フェルディナンド大公の記録画家
普段は静かなシェーンブルン宮殿に、にわかに、人の数が増えた。
人足たちが、たくさんの荷物を運び込んでいる。
「慎重に! ぶつけるな!」
監督官が、声を枯らして指示を出している。
「何の騒ぎだ?」
ゾフィー大公妃の部屋へ向かう途中、この騒ぎに出くわし、フランソワは立ち止まった。
今日は、モル……本物の……を、従えている。
「今年の2月の、フェルディナンド大公の結婚式の絵が、できあがってきたのですよ」
歩きながらモルが答えた。
「ハンガリー王即位の絵も、仕上がったようです。昨年9月の。さすがに、大作が多いですね」
「……ああ」
フェルディナンドは、フランソワの叔父に当たる。彼は長男だから、祖父の皇帝が崩御したら……もし万が一……、次の皇帝に即位する。
その為の布石が、ちゃくちゃくと整えられているのだ。
「殿下とお従妹弟さんたちの絵も、早く仕上がるといいですね」
モルが言った時だ。
二人の傍らを、黒っぽい服の男がすれ違っていった。箱やら画板やら、顔の前にいっぱい、荷物を抱えている。
すれ違いざま、ちらりと、プリンスを見た。
ぼんやりとした目線が一度通り過ぎ、すぐに戻ってきた。
男の目線が、プリンスの顔に留まった。何かを分析するように、見つめている。
そんなに見つめるのは無礼ではないかと、モルがたしなめようとした時だ。
男が抱えていた箱が、画板の上を、するすると滑り落ちた。
絵の具で汚れた箱は、床に当たって壊れ、中から、小さなチューブや壺、筆などが飛び出し、散乱した。
「うわっ、大変だ!」
男は叫び、這いつくばった。
狼狽して、散らばった道具を拾い集めている。
「あれは、画家ですね。去年、新しくフェルディナンド大公の記録画家に採用された、エドゥワルド・グルクでしょう」
モルがつぶやく。
画家は、モルより、少し、年下の、地味な青年だった。
二人がかりで大きな絵を担いだ人足たちが、近づいてきた。後ろを歩く一人が、落ちていたチューブを踏みつけた。豚の膀胱でできたチューブが弾ける。黄色い絵の具が飛び散った。
黄色の絵の具は、他の色に比べて、高価だ。画家が、小さな悲鳴をあげた。
「手伝ってやるがいい。僕は一人で行くから」
ぼそっと、掠れた声が聞こえた。
「モデルが終わるまで待っているのは、退屈だろ? 今日はそのまま帰ってもいい」
はっと、モルは我に返った。
「プリンスをお一人にするわけにはいきません」
モルは、まじめで献身的な軍人だった。少し、堅物すぎるきらいもあった。
だが、そこを、当時の上官にヴァルドシュタッテン男爵に認められ、ライヒシュタット公の付き人に推薦されたのだ。
付き人を始めたばかりの頃は、プリンスは、モルに好意的だった。
モルも、一生懸命、新しい上官の気に入られるよう、努めた。
しかし、この頃、彼は変わった。
軍務を離れ、シェーンブルン宮殿に閉じ込められてからというもの、無愛想で、モルに対して、若干、意地悪く振る舞うようになった。
……気がする。
なぜかはわからない。モルの側に、心当たりはない。
おそらく、軍務を離れた悔しさからだろうと、モルは推測している。
モルとしても、このまま軍に戻れなかったらという、不安はあった。彼は、軍人だった。彼の居場所は、軍だ。雅やかな宮廷ではない。
掠れた声がこぼれ落ちた。
「……監視か?」
「はい?」
「お前は、僕を監視しているのだろう」
「……」
モルは言葉に詰まった。
全くその通りだったからだ。
怪しい人物が接触しないよう、監視するのが、彼ら軍の付き人たちの、真の役割だ。
いつの間にそれを、悟られてしまったのだろう……。
青い、突き刺すような目でモルを見つめ、プリンスは言い放った。
「宮殿の中まで入ることのでる者は、限られている。僕の心配は不要だ」
「ですが、」
「
プリンスは、モルを遮った。
フランス語だ。
柱を回り込んで、騒ぎの向こうに歩き去っていく。
「……、あの、すみません」
下から声がした。
もう、何度も同じ言葉を繰り返していたようだ。
驚いて目をやると、床に這いつくばった画家が、彼の顔を見上げていた。
「その、私の刷毛が……」
いつの間にか、モルのブーツが、刷毛の毛先を踏みつけていた。
「ああ……申し訳ない」
足元の刷毛を拾い、モルは、画家に渡した。
エドゥワルド・グルクは、顔を赤らめた。
「あちこち汚してしまって。全く、なんてことでしょう。宮殿でこのような……」
「上官の命令です。手伝いましょう」
咄嗟にモルは言った。
「上官?」
画家は首を傾げた。
「ライヒシュタット公です。ハンガリー第60連隊大隊長の」
「ライヒシュタット公! さっきの方が!」
画家は叫んだ。
すぐにまた、顔を赤らめる。
「失礼。とても美しい方だと思って……。あんな人間が、いるんですね。……初めて見ました」
「……」
……上官を侮辱されたと、怒るべきか?
これが他の人間だったら、モルは間違いなく、そうしたろう。
しかし、
面長の顔に浮かんでるのは、純粋に、賞賛の色だった。
「金色の髪が、輝くようだった。青い、とても印象的な目をしていらして。でも、天使とは違うな。もっと……なんというか……」
「……」
無言で、モルは続きを待った。
画家は、必死で言葉を探している。
「なんというか……とても淋しげに見えた。孤独で儚げで……皇帝のお孫さんなんでしょ? 才能にも恵まれた貴公子だと聞きます。それなのに、彼は、とても、寂しそうだ」
「そうですか」
モルは繰り返した。
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後のフェルディナンド帝(フランソワの叔父)の記録画家、エドゥワルド・グルクと、ライヒシュタット公の付き人だったモルの間には、とかくの噂がありました(これは本当です)。
アルファポリスさんで、「黄金の檻の高貴な囚人」という短編集を公開しています。その中に、「画家からの手紙」というお話があり、グルクとモルの、秘められた恋が描かれています。(ご安心下さい。R指定はありません)
「黄金の檻の高貴な囚人」は、ライヒシュタット公の周りの人たちに焦点を充てた短編集です。カクヨムさんで公開したサイドストーリーなどを含み、登場人物の肖像画等も入れてあります。
https://www.alphapolis.co.jp/novel/268109487/121264273
「画家からの手紙」は、これだけで独立したお話です。先の話でもいいよ、という方は、もし、よろしかったら。
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