プロケシュの捧げた友情


 「少佐!」

 プロケシュの姿を見るなり、プリンスは、顔を輝かせた。子鹿にも似た、踊るような足取りで、近づいてくる。


 彼は、わくわくしているようにさえ、見えた。いたずらの作戦を練り上げたばかりの、子どものようだ。大喜びで、自分の考えアイディアを、訪ねてきた友達に伝えようとしている……。


「あれから、再び、彼女からの伝言が来たのです。それで僕は、手紙の件を、オベナウス先生に打ち明けました。オベナウス先生から、ディートリヒシュタイン先生に話が行って……」

 プロケシュが帰ってからのことを、細かく物語った。


 プロケシュにも、報告があった。

「お言いつけ通り、3通目の手紙は、暖炉で焼きました。あなたがお書きになったお返事は、極秘に、オベナウス先生の召使いに託しました」

「ありがとう、プロケシュ少佐」



 焼き捨てる前に、自分が手紙の写しを取ったことを、プロケシュは、言わなかった。

 プロケシュは……、やはりどうしても、彼は、記録する人間ジャーナリストだった。書かずには、いられないのだ。

 ……いつの日か。きっと。

 ……プリンスのことを、書く日が来る。



 プリンスの顔に、瑞々しい、感謝の色が浮かんだ。

「貴方にお願いして良かった。だって、僕には、手紙を焼く勇気はありませんでしたから。もし、彼女が、本当に、父の……僕の、親戚だったと考えると!」


 たまらなかった。

 プリンスの肩を、プロケシュは両手でしっかりと抑えた。

 いきなり、問いかけた。


「プリンス。あの女性に、会いたいですか?」

「え……?」


 プロケシュの言ったことが理解できなかったのか。怪訝そうに、彼は、首を傾げた。


 プロケシュは、明快に告げた。

「彼女は、ナポレオンの姪でした。血を分けた、あなたの従姉です。あなたは、彼女に、会いたいですか?」



 彼女が本当にナポレオンの姪だと、プリンスに教える必要はない。ディートリヒシュタインは、プロケシュに禁じた。また、メッテルニヒは、ナポレオンの兄弟から来た手紙を、彼に内緒にしているという。


 プロケシュには、できなかった。

 自分を信じて、全てを打ち明けてくれる年少の友……。

 その彼に、不実であることが。

 その程度には、自分は、誠実であるつもりだった。



「……」

青い目が、大きく見開かれた。

「ディートリヒシュタイン先生は……お兄さんの侯爵まで……教えてくれなかった!」


「秘密警察のセドルニツキからの情報です。彼女は、ナポレオンの妹、かつてのトスカーナ女公、エリザ・バチョッキの娘で、間違いありません」

「ナポレオーネというのは……」

「本名です。彼女は、本名で、入国してきたのです」

「……」


 プリンスが、懸命に考えているのが、伝わってくる。

 希望と。夢と。血の絆と。

 義務と。感謝と。そしてやっぱり、血の絆と。


 揺らぎ、惑い、やがてプリンスは答えた。

「会えません」


「なぜ!」

思わずプロケシュは大声を出した。

「彼女は、あなたが初めて会う、父方の親戚なんですよ!」


「……『誰も、信じてはいけません。断じて! 自分だけを信じて下さい』」

プリンスは、手紙の一節を諳んじた。

「それなのに僕は、自分一人で考えることができなかった。あなたに、話した」

「プリンス……」


 ……自分のせい?

 思わずプロケシュは、息を呑んだ。


 プリンスは、プロケシュの手を掴んだ。

「いいえ、プロケシュ少佐。あなたはいいのです。あなたは、僕の親友だから」


「……親友」

その言葉は、重かった。プロケシュには、重すぎた。


 何の衒いもなく、プリンスは頷いた。

「ええ。友と友の間には、薄い膜ほどの壁も、ありません。二人の間には、どのような些細な秘密も存在しないのです。だから僕は、あなたに、打ち明けました」

「……」

「でも、次の手紙が来て……僕は、オベナウス先生にも知らせてしまった。そして、オベナウス先生から、ディートリヒシュタイン先生にも……」

「あんな手紙を立て続けにもらったら、誰だて、途方にくれますよ! 誰かに相談したくなって当然です!」


 その瞬間、プロケシュは、是が非でも、彼の味方になりたいと切望した。

 たとえ自分を危険に晒すことがあったとしても。


 おずおずと、プリンスが問いかけた。

「……あの。従姉は、大丈夫でしょうか? 僕が、秘密を守れなかったばかりに……。もしや、ディートリヒシュタイン先生が!?」


 自分の言葉にぞっとしたのか。一瞬で、その顔が、蒼白になった。


「大丈夫です。先生方は、彼女の味方です。彼女の身に、危険はありません」

 ディートリヒシュタインに彼女を辱めるつもりはなく、秘密警察が、強制退去までに3週間の余裕をおいていることを、プロケシュは話した。


 プリンスは、詰めていた息を吐き出した。蒼白の顔に、少しだけ、血の色が戻った。

 プロケシュは、なおも、問いかけた。


「時間と場所は、こちらから指定できます。オベナウス先生の召使いを使者に立てればいい。行きますか? 彼女の元へ」

「今行けば、家庭教師の先生方に、ご迷惑をかけてしまう」

「あの先生方なら、自分の身に降り掛かった火の粉くらい、払えます!」


 プロケシュが言うと、プリンスは、一瞬、おかしそうな顔をした。


 この方は、本当にお若く、汚れがないのだと、改めて、プロケシュは感じた。

 プリンスの目に映る世界は、新鮮で、輝きを帯びている。世界の全てが、彼に、生き生きとした感情を呼び起こさずには、いられない……。


 だが、すぐに、彼の微笑は消えた。

「フランス王に即位してほしいというのは、彼女個人の……あるいは、ボナパルト家だけの、希望です。フランス人民の望みではない。フランスには今、ルイ・フィリップという、同盟国に認められた王がいる。これ以上の混乱を彼の国に与えることを、僕は、望みません」


「親戚に会うくらい、いいじゃないですか!」

 なおもプロケシュは喰い下がった。

 それは、下々の者には、造作もないことだった。

 少なくとも、このウィーンでは。

 プリンスにも、従姉に会いたいという気持ちは強いはずだ。

 なんにしても彼女は、幼い頃、フランスを出てから、初めて会う、父方の親戚なのだ。


「彼女ははるばる、イタリアから、あなたに会いに来たのですよ!」

「しかし、僕には、監視が……」


 プロケシュは、愕然とした。

 ……彼にとって、最も身近な家庭教師でさえ、彼より国家を優先すると、今まさに、自分は見てきたばかりじゃないか!


 「……あいつなら、知らん顔をして付いてきたろうに。そして、無能なふりをして、上には報告しないだろうに」

微かな声がつぶやいた。

 思わず、プロケシュは問い返した。

「あいつ?」

「いいえ、なんでもありません。あいつはもう、いないのだから。いない者のことを話しても、しようがありません」


 なんのことか、さっぱりわからなかった。プロケシュは、現実的な思考に戻った。

「監視を巻くのは、難しいでしょうね……」

 下手をすれば、ナポレオーネの逮捕という、最悪の事態にもなりかねない。

「しかし、二人で知恵を絞れば……」


 だが、プリンスは首を横に振った。

「あのね、少佐。ダメです。僕は、宿題ができていないから」

「宿題ですって?」

「オーストリアの公爵か。フランスの王子か。そんなこと、今の僕には決められない」


 プロケシュは、ぐっと言葉に詰まった。


 それと、プリンス。もう一つ、教えて下さい。

 貴方は、オーストリアの公爵ですか?

 それとも、フランスのプリンス?

 ナポレオーネは、挑発的に問うていた。



 ……オーストリアの公爵としても、フランスの王子としても、あなたのお手紙に返事を書けない。

 手紙の返事にそう書くことを、プロケシュは、彼に勧めた……。



 ますます気後れした風に、プリンスは、プロケシュの耳に、顔を寄せた。殆ど聞き取れないくらいの声で、囁いた。

「それにね。僕は彼女に会わせる顔がないです。だって僕は、彼女に、失礼な手紙を書いてしまった」

「違います!」


 手紙の大半は、プロケシュが口述したものだ。どちらかというと、女性に対する無礼な表現に、プリンスは戸惑っていた。

 だが、署名は確かに、プリンスのものだった。


「それなら……」

 ……償いを。


 必死で、プロケシュは考えた。


「それなら私が、お詫びに赴きましょう。プリンス、貴方の代わりに」


 憂愁に沈んでいたプリンスの顔が、ぱっと輝いた。

「プロケシュ少佐!」

「できる限り、誠実に話してきます。プリンス。あなたの代わりに!」


 自分にとって、危険な行為だということは、プロケシュにはわかっていた。

 ことが露見すれば、積み上げてきた軍人としての実績も、外交官としての経験も、全て、潰えるだろう。最悪の場合は、国家に対する反逆罪として逮捕されるかもしれない。この国に、いられなくなるかもしれない。


 それでも構わないと、プロケシュは思った。


 このプリンスの本当の姿を、ナポレオンの親戚に知ってもらう為なら、自分は、何だってやるだろう。




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