オーストリア戦役 1
オーストリア皇帝フランツの3つ下の弟、カール大公(※)は、満々と水を湛えるドナウの流れを見下ろしていた。
敵国フランス兵たちが、せっせと土嚢を積んでいるのが見える。浮き橋を補強しているのだ。
川にかかる橋は、全て、オーストリア軍の手で破壊されている。
フランス軍は、沖の大きな島ロバウ島に、砦を設けた。
浮き橋を造り、この島と、ドナウ両岸をつないでいる。
オーストリア工兵達は、丸太や
川には、68の浮き橋が浮かんでいた。6つの筏で浮き橋の間を縫い、フランス軍が首都ウィーンに侵攻したのは、11日前のことだ。
絶え間なく続く砲弾の音が、カールの耳に蘇る。
腹に響く発射音。玉が空を横切っていく、ひゅるひゅるという甲高い音。街を、愛しいウィーンの街を破壊する、壊滅的な破壊音。
それが、何時間も続いた。
ウィーンは、70時間ほど抵抗を続け、陥落した。長女のマリー・ルイーゼを含む兄の一家は、すでに首都から逃げ出している。
それでもカールは、首都を守りに行かなかった。
ドナウ岸辺に戻り、辛抱強く敵の様子を窺っている。
ウィーン陥落の20日ほど前、既にオーストリア軍は、フランス軍に大敗を喫していた。このエッグミュールの戦いで、主力軍は撃破され、カールは、ドナウの北側に逃れていた。
だが、それは、壊滅的な敗北ではなかった。
ワルシャワに侵攻した従弟のフェルディナンドは善戦中だし、イタリアには弟ヨーハンの軍も無傷で残っているはずだ。
思いがけないことに、ドナウ上流のチロルで反乱が起き、フランス軍にしつこく抵抗している。
今、カールの下に、11万5000の部隊が集結していた。これは、フランス軍を上回っている。
敵の総大将は、ナポレオン・ボナパルト。5年前に、自らの手でフランス王冠を頭に載せた男だ。
カールが彼と戦火を交えるのは、これが初めてではない。
*
1796年、イタリア遠征で勢いづいたナポレオンは、ハプスブルク家の領地、ミラノをも奪い取った。
ミラノは、ハプスブルクの分家、エステ家の所有だった。カールらの叔父が治めていた。
この時、カールの兄、近くのトスカーナの大公であったフェルディナントが、ナポレオンを食事に招いた。
ハプスブルクの人間として初めて、このコルシカ出身の軍人と接触したのだ。
その席でナポレオンは、「イタリア全土がフランスのものである」と豪語した。
「我らが幼い日を過ごした城に招きながら、何を言いたい放題言わせているのか」
話を聞いたハプスブルク家の長兄、フランツ皇帝は冷たい怒りを見せたものだ。
イタリアを制覇したナポレオンは、その後、ウィーンのすぐ喉元まで匕首を突きつけている。
だが、「人類社会の利益のために」と、休戦を申し出たのはナポレオンの方だった。伝書使がメッセージを運んできたのは、カール大公の元へだった。負けはしたが、イタリアそして南ドイツでのカールの働きは目覚ましいものだった。
ナポレオンがカールに伝令を送ってきたと聞き、フランツ帝は、不機嫌になった。ハプスブルク家の大公とコルシカの成り上がり者が同じテーブルにつくなど、論外だと、彼は言い放った。即座に、弟がナポレオンと接触するのを禁じた。
ナポレオンが、上の弟フェルディナンドに食事に招かれた時の言動は、それほど冷たく深い怒りを、フランツ帝に齎したのだ。
その後、カールがこの「コルシカの成り上がり者」と対面する機会は、意外に早く訪れた。
今から4年前の1805年。神聖ローマ帝国は、イギリス、ロシア、スウェーデンと図って、対仏大同盟を結成した。
だが、神聖ローマ帝国軍は、ウルム戦役で大敗した。
ウィーンは陥落した。
ナポレオンは、外国人として300年ぶりに、ウィーン入城を果たした。
さらにアウステルリッツで、同盟軍は、フランス軍に完敗した。
首都を逃れていた神聖ローマ皇帝フランツは、ナポレオンに呼び出された。会見は、人目につかない、焼け落ちた風車の下で行われた。フランツ帝は、寒い中、2時間にも亘って立ったままだった。
それは、ナポレオンの一方的な恫喝に他ならなかったという。フランツ帝は、休戦を受け入れた。
イタリアから排除され、ドイツを奪い取られたフランツ帝は、翌1806年、神聖ローマ帝国の滅亡を宣言する。そして、「世襲によるオーストリア皇帝フランツ1世」に即位した。
ナポレオンは、ウィーン郊外の離宮、シェーンブルン宮殿に、3ヶ月もの間滞在した。クリスマスを挟んでの、長期滞在だった。
この時は、市民への攻撃はなかった。現地調達の悪名高いナポレオン軍の襲来に、市民は怯えた。だが、国家の兵器庫から大量の銃器や砲弾を奪った以外は、市井からの略奪も特になかった。逆にウィーンっ子達の手にかかり、身ぐるみ騙し取られたフランス兵の姿が、あちこちで垣間見られた。
カールが、ナポレオンに呼び出されたのは、この時だった。
二人は長い間、話し込んだ。
以後、少なくともナポレオンは、カール大公への友情を、片時も忘れることはなかった。
だがこれは、カール大公には迷惑な話だった。
ハプスブルク家は、長男の即位が鉄則だった。兄のフランツ帝より有能な弟に期待する廷臣たちは多かった。
兄の、あまりに大雑把で掴みどころのない指示に、カール自身も苛立つことが、何度かあった。
「(戦争に)望みのものを誰でも連れていくがいい。将官、その他、どんな地位にでも任じていい」などという指示には、カールに従う臣下達の間からも怨嗟の声が湧き上がった。
だが、兄帝は、カールを信じていた。
まだ若い頃、カールは兄に対して、少しばかり、反抗的な独立心をみせつけたことがある。これは、兄の機嫌を損ねたが、ドイツでの戦役で弟ヨーハンが大敗すると、すぐにカールに指揮を引き継がせた。
そして、その後の行政改革もカールに任せ、中央集権、担当大臣の設置など、彼の提言を受け入れた。
……ナポレオンがカール大公を持ち上げ、凡庸な兄フランツに代わって王位を狙うよう焚き付けた……とされる噂が、ウィーン宮廷に密やかに流れた。
だが、フランツ帝は相手にしなかった。
カールが兄の座を狙うことは、この後、ついぞなかった。
・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
※「大公」は、ハプスブルク家の場合、皇帝の兄弟を表します
ハプスブルク家の姻戚関係は複雑なので、系譜を作りました。私のホームページに上げておきますので、ご参考までに
http://serimomo139.web.fc2.com/franz.html#hab-bona
(飛べない場合は http://serimomo139.web.fc2.com/franz.html)
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