登場人物のその後 2


そして、3人の友人たちについて。



【グスタフ・ナイペルク】


彼については、1850年、39歳で亡くなったことしかわかっていません。ライヒシュタット公ほどではありませんが、53歳で亡くなった父アダム・ナイペルクに比べても、若い死です。一つ上の兄は、7年前に34歳で亡くなっていますが、長兄は、58歳で亡くなり、弟は85歳の長寿を保っています。そこまで短命の家系ではなかったようです。病気か怪我か……調べた限りでは、軍での昇進も、見当たりませんでした。






【モーリツ・エステルハージ】


外交で活躍した後、イチゴアイスに載せたホイップクリーム赤ちゃんだった、フランツ・ヨーゼフ帝の寵臣となります。彼は、皇帝が、毎朝謁見していた、数少ない寵臣の一人でした。それはもちろん、モーリツが、皇帝の愛する従兄ライヒシュタット公の親友だったからでしょう(と、思います)。


ですが、きちんとした大臣職にあるわけでもないのに、皇帝の寵臣という立場で、ずけずけともの申す、モーリツは、周囲の反感を招きました。


後に、全くの讒言で、彼は政治的に貶められてしまいます。また、折悪しく自邸が火事になったのを、彼自身が放火したと濡れ衣を着せられ、あまつさえ、妻を虐待しているとまで噂を立てられ……結果的に、シュレージエンの精神病院に隔離されてしまいます。59歳の時です。


モーリツは、そこで没します。


グスタフ・ナイペルクと違い、73歳までの長寿でしたが、これではとても、幸せな人生だったとは言えません……。


ちなみに、11章「友たちの悲痛」で引用したモーリツの手紙は、彼の手によるものです。最初に読んだ時、ひどく心を抉られたのを覚えています。





そういうわけで、ろくに出世もせず(できず?)、30代で亡くなってしまったグスタフと、殿下の従弟フランツ・ヨーゼフ帝に忠実であったにもかかわらず、とんでもない冤罪を着せられ、不幸な老後を送ったモーリツの二人には、物語の最後で、復活してもらいました。アシュラも含め、彼らはきっと、いつまでも、殿下に、忠誠と献身を捧げることと思います。



で、そこにプロケシュがいなかったわけなんですが……。





【プロケシュ=オースティン】


プロケシュは、1832年11月25日に、結婚しています。

相手は、芸術研究者の娘で、自らも優れたピアニストで、シューベルトとも交友関係があったというアイリーン・キースウェッター・フォン・ヴィーゼンブルンです。1809年生れ。プロケシュより、14歳、年下です。


いえ、結婚するのはいいんです。プロケシュもいい年齢ですし。そろそろ結婚しなくちゃね……。でもなんで、殿下が亡くなった年……しかも、たった4ヶ月後……(詳細は、この後の、おまけの短編で)。



その後、プロケシュは、エジプト赴任、また、アテネ大使など、外交畑で働くのですが、次第に孤立するようになります。そこへ、1848年、革命でウィーンから亡命したメッテルニヒが、声をかけてきます。メッテルニヒの助言の元、プロケシュは、南ドイツでのオーストリアの勢力拡大の努力をしますが、これは、いかにも旧弊で、ドイツでも、プロケシュは、次第に、人望をなくしていきます。


プロケシュの人生は、ゲンツを通しての出会いから、その要所要所で、メッテルニヒが出てきます。

歴史家の中には、プロケシュの言うことは、鵜呑みにはできない、という人もいます。でも、ライヒシュタット公は、一切、彼を疑わなかった。彼を信じ切っていた。ですから、言いたいことはどっさりありますが、私も、殿下の目を信じることにしました。プロケシュは、皇帝やメッテルニヒのスパイではなかった。心から、殿下の友人であった、と。


なお、後にフランツ・ヨーゼフ帝は、プロケシュの、60年間国家に仕えた功績を称え、世襲の伯爵の地位を与えています。やっぱり、大好きな従兄・ライヒシュタット公が親友だと見做していた人だからでしょうか。


ちなみにプロケシュは、80歳(あと1ヶ月半で81歳)まで、生きました。





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