ。
……そうだった。
……
墓穴を掘ってしまったと、エオリアは感じた。
「もちろん! もちろんですとも!」
慌てて彼女は叫んだ。
ついでに、(もし結婚したら)自分は、不倫をするような妻にはなるまいと、固く決意した。
大急ぎで、話題をスウェーデンに戻す。
「殿下がスウェーデンに興味をお持ちになるのも、ごもっともです。今のスウェーデン王は、ペルナドット元帥ですものね!」
亡くなったデンマーク出身の皇太子に代わって、白羽の矢が立ったのが、フランスのペルナドット元帥だった。
「高潔で、立派なお人柄だと聞いています。さすが、フランス軍の将校でいらした方です!」
戦争中、ペルナドットは、占領国に対して、決して横柄な態度は取らなかった。また、捕虜の扱いも丁重だった。
この戦いは、ロシアとスウェーデン間の戦争だった。ロシアのアレクサンドル1世がナポレオンと結んだティルジット条約に従い、スウェーデンを大陸封鎖に参加させるべく、ロシアが仕掛けたものだった。ロシアと共に参戦したフランスの司令官が、ベルナドットだった。
ペルナドットの担ぎ出しは、スウェーデン軍将校団の意思だったと言われる。
「父上は、常に
ぼそりと、フランソワがつぶやいた。
……「フランスに敵対することのないように」
ペルナドットがスウェーデン皇太子を受諾する許可を求めた際、ナポレオンは言った。
……「スウェーデンの皇太子となって、将来、国王となるからには、私は、スウェーデンの為に戦います」
ペルナドットは、そう答えたという。
もともと、この二人は、あまり気があっていなかった。
ナポレオンは、ペルナドットの、南仏人らしいあけっぴろげな態度を嫌っていた。また、ペルナドットも、ナポレオンを、冷たい皮肉屋だと非難していた。
一説には、二人の不仲は、かつて、ナポレオンをふった女性を、ペルナドットが妻に迎えたからだとも言われている。
……あ、あれ?
エオリアは、言葉に詰まった。
……
その辺の知識が、エオリアには乏しかった。国と国との関係は、本当に難しい。
……ひょっとして、私、やらかしちゃった?
……ローマ王は、
それも、なんだか、個人的に嫌っているとしか思えない。
エオリアは知らなかった。
ペルナドットの即位により、永遠に王位を追われた廃太子こそが、フランソワの軍の上官であることを。彼が最も敬愛している、グスタフ・ヴァーサであることを。
幸い、シャラメの店では、欧州各国から、新聞を取り寄せていた。
慌てて、エオリアは、取り繕った。
「新聞のお取り寄せは、どうしても、発行より遅れます。フランスの新聞で、だいたい2週間、他は、もう少し、遅れてしまいます。ですが、到着したら、必ず、お届けに上がります」
「構わない。宮殿に、ではなく、軍の兵舎に、頼む」
にっこりと、フランソワが微笑んだ。
本当に、自分は、なんだってやるだろう、と、エオリアは思った。
この人を、このように、美しく微笑ませる為なら。
*
1830年7月9日。
フランソワは、少佐に昇進した。
同時に、第54ラメザン・サリンズ連隊の司令官を拝命した。
「この秋には、お前は自由だ」
皇帝は、そう、孫に耳打ちをした。
赴任地には、プラハが候補に上がっていた。
皇帝の采配の元、新たな赴任地へ向かう準備が、着々と整えられていた。
彼は、軍務にのめりこんだ。
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