解任 2

 フランスからついてきた従者達は、次々と解任されていった。



 忠実な秘書のメヌヴァルも、モンテスキュー伯爵夫人とアナトール大佐が帰国する少し前に、解雇された。モンテスキュー母子と違って、彼にはすぐに、帰国の許可が降りた。

 彼は、ホーフブルク宮殿を訪れた。小さなプリンスに、お別れの挨拶をしに来たのだ。


 久しぶりでプリンスに会って、メヌヴァルは驚いた。彼からは、かつての快活さがすっかり失われていた。おしゃべりをすることもなく、プリンスは、ひどくおとなしかった。


 プリンスは、オーストリア側の人から、「フランツ」とドイツ風に呼ばれていた。かつて「フランソワ」は、その呼び名を、「響きが汚い」と嫌っていた。この日、彼が着せられている服も、オーストリアの装いだった。


 プリンスは、父親の秘書を、まるで知らない人を見るように、感情のこもらない目で見た。以前なら、歓声をあげて、飛びついてきたのに。

 メヌヴァルは、胸が痛んだ。跪いて小さな手を取り、囁いた。

 「プリンス。私はフランスへ帰ります。お父様に何かご伝言がありますか?」


 プリンスは、ひどく悲しそうな目でメヌヴァルを見、自分の手を引っ込めた。一人、壁際に引っ込んでしまった。


 何人かの人と別れを惜しんでから、メヌヴァルは、再び、少年の元へ行った。部屋の隅に、プリンスは一人、佇んでいた。


 「プリンス。お別れを……」

メヌヴァルが言いかけると、プリンスは、彼を、窓際の、誰にも声が聞かれないところまで連れて行った。

「ムッシュ・メヴァ。お父様に伝えて。僕はまだ、お父様が大好きだって」

 なにがしかの光をその目に宿し、小さなプリンスは言付けた。



 メヌヴァルは無事、パリへ帰還し、ナポレオンにこの言付けを伝えることができた。

 ナポレオンは、何度も何度も彼を呼び出し、ウィーンの母子の暮らしぶりについて、詳細に尋ねた。特に、子どもの話になると、非常な優しさで、愛する子どもの、どんなに些細なエピソードでも熱心に耳を傾けたという。

 マリー・ルイーゼのナイペルク将軍について話した時のナポレオンの様子については、忠実なこの秘書は、口を鎖して語っていない。



 その年の6月18日。ナポレオンは、ワーテルローにおいて、大敗を喫した。彼は退位を宣言し、セント・ヘレナ島へ流された。





 パリ……。



 透明な光が降り注ぐ秋の庭で、モンテベッロ公爵夫人は、客人に、お茶を差し出した。

 「随分久しぶりね」


 モンテスキュー伯爵夫人は、優雅にカップを持ち上げた。芳しい紅茶の香りに、満足気に頷いてみせた。

「貴女は、全然、変わっていませんね。いえ、むしろ若返って見えます。お子さんたちに囲まれて」


 モンテベッロ公爵夫人は微笑み、最後まで母親のスカートを握っていた一番下の男の子の背を、優しく押した。男の子は、兄姉のいる一角へ駆けていった。


 「私のことを、子育てを放棄している、悪い母親だと思っていたくせに」

子どもの姿が見えなくなると、モンテベッロ公爵夫人は言った。モンテスキュー伯爵夫人は眉を吊り上げた。

「私は、のことは、全く、心配していませんでしたよ。ただ、もう少し、気を使ってほしかっただけ」


「仕方ないでしょ」

すかさずモンテベッロ公爵夫人は言い返した。

「皇妃様が、そばにいて欲しがったんだから。あの方には、女同士の親密なおしゃべりが必要だったのよ」


「陛下を裏切る心配がありませんからね、貴女が始終、張り付いていたら。陛下は本当によく、人の本質を見抜かれていましたよ。でもそれは、どうかと思いますよ。つまり貴女は、ルイーゼ様の時間を奪いすぎたんです」


ずけずけと指摘され、モンテベッロ公爵夫人は息を呑んだ。恐る恐る尋ねる。

「……陛下には、会いに行ったの? つまりその……エクス温泉から皇妃につけられたについて、ご報告なさったのかしら?」


「ウィーンからの長旅で、背中が、ひどく痛んで。船旅は、私には無理です」

 けろりとしてモンテスキュー伯爵夫人は答えた。


 モンテベッロ公爵夫人は、相手の、ぴんと伸びた貴婦人らしい背中に目をやった。セント・ヘレナへ行くくらい、なんなくできそうに見えた。

 モンテスキュー伯爵夫人は、平然としてお茶を啜っている。


 やや言いにくそうに、モンテベッロ公爵夫人は口を開いた。

「あの、あなたがプリンスの養育係を外されたのは……」


「ルイーゼ様のお気持ちですよ。あの方は、ご自分の見たいものを見、聞きたいことを聞く」

「私を、恨んではいないのね……」

「別に。貴女にそれだけの力はありせんからね」


 ほう、と、長い吐息を、モンテベッロ公爵夫人は吐き出した。


 「知ってる? 貴女と私は、プリンスを誘拐しようとしたんですって。今、ウィーンでは、大変な噂になっているそうよ」

モンテベッロ公爵夫人が言うと、モンテスキュー伯爵夫人は目を剥いた。

「なんで私が、貴女と!」


「そこ!」

「誘拐? まったく、若い人というのは、誰も彼も短絡的で……もっと思慮というものを持つべきだわ!」

 激した口調だった。何か心当たりでもあるのかと、モンテベッロ公爵夫人は訝しんだ。


 公爵夫人は、聞き及んだ噂を披露した。

「二人の貴婦人が、フランスへ帰ることになったんですって。それが、変に縦長の馬車だったそうよ。不審に思った秘密警察の署員が調べたら、秘密の仕切りがあって、その向こうに、隠し部屋が造られていたの。部屋の中にはもちろん、お菓子と玩具に囲まれたプリンスが……」


「いい加減になさい!」

往時を思わせる口調で、年上の貴婦人はぴしりと遮った。思わずモンテベッロ公爵夫人は首を竦めた。


 憤懣やる方ないといった調子で、モンテスキュー伯爵夫人は言い募る。

「結局は、オーストリア側の思惑なんですよ。プリンスには、ドイツ人男性の教育係がついたと聞きました。年配で、いかめしい人だそうです。何のユーモアも解さない……。かわいそうなプリンス! ムッシュ・メヌヴァルも、私の下で働いていたスフロット母子おやこも、追い出されてしまって。マダム・マーチャントも、来年には、暇を出されると言ってきましたし」


「『ちゃんちゃんマダム・マーチャント』も! だって、プリンスが生まれた時からの看護婦じゃない! 彼女以上に、プリンスの成長をわかっている人はいないわ!」


「かわいそうなプリンス……」

再び、モンテスキュー伯爵夫人が繰り返した。


 ためらい、ひとり言のような小さな声で、モンテベッロ公爵夫人はつぶやいた。

「でも、彼には、ルイーゼ様がいらっしゃるから。実の母親が一緒なのが、何よりよ」

「そうね。ルイーゼ様にも、だいぶ、母親としての自覚が出てきたようだしね」


 期せずして、二人の貴婦人……母親でもある……は、同時にため息をついた。


 「これから、どうなさるの?」

やがて、モンテベッロ公爵夫人が尋ねた。

「当初の計画通りですよ。田舎の城館シャトーに退いて、レース編みや庭いじり。夫も大切にして。せっかく平和になったのですから」

「平和……」

モンテベッロ公爵夫人は噛みしめるようにつぶやいた。


 モンテスキュー伯爵夫人は頷いた。

「もちろん、いつまで続くかわかりませんよ。でも、少なくとも、私が生きている間は、大丈夫でしょう」

「相変わらず楽天的ね。でも、レース編みや庭いじり? あなたが、それで収まるのかしら」

「私はもう、老齢としです。年寄りには年寄りの、楽しみがあります。貴女にはわからないかもしれないけど……」

「その言い方! あなたも、全然、変わってないじゃないの」

 年上のバロネスを遮り、モンテベッロ公爵夫人が笑いだした。





 翌年3月。

 パルマ領主に封ぜられ、マリー・ルイーゼは、イタリアへ旅立っていった。ナイペルク将軍が、護衛についた。

 パルマ領有は、彼女一代に限り、認められた。彼女の息子については、何の言及もなかった。

 メッテルニヒは、プリンスが同行することを禁じた。皇帝をも凌ぐオーストリアの権力者は、ナポレオンの息子が、ウィーンの外に出ることを許さなかった。

 ずっと。



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