解任 1

 ホーフブルク宮殿に移った翌日、プリンスは、4歳の誕生日を迎えた。


 「プリンス、あなたのお世話をするようになってから、もう、4年になるんですね」

 モンテスキュー伯爵夫人シャルロットは、四面楚歌だった。思わず、大人にするように、プリンスに話しかけた。


「うん。僕は、いつも、ママ・キューのことが好きだったよ」

フランソワは、大きな青い目で、じっと、シャルロットを見つめた。

「これからも、大好きだよ。だから、一緒にいてね」


「ええ」

「ずっと、ずっとだよ?」

「もちろんですとも」

シャルロットは、胸がいっぱいになった。



 侍従が、オーストリア王室の式部官の到着を告げた。

 皇帝が、孫の誕生日のお祝いに寄越したのだと、シャルロットは思った。


「プリンス。お祖父様のお使いですよ」

彼女が言うと、小さなプリンスは、彼にできる最大限の礼儀正しさで、挨拶をした。


 式部官は、明らかに居心地が悪そうだった。

「マダム。二人きりでお話があるのですが」

彼は言った。





 従者に連れられプリンスが退出してからも、式部官は、なかなか話し始めようとしなかった。

「それで、お話とは?」

シャルロットが促すと、ようやく顔を上げた。


「わが皇帝は、政治的な要因によって、貴女を解雇せざるを得なくなりました。貴女におかれましては、可及的速やかに、パリにお帰りになることを、皇帝は望んでおられます」


 激しい衝撃が、シャルロットを襲った。心臓が、ばくばくいい始めたのを感じる。

 ……だめだ。ここで引けない。

 自分は、プリンスとずっと一緒にいると約束した。子どもとの約束は、破ってはいけない。

 決して。

 シャルロットは、気力を振り絞った。


 懇願は、受け入れられなかった。もはやその段階ではなかったのだ。彼女は素早く頭を切り替えた。


「ムッシュー。この4年間というもの、私は、常に慈悲深きフランツ皇帝の側に立ち、プリンスに教育を施して参りました。プリンスは、皇帝陛下を、大層、信頼申し上げております。どうかそのことを、皇帝にお伝え下さい」


 自分が誰の命令でプリンスの養育係になったか、そしてその仕事を続けてきたか、ということに、この際、こだわっている場合ではなかった。

 今は、オーストリア皇帝の慈悲にすがるしか、道はないのだ。


 式部官は、黙って、部屋を出ていった。

 すぐに彼は、小さな箱を持って戻ってきて、テーブルに置いた。

 箱には、オーストリア皇帝の手紙がついていた。その手紙には、今までの、プリンスへの献身に対する、感謝の言葉が記されていた。

 簡素な箱を開けてみると、サファイアのネックレスが入っていた。


 激しい怒りが、シャルロットの全身を貫いた。


「受け取れません! 私への感謝ということなら、思いやりと寛容を望みます。私は、プリンスの傍らにありたい」


「マダム。何人たりとも、皇帝からの贈り物を拒むことはできないのです」

式部官は言い、はっとしたようにテーブルに戻された箱を見た。

「ネックレスが宝石箱に入っていないことをお怒りなら……。誠に申し訳なく思っております。つまりその、時間がなかったもので……」


 なんと融通の効かない男であろう、と、シャルロットは思った。

 この男には、言葉が通じない。宝石箱が何だというのだ。

 ただ、その最後の言葉が引っかった。

「……時間が、なかった……?」

 孫の養育係をクビにするのに、なぜそのように急いだのか。


 突然、部屋のドアが開いた。

 現れたマリー・ルイーゼは、ひどく冷たい顔をしていた。それでいて、きまり悪そうにもじもじしている。

「お辞めになるんでしょ?」

その声からは、開放感が伝わってきた。


 シャルロットは、全てを悟った。


「モンテベッロ公爵夫人ですね」

 エクス温泉にも、彼女はマリー・ルイーゼに会いに来ていた。

 激しい疲労感を感じつつ、シャルロットはつぶやいた

「マリー・ルイーゼ様。貴女は、悪意ある中傷を退けることが、できなかったんですか?」


「私が、聞かされたことは、必ずしも、賛成できかねたわ」

マリー・ルイーゼは言った。

 ふと、その顔が曇った。

「ここを出て、あなたは、パリの皇帝に会いに行くのかしら?」


「ええ。どこにおられようと、この件について、報告に赴くつもりです」

シャルロットが答えると、ルイーゼの顔が、ぱっと赤らんだ。

「私だって!」

彼女は叫んだ。

「私だって、夫に会いに行くから! そして、あなたの無礼を報告する。夫は、私の言うことを信じるわ!」

言い捨てて、足音荒く、部屋から出ていった。


 ……ナイペルク将軍と一緒に行くんでしょうね。

 そう言い返さなったことを、シャルロットは深く後悔した。




 その夜。

 ホーフブルク宮殿の、広くいかめしい部屋に眠るプリンスは、小さく、頼りなげに見えた。


 「神のお慈悲を」

ベッドの脇に跪いて、シャルロットは祈った。

「その名が不幸を齎すことのないよう、神よ。どうかこの子を、お守り下さい」


 何度もキスをした。

 プリンスが寝返りを打った。

 シャルロットは、涙を流した。

 なおも去りがたかった。

 彼女は、胸の十字架を外し、ベッド・カーテンに、金の鎖をくくりつけた。

 その十字架は、前から、プリンスが欲しがっていたものだった。




 翌朝目を覚ましたフランソワは、いつものように、シャルロットを呼んだ。

 しかし、何度呼んでも、彼女は現れない。

「ママ・キュー?」

 ぱたりとかすかな音がした。ベッドの下に、金のネックレスが落ちていた。ママ・キューの十字架だ。ベッドから転がり落ちるようにしてそれを拾い上げ、彼は叫んだ。

「ママ・キュー! ママ・キューー!! ママ、キューーーーーーッ!」

 一日中、フランソワは、ママ・キューを呼び続けた。

 食事もろくにとらず、眠ることもせず、声が枯れてもなお、呼び続けた。

 マリー・ルイーゼは、息子が病気になるのではないかと、心配した。


 3日3晩呼び続けて、フランソワは、ぱたりと、呼ぶことを止めた。

 以後、身の回りから誰がいなくなっても、探すこともなければ、泣くこともなくなった。





 しかし、モンテスキュー伯爵夫人とその息子アナトール大佐には、オーストリアから出国許可が下りなかった。

 秘密警察(オーストリアの検察機関)が調べたところ、アナトールの荷物から、怪しげな偽名のパスポートが見つかった。

 この母子は、うかつに外へ出すより、国内において監視していた方がいいと、警察長官ハーガーが主張した。




 ある日、アナトールは、ロシアの公爵夫人カタリーネ・バグラチオンの夕食会に招待された。

 すかさず、警察官が後を付けた。だが、帰っていく賓客達の中に、彼の姿はなかった。


「馬鹿者! あの女には気をつけろと言ったではないか!」

ハーガー警察長官は、声を荒らげた。

 バグラチオン公爵夫人は、奇矯で奔放な性格であることで有名だった。秘密警察をあざ笑う為なら、どんな危ない橋だって渡るだろう。


 アナトールは、フランス側の密偵の馬車で逃亡した。しかし、検察所で通行証の不備が見つかり、身柄を拘束された。




 ウィーンに護送されたアナトールは、再び、脱走を謀った。

 物音を不審に思った警察官が部屋を覗いてみると、彼のベッドには、彫像が、人を馬鹿にするように、硬直して横たわっていた。

 すぐに、庭にいたアナトールが発見された。

 報告を受けたハーガー警察長官は、激怒した。




 「本気じゃなかったんだ。ちょっと、警察をからかっただけなんだ。僕と母さんの長過ぎる足止めに、抗議をしただけさ」


 息子から手紙が届き、モンテスキュー伯爵夫人シャルロットはため息を付いた。

 だから、無謀なことはするなと、あれほど止めたのに。

 息子に、プリンスを託さなくて、本当に良かったと、つくづく思った。


 アナトールの監視は、以前にもまして厳重になった。このままでは、いつ、フランスへ帰れるかわからない。


 ……そのうちに、極秘裏に裁判にかけられるかもしれない。そうなったら、アナトールは、どうなってしまうだろう!

 心配になったシャルロットは、フランス外務大臣、タレーランに連絡を取った。タレーランは、直接、メッテルニヒに話をした。


 「息子さんは、許可なく逃亡しないと、伯爵夫人、貴女が誓約するなら、有利なように取り計らいましょう」

メッテルニヒから返事が来た。


 否も応もなかった。

 シャルロットは、すぐに誓約書を認めた。




 モンテスキュー伯爵夫人を解雇してから3ヶ月後。

 マリー・ルイーゼは、ようやく、モンテスキュー伯爵夫人とその息子が、オーストリアを出たという手紙を受け取った。

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