彼は諦めなさい


 「ライヒシュタット公と会っていたのね?」


 帰宅したエオリアを、ユスティナ・パディーニが待ち構えていた。

 ポーランド人のこの美女は、ちょくちょく、こうして、シャラメ書店を訪れる。それも、エオリアの父・シャラメのいない時に限って。


 「どうだった、彼は?」

 揶揄するような瞳を向けてくる。


 乱暴に、エオリアは、上着を脱ぎ捨てた。

「あなたには、関係ないわ」

「そうかしら」

「これはね。愛とか恋とか、そういうのとは、違うの」

「じゃ、何なの?」

 ユスティナは首を傾げた。薄暗い店の中で、白い肌が、ぼんやりと浮かび上がって見える。


 埃だらけの書店のなかにいても、彼女は、とても美しかった。

 その美貌の女性が、きっぱりと命じた。

「ライヒシュタット公のことは、もう、あきらめなさい」

ふい、と、エオリアは横を向いた。

「だから、違うと言ったでしょ。そもそも、そんな……。だって……」


「身分が、とか、言わないでね」

きつい目で、睨みすえてくる。

「人はみな、平等なはずでしょ?」


 エオリアは、むっとした。

「あなたは、自分が、彼にふさわしいとでも言うの?」


 色味の薄い、美しい顔に、退廃的な色が浮かんだ。

「私は、彼を、母国ポーランドへ連れて行きたかった」

「ポーランド?」

「ええ。ポーランドは、ナポレオンにより、ワルシャワ公国として、一時は、独立を認められた国よ。ウィーン会議で、ロシアとプロシアに分割された今でも、ポーランドの人々は、ナポレオンに対して、親近感を持っている」

「その話は、聞いたことがあるわ」

「ポーランドこそ、あの方に、ふさわしい国なのよ!」

「違う! 彼は、フランスのものよ」


 負けずに、エオリアは叫び返した。

 ユスティナは、肩を竦めた。


「ナポレオン2世を。ポーランドへ。それで私は、彼を監禁している人間に、彼を解放するよう、手紙を書いたわ」

「誰にですって?」

「家庭教師よ」


 目をつぶり、ユスティナは、諳んじた。


 自然は彼に、天才の刻印を捺した。

 彼には、深い知性と優雅さ、慎ましさ、そして、高貴な心と魅力がある。

 彼は、ニワトリやシチメンチョウの中で育てられた、鷲である。だが、この国の人々は、鷲について、少しも、理解しようとしない。

 それでも、彼の高貴な本来の姿は、決して、破壊されることはないだろう。

 彼が、いつまでも、家禽小屋にいることは許されない。その翼を切り取ることができる者は、この地球上には、存在しないのだ。



 「彼に対する恋心が、ダダ漏れね」

毒気を抜かれた思いで、エオリアはつぶやいた。

「それで?」

「それでとは?」

「お返事は、あったの?」

「なかったわよ、もちろん」

エオリアは笑った。

「なんだ。私達、同じじゃない」

「そうね」


 ユスティナが、ゆっくりと近づいてきた。

 緑の瞳に絡め取られたような気が、エオリアはした。色の薄い金髪が、豊かに波打っている。


「でもね。彼は、フランスにも、行かないわ。お生憎様。待っていても無駄よ。彼は、動かない」

、でしょ。あなたの手紙だって、その家庭教師が握りつぶしたのよ」


 淡い緑色に映った自分自身に向かい、エオリアは言い返した。

 ユスティナは、首を横に振った。


「彼は、公平な人よ。父親ナポレオンの間違いを繰り返さない決意を固めている」

ナポレオン皇帝の間違い? なんてことを!」


「おだまり!」


ぴしゃりと、ユスティアが遮った。

「フランスの民衆が一致して呼ぶのでなければ、そして、オーストリアを始め、同盟国の賛成が得られなければ、彼は決して、フランスへは行かないでしょう」


「ローマ王が公平で、賢明であることについては、異論はないわ」

 そこは、エオリアも、反論する気はなかった。


 ユスティナは、ため息をついた。

「あなたは、ちっともわかってない。これだから、フランス人は!」

「なんですって!?」

「あのね。そんな完璧なお膳立てが、フランス側に、用意できると思う?」

「……」


 できるわけがない、と、エオリアにもわかっていた。


 7月革命においてさえ、民衆は、ブルボン王朝を倒すことしか考えていなかった。

 王政復古の横暴を跳ね除ける為に。

 食卓に、パンを乗せる為に。

 そして、ロシアをはじめ、同盟国に至っては、ナポレオンの存在を打ち消すことに躍起だ。


 「大きな賭けは、」

ゆっくりと、ユスティナが近づいてくる。圧倒的な圧力を、エオリアは感じた。

「場当たり的ないい加減さがなければ、成就しないものよ。そもそも、ナポレオンだって、そうだったでしょう? 自分の都合に合わせて、法律を変えるなど、その最たるものだわ」

「……」


「考え込んだら、ダメなの。立ち止まって考えていたら、何もできない。理屈じゃないの」

「でも、ローマ王を、この国オーストリアのプリンスを、そんないい加減な、その上、危険な所へやるわけにはいかないわ!」


「そうよ。彼を傷つけるわけにはいかない」

力強く、ユスティナは頷いた。

「彼の出番は、まだ先よ。今はその為の、素地を作らなければ」

「素地?」

「ねえ、エオリア」

ユスティナが立ち上がった。

「私と一緒に、ポーランドへ行かない?」


 ゆっくりと近づいてくる。強い風が、彼女のいる方から吹いてくるのを、エオリアは全身で、感じた。


 優しく、けれど、ひどく真面目な顔で、ユスティナは微笑んだ。

「私と一緒に、戦いましょう」


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