いつ愛人と密会するか

 妊娠中も、新婚初期と同じく、幸せのうちに過ぎ去った。ナポレオンは常に、マリー・ルイーゼと同じ屋根の下に就寝した。

 もしその状態を、幸せというのなら。

 が、少なくとも、民は、幸せだった。フランスが戦闘に参加することがなかったからだ。





 妊娠初期、マリー・ルイーゼは、緑深い、サン・クルーの宮殿にいた。

 彼女は、赤ちゃんは母乳で育てたいと言って、周りを呆れさせた。

 オーストリア宮廷では、それが当たり前だったのだ。母子の愛情が強まるとか、免疫強化とかいった考えからではない。

 子沢山のオーストリア宮廷は、とにかく物入りだった。乳母など雇わず、出るものは使え、という家風だったのだ。

 周りのレディたちや、ナポレオン本人からも止められ、彼女はあっさりとこの計画を放棄した。





 ナポレオンが彼女を、妊娠がわかってからも、しばらくの間、サン・クルーに留め置いたのには、理由があった。

 この時期、彼はこっそり、マリア・ワレフスカ母子を、パリに呼んでいた。

 息子のアレクサンドル・ワレフスキは、その年の5月に生まれたばかりだ。

 ナポレオンの血を引く、男の子である。

 ナポレオンに妻を差し出すことにより、愛国的寝取られ男コキュとなった、夫のワレフスキ伯爵の子として育てられている。



 ナポレオンは子どもを抱き上げ、頬ずりをした。


 「ほら、貴方にそっくり」

控えめに、マリアは言った。

 ……この子は、フランス皇帝の息子なのに。今、まさに生まれようとしている赤子よりも、先に誕生したというのに。

 理不尽だと思った。我が子への哀れみと愛情が、潮のように胸に満ちていく。

 だが、彼女は、泣き言めいたことは言わなかった。


 「ご主人は、お前たちに、よくしてくれるか?」

気遣わしげにナポレオンが尋ねた。マリアは頷いた。

 46歳上の夫との結婚は、すでに形だけのものに成り果てていた。だがそれは、夫の年齢を考えれば仕方のないことだろう。最初から、愛のない結婚だった。


 ナポレオンは優しく、彼女を見つめた。

「お前は、優しく我慢強い、素晴らしい女性だ。お前に嫌な思いをさせられたことは、一度もない。私はお前を、本当に愛しているのだよ」

 そう言って、抱きしめた。

 マリアの頬に、涙が伝った。





 出産は、テュイルリー宮で、というのが、ナポレオンの強い意向だった。今回も典礼プロトコルが重視されていた。出産は、旧王家の正宮殿で行うべきだというのだ。

 しかし、ブルボン家の王で、テュイルリーで生まれたものはいない。ナポレオンにとっては、正宮殿で、ということが、大事らしかった。


 11月、マリー・ルイーゼは、テュイルリー宮に移された。彼女はこの古めかしい宮殿が好きではなかったが、仕方がなかった。

 お腹はもう、だいぶ大きくなっていた。彼女は、絵を描いたり、読書をしたりして過ごした。

 彼女の無聊を慰めるため、ナポレオンは、大勢のレディーたちを呼び集めた。宮殿は、ちょっとしたハーレムのようになった。





 マリー・ルイーゼから、赤ん坊は男女どちらかとしつこく聞かれ、妊娠前からの主治医、コルヴィサール医師は首を傾げた。

「そうですね。男児妊娠の場合は、母親の顔はきつくなると申します。皇妃様の場合は、穏やかなお優しいお顔をしておられます」

マリー・ルイーゼの表情が曇った。

「それから、失礼ながら、皇妃様のお腹は、横に広がっているようにお見受け致します。男児ご懐妊の場合は、前に突き出るものでございます」




 「よいよい。無事に生まれれば男でも女でも。またすぐ次を、孕めばよいではないか」

 マリー・ルイーゼからこの話を聞かされ、ナポレオンは慌てた。

 女児だからといって、父から顧みられないのはかわいそうだと、妻が泣いていたからだ。

「なら、女の子の名前も考えておこう。ヴェネツィア姫。これでよかろう?」


 すぐにナポレオンは、儀典砲兵隊司令官を呼んだ。

 そして、王子誕生なら101発の礼砲を、王女の場合は21発の礼砲を鳴らすよう、命じた。

 古くから続くヨーロッパの王家には、そういう典礼(プロトコル)があったからだ。





 胎児の性別どころではなかった。コルヴィサール医師は、途方に暮れていた。

 皇妃が、やたら、歩き回るのだ。

 こんなことは、妊娠中の貴婦人として、コルヴィサールは、聞いたことが無い。


 「普段通りに生活しなさいって、お父様がお手紙を下さったわ」

困惑する医師に、マリー・ルイーゼは告げた。


 ……オーストリア皇帝というのは、そんなことまで、娘に言ってくるのか。

 コルヴィサールは呆れた。

 マリー・ルイーゼの母は、10人を超える子を産んだ後、産褥で亡くなっている。父の皇帝は、異国で妊娠中の娘が、心配でならないのだろう。


「ですが、すでにお腹が大きくなっていらして、バランスが悪く、危のうございます。もし、お転びなさったりしたら……」


 ……自分が皇帝から、どのような目に遭わされることか……。

 医師は危惧した。管理不行き届きで、激しく糾弾されることは、間違いない。投獄され、身分を剥奪されるかもしれない!


 「大丈夫よ。激しい運動はしないから。それは気をつけなさいって、お父様が」

平然と、マリー・ルイーゼは答えた。

 腹を突き出した、その堂々たる姿に、コルヴィサール医師は、多産の家柄の貫禄を見た思いがした。



 だが、さすがに、皇妃が歩き回っている、などと、皇帝に知らせるわけにはいかない。

 その上、どこへ行ったのか(もちろんナポレオンは、ポーランド人の愛人の元にいたのだが)、皇帝の所在が知れないことも、しばしばあった。


 逡巡しているうちに、彼は、皇帝から呼ばれ、大目玉を食った。

 「最初に一度報告があったきり、何の報告もないのはどうしたことか。何か恐ろしい、破滅的なことが起きたのではないかと、どんなに心配だったことか!」


 それでも、動き回る皇妃のことを報告する勇気は、コルヴィサール医師にはなかった。

 ……妊娠は、病気じゃない。普通のことだ。それなのに皇帝は、ひどく怯えていらっしゃる。

 嘲りの混じった気持ちで、コルヴィサールはそう思った。

 庶民、いや、犬や猫でさえ、なんでもない顔をして、お産をするではないか。


 無表情となってしまった彼の前で、皇帝は、皇妃と、医師自身との仲を疑いそうな勢いだった。実際、彼女が妊娠も終盤でなかったら、そうしたろう。


 コルヴィサール医師は、ほうほうの態で、皇帝のもとを逃げ出した。

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