ローマ王と、ボート



 ドナウは、満々と青い水を湛えていた。


 「……君」

何度か言いかけては止め、ついに、フランソワが口にした。

「君、ボートが、後ろ向きに進んでいるようだが」


「これでいいんです」

微笑んで、エオリアは答えた。

 ……上手に微笑むことができた?

 ……私の顔、引き攣ってなかったかな。彼の目に、可愛らしく映ったかしら。


「しかし……」

美しいプリンスの顔に、当惑が浮かんでいた。

「普通は、漕ぎ手の向いている方へ進むもんだろ? このボートは、君の後ろへ向かって進んでいる」


 確かに、他のボートとは逆の方向に、二人の乗った小舟は進んでいた。

 時折、岸辺から、揶揄するような船乗りたちの声が飛んでくる。

 若い娘の漕ぎ手が珍しいのだろう。


 フランソワは、居心地が悪そうだった。

 励ますように、エオリアは、にっこりと笑ってみせた。

「大丈夫です! 私に漕ぎ方を教えてくれた人が、こういう風な漕ぎ方しかできなかったんです」


 その拍子に、ボートが大きく揺れた。

 フランソワは無言で、ボートのへりにしがみついた。


 ……ローマ王と、ボート。

 ……ローマ王と、二人きりで。

 ともすると、エオリアは、我を忘れて叫びたくなる。

 ……なんて、幸せ!


 だが、自分の分を弁えなければならない。

 何にしてもこの方は、フランス帝国の、唯一の正統な後継者、ナポレオン2世なのだから。

 自分は、彼の、一介の下僕にすぎないのだ。

 それでも、もし……。


「あの。殿下」

大きくオールを動かしながら、さり気なく、エオリアは口にした。

「殿下には、このようなところに、ご一緒するような方が、いらっしゃいますの?」

「このようなところ? ドナウ川の真ん中か?」

「いいえ。えと、その、劇場ですとか、音楽ホール、プラーター公園、城壁広場……」


「いるよ」

 あっさりと、フランソワは答えた。

 エオリアに向き直る。

「まず、第一に、パルマ大公女だろ。それから、ゾフィー大公妃。皇妃様のことも、嫌いじゃない」

 母と叔母と祖母だ。


「ええと、殿下。そういう意味ではなく……」

「わかってる。君が一生懸命なので、からかってみただけだ」

「え?」

「意地悪をしたんだよ。だって君は、エミールのことを、僕に話した。だから、僕は、あいつを信用できなくなった。……いや。でもそれは、君のせいじゃない」


最後の言葉は、ひとり言のように、宙に消えた。


「エミール?」


 フランスで、ユゴーと一緒に活動してるボナパルニストだ。

 エミールはかつて、ローマ王の、付き人だった。彼が幼い頃の、唯一の、遊び友達だった。

 そういえばエオリアは、エミールのことを、ローマ王に話したことがあった……。


 きっぱりと、フランソワが断じた。

「エミールからの伝言を、ずっと僕に黙っていた、あいつが悪い。それは、間違いない」


 彼が誰のことを言っているのか、エオリアには、すぐにわかった。

「アシュラ・シャイタンですね?」

「そうだ。あいつは、当然しなければならない報告を、怠ったのだ。だから僕は、エミールからの伝言を、君から聞かねばならなかった」


 目の青さが深みを帯びた。何かを後悔しているように、エオリアには見えた。

 ……私が、話したから?

 ……エミールのことを、殿下に。

 ……だから、アシュラは、彼の不興を買って……?

 ……私のせいで、アシュラは、殿下に疎まれた?

 思わずエオリアは、息を呑んだ。


 きっ、と、フランソワの目が、エオリアに据えられた。

「君、あの男と、連絡を取っているのだろう? だったら、伝えてくれ。……強情を張ってないで、とっとと帰ってこい。そして、軍に入れ、って」


「アシュラは、軍隊にだけは、入らないと思いますが……」

恐る恐るエオリアは答えた。

「彼は、規則規律とか、上下関係とか、厳しい訓練とか、そういうのには、我慢がならないんです」


「なるほど。恋人だけあってよくわかっているな」



 ……僕が帰ってくるまで、待っていてくれないか。

 不意に、最後に会った時のアシュラの声が、エオリアの耳元に蘇った。

 戸惑い、自信を失い、揺らいだ声だった。

……君の気持ちはよくわかっているつもりだ。それは、気高い犠牲だと、思う。でも、もし、万が一……、君が傷つくようなことがあったら、思い出して欲しい。……僕が、君を受け止める。


 あの時は、意味がわからなかった。

 気高い犠牲?

 自分が傷つく?

 それに、なぜ、アシュラを待たなければならないのか。

 世界はこんなにも美しいというのに。


 ……恋人? アシュラの?

 ……私が!?

 ああそうか、と、エオリアは思った。白と黒だけだった世界に、急に、色が差し込んだようだった。

 彼女は、全てを理解した。


 理解はしたが……

 ……愕然とした。



 一方、フランソワは、すっかり、機嫌が良くなっていた。

「規律を守れないんじゃ、アシュラに、軍務は無理だな。じゃ、こうしよう。皿洗いでも掃除係でも、なんでもいい。ライヒシュタット家うちで雇ってやる。あいつは、僕の赴任地へついてくるだけでいい。雑用をしにね!」

嬉しそうに笑った。

「副官は、決めた人がいるんだ。とても素晴らしい、尊敬できる人だ。それに、どうせあいつには、雑用くらいしかできないだろうから」

「……」


「もちろん、アシュラがやる気を出して、軍に入りたいというのなら、考えてやってもいい。あいつに、それだけの覇気があるというなら」

「……」

「君、聞いてるか?」


 長身の貴公子が、見下ろしていた。

 外からの光で、金色の髪が、輝いている。揉み上げの、長く伸びた産毛が絡み合って、もうすぐ髭になろうとしていた。

 ひどく威圧的に、エオリアには、感じられた。


 ふいに、その顔が曇った。

「世界は今、大きく動いている。自分のいるところが、ある日、突然、戦場になることだって、充分、ありうるんだ。その時、あのボンクラが、どうなるかと思うと……」


「心配、ですか?」

掠れた声で、エオリアは尋ねた。


「心配? まあ、あいつは、ずる賢いからな。自分の身くらい、なんとかするだろうよ。だが、ずっそばにいると、大口を叩いたんだ。僕のために、もっともっと働いてもらわないと……」


 ぱしゃん。

 エオリアの手から滑り落ちたオールが、水面を強く叩いた。

 反動で、ボートが大きく傾ぐ。


「……そろそろ戻ろう」

傾いていた船が真っ直ぐに戻ると、フランソワが持ちかけた。

「君のその漕ぎ方では、軍の渡河訓練の、参考にならない。かえって、恥をかきそうな気がする」


「アシュラが教えたんです、これ」

そう答えたのは、エオリアの、せめてもの矜持だった。







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