解任 1
ホーフブルク宮殿に移った翌日、プリンスは、4歳の誕生日を迎えた。
「プリンス、あなたのお世話をするようになってから、もう、4年になるんですね」
モンテスキュー伯爵夫人シャルロットは、四面楚歌だった。思わず、大人にするように、プリンスに話しかけた。
「うん。僕は、いつも、ママ・キューのことが好きだったよ」
フランソワは、大きな青い目で、じっと、シャルロットを見つめた。
「これからも、大好きだよ。だから、一緒にいてね」
「ええ」
「ずっと、ずっとだよ?」
「もちろんですとも」
シャルロットは、胸がいっぱいになった。
侍従が、オーストリア王室の式部官の到着を告げた。
皇帝が、孫の誕生日のお祝いに寄越したのだと、シャルロットは思った。
「プリンス。お祖父様のお使いですよ」
彼女が言うと、小さなプリンスは、彼にできる最大限の礼儀正しさで、挨拶をした。
式部官は、明らかに居心地が悪そうだった。
「マダム。二人きりでお話があるのですが」
彼は言った。
*
従者に連れられプリンスが退出してからも、式部官は、なかなか話し始めようとしなかった。
「それで、お話とは?」
シャルロットが促すと、ようやく顔を上げた。
「わが皇帝は、政治的な要因によって、貴女を解雇せざるを得なくなりました。貴女におかれましては、可及的速やかに、パリにお帰りになることを、皇帝は望んでおられます」
激しい衝撃が、シャルロットを襲った。心臓が、ばくばくいい始めたのを感じる。
……だめだ。ここで引けない。
自分は、プリンスとずっと一緒にいると約束した。子どもとの約束は、破ってはいけない。
決して。
シャルロットは、気力を振り絞った。
懇願は、受け入れられなかった。もはやその段階ではなかったのだ。彼女は素早く頭を切り替えた。
「ムッシュー。この4年間というもの、私は、常に慈悲深きフランツ皇帝の側に立ち、プリンスに教育を施して参りました。プリンスは、皇帝陛下を、大層、信頼申し上げております。どうかそのことを、皇帝にお伝え下さい」
自分が誰の命令でプリンスの養育係になったか、そしてその仕事を続けてきたか、ということに、この際、こだわっている場合ではなかった。
今は、オーストリア皇帝の慈悲にすがるしか、道はないのだ。
式部官は、黙って、部屋を出ていった。
すぐに彼は、小さな箱を持って戻ってきて、テーブルに置いた。
箱には、オーストリア皇帝の手紙がついていた。その手紙には、今までの、プリンスへの献身に対する、感謝の言葉が記されていた。
簡素な箱を開けてみると、サファイアのネックレスが入っていた。
激しい怒りが、シャルロットの全身を貫いた。
「受け取れません! 私への感謝ということなら、思いやりと寛容を望みます。私は、プリンスの傍らにありたい」
「マダム。何人たりとも、皇帝からの贈り物を拒むことはできないのです」
式部官は言い、はっとしたようにテーブルに戻された箱を見た。
「ネックレスが宝石箱に入っていないことをお怒りなら……。誠に申し訳なく思っております。つまりその、時間がなかったもので……」
なんと融通の効かない男であろう、と、シャルロットは思った。
この男には、言葉が通じない。宝石箱が何だというのだ。
ただ、その最後の言葉が引っかった。
「……時間が、なかった……?」
孫の養育係をクビにするのに、なぜそのように急いだのか。
突然、部屋のドアが開いた。
現れたマリー・ルイーゼは、ひどく冷たい顔をしていた。それでいて、きまり悪そうにもじもじしている。
「お辞めになるんでしょ?」
その声からは、開放感が伝わってきた。
シャルロットは、全てを悟った。
「モンテベッロ公爵夫人ですね」
エクス温泉にも、彼女はマリー・ルイーゼに会いに来ていた。
激しい疲労感を感じつつ、シャルロットはつぶやいた
「マリー・ルイーゼ様。貴女は、悪意ある中傷を退けることが、できなかったんですか?」
「私が、聞かされたことは、必ずしも、賛成できかねたわ」
マリー・ルイーゼは言った。
ふと、その顔が曇った。
「ここを出て、あなたは、パリの皇帝に会いに行くのかしら?」
「ええ。どこにおられようと、この件について、報告に赴くつもりです」
シャルロットが答えると、ルイーゼの顔が、ぱっと赤らんだ。
「私だって!」
彼女は叫んだ。
「私だって、夫に会いに行くから! そして、あなたの無礼を報告する。夫は、私の言うことを信じるわ!」
言い捨てて、足音荒く、部屋から出ていった。
……ナイペルク将軍と一緒に行くんでしょうね。
そう言い返さなったことを、シャルロットは深く後悔した。
その夜。
ホーフブルク宮殿の、広くいかめしい部屋に眠るプリンスは、小さく、頼りなげに見えた。
「神のお慈悲を」
ベッドの脇に跪いて、シャルロットは祈った。
「その名が不幸を齎すことのないよう、神よ。どうかこの子を、お守り下さい」
何度もキスをした。
プリンスが寝返りを打った。
シャルロットは、涙を流した。
なおも去りがたかった。
彼女は、胸の十字架を外し、ベッド・カーテンに、金の鎖をくくりつけた。
その十字架は、前から、プリンスが欲しがっていたものだった。
翌朝目を覚ましたフランソワは、いつものように、シャルロットを呼んだ。
しかし、何度呼んでも、彼女は現れない。
「ママ・キュー?」
ぱたりとかすかな音がした。ベッドの下に、金のネックレスが落ちていた。ママ・キューの十字架だ。ベッドから転がり落ちるようにしてそれを拾い上げ、彼は叫んだ。
「ママ・キュー! ママ・キューー!! ママ、キューーーーーーッ!」
一日中、フランソワは、ママ・キューを呼び続けた。
食事もろくにとらず、眠ることもせず、声が枯れてもなお、呼び続けた。
マリー・ルイーゼは、息子が病気になるのではないかと、心配した。
3日3晩呼び続けて、フランソワは、ぱたりと、呼ぶことを止めた。
以後、身の回りから誰がいなくなっても、探すこともなければ、泣くこともなくなった。
*
しかし、モンテスキュー伯爵夫人とその息子アナトール大佐には、オーストリアから出国許可が下りなかった。
秘密警察(オーストリアの検察機関)が調べたところ、アナトールの荷物から、怪しげな偽名のパスポートが見つかった。
この母子は、うかつに外へ出すより、国内において監視していた方がいいと、警察長官ハーガーが主張した。
ある日、アナトールは、ロシアの公爵夫人カタリーネ・バグラチオンの夕食会に招待された。
すかさず、警察官が後を付けた。だが、帰っていく賓客達の中に、彼の姿はなかった。
「馬鹿者! あの女には気をつけろと言ったではないか!」
ハーガー警察長官は、声を荒らげた。
バグラチオン公爵夫人は、奇矯で奔放な性格であることで有名だった。秘密警察をあざ笑う為なら、どんな危ない橋だって渡るだろう。
アナトールは、フランス側の密偵の馬車で逃亡した。しかし、検察所で通行証の不備が見つかり、身柄を拘束された。
ウィーンに護送されたアナトールは、再び、脱走を謀った。
物音を不審に思った警察官が部屋を覗いてみると、彼のベッドには、彫像が、人を馬鹿にするように、硬直して横たわっていた。
すぐに、庭にいたアナトールが発見された。
報告を受けたハーガー警察長官は、激怒した。
「本気じゃなかったんだ。ちょっと、警察をからかっただけなんだ。僕と母さんの長過ぎる足止めに、抗議をしただけさ」
息子から手紙が届き、モンテスキュー伯爵夫人シャルロットはため息を付いた。
だから、無謀なことはするなと、あれほど止めたのに。
息子に、プリンスを託さなくて、本当に良かったと、つくづく思った。
アナトールの監視は、以前にもまして厳重になった。このままでは、いつ、フランスへ帰れるかわからない。
……そのうちに、極秘裏に裁判にかけられるかもしれない。そうなったら、アナトールは、どうなってしまうだろう!
心配になったシャルロットは、フランス外務大臣、タレーランに連絡を取った。タレーランは、直接、メッテルニヒに話をした。
「息子さんは、許可なく逃亡しないと、伯爵夫人、貴女が誓約するなら、有利なように取り計らいましょう」
メッテルニヒから返事が来た。
否も応もなかった。
シャルロットは、すぐに誓約書を認めた。
モンテスキュー伯爵夫人を解雇してから3ヶ月後。
マリー・ルイーゼは、ようやく、モンテスキュー伯爵夫人とその息子が、オーストリアを出たという手紙を受け取った。
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