ナポレオン2世 ライヒシュタット公
せりもも
1 ローマ王/パルマ小公子
邪悪なナポレオン
主人公の親の代から書き起こすのは、まじめな作者だと、スタンダールは言う。
まじめが悪いことだと思わない。実在の人物を描く以上、最大限の敬意と誠意が必要だ。
だが、本当のところ、主人公の両親……特に父親……については、章を割きたくなかった。
あまりに俗物で傲岸。自信に満ち溢れ、向かうところ敵なしとばかりに大陸を走破する「英雄」。しかも、必ず勝利をもぎ取るのだ。
ある時点までは。
そして腹の立つことに、落ちぶれ、
その人気は、世界的だ。没して200年近く経つが、未だにその名は、様々な商品に冠され、プレミアムを主張する。極東の外れの島国の子どもたちでさえ、歴史の授業で、その名を頭に叩き込まれる。
したがって、我らが主人公の場合、「親」を無視して、話を進めることはできない。また、タイトルに親の名前を利用することは(それは、彼のファーストネームでもあるのだけれど!)、この小説の時代背景を瞬時に伝える、最も有効な手段だと判断せざるを得なかった。
不本意ながら。まことに不本意ながら。
このような親を持ったら、子どもは迷惑である。成功すれば七光と言われる。違う道を歩もうとするなら、グレて家を出るくらいしか、その影から逃れることはできない。
だが、彼は、生涯、父に尊敬と憧れを捧げ続けた。
幼少期に父と別れた彼は、父と敵対する環境の中、脳裏に残る教えを忠実に守り通した。偉大な英雄の息子として、恥ずかしくない道を進むことだけが、彼の望みだった。
為に、命を縮めた。
これは、ナポレオン2世、ライヒシュタット公フランソワ・シャルル・ジョセフを主役に据えた、おそらくは日本で初めての物語である。
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*
1809年
「お姉さま、虫! 柱に、ほら、虫がいっぱい跳ねてる!」
12歳の妹、レオポルディーネが叫んだ。
6つ年上の姉、マリー・ルイーゼはそれが、4年前に、やはり同じように敵から逃げ回っていた時に苦しめられた虫と同じであることに気がついた。
敵は、彼女らの父である皇帝を苦しめ、戦乱の中で、実母は没した。
姉妹が首都ウィーンの宮殿を逃れ、馬車で逃げ惑うのは、これで二度目である。
すでに4年前、彼女はその虫に、憎い悪魔、敵の大将の名をつけていた。
……また、同じ虫が。
農家の中庭に建つ、殆ど納屋のような建物の中である。
ここに、オーストリア皇帝フランツの3人目の年若い妻マリア・ルドヴィカと、たくさんの子どもたちは、今夜の宿を求めていた。
今回もまた、追われるように、馬車でウィーンを離れた。前回と同じく、連ねられた馬車には、絶対に敵に奪われてはならぬ財宝が積まれていた。ハプスブルク家の権威を象徴する神宝である。
途中、雨が振り、どしゃぶりとなった。泥にぬかるんだ悪路をのろのろと蛇行し、皇妃……マリー・ルイーゼより4つ年上の義母……は、耐えられないほど気分が悪くなってしまった。
ようやっとブダ(ハンガリー)の宮殿にたどり着いたのだが、奇襲を得意とする敵に、戦況は悪化するばかりだった。
皇帝の家族は、今度は二手に別れ、ブダの宮殿を逃げ出した。そこから先はもう、まともな宿にありつくことはできなかった。
今、北に逃げた辺りで、継母と子ども達はようやく合流したばかりである。
無理な行程が祟って、継母のマリア・ルドヴィカは、寝込んでしまっていた。
「虫! 虫!」
2つ下の弟、フェルディナンドが叫んだ。
「虫! ぎゃーーーーーっ!」
甲高い叫び声が響き渡る。
かわいそうな弟は、癲癇を病んでいた。普段はいい子なのだが、ひとたび恐慌状態に陥ると、姉妹たちの手には負えない。
……この虫が。いやなこの虫のせいで……。
17歳のマリー・ルイーゼは唇を噛み締めた。フェルディナンドの叫び声は、どんどんひどくなる。ガラスをひっかくようなその叫び声を聞いていると、頭が痛くなりそうだ。できることなら、この場は妹に任せ、その場を立ち去りたいくらいだった。
だが、マリー・ルイーゼは、オーストリア皇帝フランツの、長女だった。
実母が亡くなってからは、病弱な継母を支え、事実上、ファーストレディとして、父の皇帝を支えている。
今回の道行きも、車酔いで殆ど意識のない義母を、自身がまるで母親のような繊細な気配りで見守ってきた。
もともと、皇妃とマリー・ルイーゼは、親しい間柄だった。父である皇帝に彼女を紹介したのは、マリー・ルイーゼであるといっても過言ではないくらいだった。
そして、マリー・ルイーゼには経験があった。年の近い義母と違って、逃避行は、これで二度目だったのだから。
虫ごときで騒ぎ立てるわけにはいかなかった。
「前にもいた虫ね」
落ち着き払って彼女は答えた。
レオポルディーネは首を傾げた。6つ年下の妹は、幼すぎて記憶がないのかもしれない。
今回の逃避行でも、彼女はさんざんだった。つい先日も、寝ていたベッドが壊れた。生まれて始めて床に投げ出された彼女は、兄のフェルディナンドをしのぐ大声で泣き喚いた。
余裕を感じさせるよう願いながら、マリー・ルイーゼは続けた。
「その虫は、噛み付くの。悪い虫よ。『ナポレオン』というの」
「ナポレオン……」
妹の目が、大きく見開かれた。恐怖で揺れている。
励ますように、姉は頷いた。
「そうよ。憎い憎いナポレオンよ」
マリー・ルイーゼは、大きな石を取り上げた。
どうして室内に石があるのか、全くわからなかった。多分、下々の者の家とは、そうしたものなのだろう。
「いい。見てるのよ」
石を振り上げた。
気持ち悪いと思った。石を打ち付けたら、虫は死ぬのか。
だが、躊躇している場合ではなかった。彼女は、フランツ帝自慢の、長女なのだ。今は、病弱な義母に代わって、幼い弟や妹たちを守り抜かねばならない。
「この、ナポレオンめ!」
マリー・ルイーゼは叫ぶなり、力いっぱい、柱を打ち据えた。
虫は柱に埋め込められ、木くずが散った。
「ナポレオン! 憎いナポレオンめ!」
力を振り絞り、さらに何度か叩きつける。
「お姉さま……」
尊敬のまなざしで、レオポルディーネは姉を見た。
弟は、いつの間にか叫ぶことをやめていた。目を輝かせ、彼は、別の石を拾った。両手でしっかりと握りしめている。
マリー・ルイーゼを押しのけ、力任せに柱を叩き始めた。
「そうよ、フェルディナンド。あなたは、次の皇帝なんだから、敵をやっつけないといけないわ!」
重度の癲癇の弟に、偉大なる父・フランツの跡が継げるかどうかは疑問だった。だが、とにかくナポレオンと名付けたものに負けるわけにはいかない。
「私もやる!」
レオポルディーネも石を拾った。
「ナポレオン! ナポレオン!」
柱の、兄の下の辺りを、叩き始める。
「絶対逃しちゃダメよ。一緒に戦いましょう」
大きな石を握り直し、マリー・ルイーゼは叫んだ。
「ナポレオン! この、気持ちの悪い、邪悪な虫め!」
姉弟は、力を合わせ、悪鬼「ナポレオン」に立ち向かっていった。
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