6 軍服と恋
キリストの犠牲 1
双頭の鷲が、黒い二枚の羽を広げている下を、着飾った男女が、流れるように入ってくる。
宮廷劇場は、賑わいを見せていた。
夜の部の上演は、シラーの戯曲だった。
その男は、フランスから来た。ウィーン滞在期間が、終わろうとしてる今、旅の土産にと、宮廷劇場を訪れた。奮発して桟敷席を借り、詰め物でぱんぱんに膨らんだ椅子の上で、尊大に、ふんぞり返っている。
ドイツ語がわからないわけではない。だが彼は、いまひとつ、楽しめないでいた。
フランスに比べ、俳優たちの演技は、ひどく抑え気味だった。劇が盛り上がっても、叫び声を上げるでもなく、派手なスタントもない。感情表現に乏しいとさえいえた。ドイツの劇は、明快さを欠く、と、彼は思った。
また、劇場の照明が、パリのようにきらびやかなシャンデリアでないのも、気に入らなかった。ホール全体が薄暗く、陰気だ。
皇族たちは、ひっそりとやってきて、ひっそりと退出していく。まるで、影のようだった。フランスの王族は、もっと堂々と、出入りする。もちろん、観客からの歓声には、手を振って応える。まるで、劇の一部のような、華麗さだ。
彼の席は、皇族のボックスと同じ階だった。ホールは丸く湾曲しているので、舞台から目をそらせば、皇族席がよく見える。
皇族席の前列には、椅子が数脚置かれ、背後に、厚いカーテン引かれていた。そのせいか、皇族のボックス席は、ひどく暗かった。
幾人かの皇族が、観劇中だった。皇帝の姿も見えた。皇帝は、時折、耳障りな咳をしていた。ひどく老いて、疲れているように、男の目には映った。
第三幕に差し掛かった時だった。皇族ボックスの、背後のカーテンが揺れた。遅れてきた皇族が到着したのだろう。カーテンの隙間から、外部の光が差し込んだ。
舞台に飽き飽きしていた男は、その明かりに、注意を向けた。
誰かが、桟敷席へ出てきた。ほっそりとしたシルエットが浮かび上がる。まるで、白い体が、闇の中から、生まれてきたようだった。影は、ほのかな光に照らされ、まるで、レンブラントの絵画から抜け出た幻だ。
細い腰、広い額、そして、金色に輝く髪。その目は、感情をどこかに置き去りにしてきたように、悲しげだった。体はこわばり、光の加減か、唇が緑色に見えた。
影は、生が、死の手に囚われた瞬間を封じ込めたように、青ざめていた。
男には、わかった。
これは、ライヒシュタット公だ。
ナポレオン2世なのだ!
**
遡ること数週間前(1829年、年明け)。
フランスの詩人、オーギュスト・マルセイユ・バーセレミーは、意気揚々と、ウィーンの街へ、その第一歩を踏み入れた。
着いてすぐ、彼は、ウィーンの役所を訪れ、1ヶ月の滞在許可を願い出た。バーセレミーには前科もなく、秘密警察のブラックリストにも載っていなかったので、何事もなく受理された。
バーセレミーは、熱烈なナポレオン支持者だった。彼は、『エジプトのナポレオン』という詩集を編み、自著を、一冊、携えてきた。
もちろん、ナポレオン2世に献呈する為だ。
数日後。
文学仲間の紹介で、彼は、ディートリヒシュタイン伯爵との面会する機会を得た。
ディートリヒシュタイン伯爵は、ナポレオン2世、ライヒシュタット公の家庭教師である。
意気揚々と、詩人は、ディートリヒシュタイン伯爵を訪ねた。
「遠い国から、ようこそ」
ディートリヒシュタインは、落ち着いた雰囲気の、上品な紳士だった。思いやりのある、共感に満ちた態度で、バーセレミーを出迎えた。
「私は、文学というもの、それに携わる詩人という存在を、心から尊敬しています」
ウィーンの宮廷歌劇場の支配人でもある伯爵にこう言われ、バーセレミーは、すっかり舞い上がってしまった。
最初に、学のあるところを見せねばならぬと、33歳の詩人は思った。
「ライヒシュタット公とフランスの、ボルドー公(アンリ。今の王、シャルル10世の孫で、マリー・テレーズが養育している甥)には、見過ごすことのできない共通点があります」
「ほう。それは?」
ディートリヒシュタインは、興味深そうに、身を乗り出した。
「イタリアからの血の流れです」
具体的には、
女帝、マリア・テレジアとフランツ1世の娘、マリア・カロリーナである。
マリー・アントワネットの姉である彼女は、ナポリとシチリアの王、フェルディナンドに嫁いだ。政治に興味のない夫に代わり、実際の政権を握った。
「ライヒシュタット公の祖父君……我らが皇帝は、
落ち着いた声で、ディートリヒシュタインが答えた。
我が意を得たりとばかり、バーセルミーは声を張り上げた。
「ボルドー公の祖母も、オーストリア皇帝と同じく、
「そうですな」
愛想よく、ディートリヒシュタイン伯爵は頷いた。
……よし。
バーセレミーは思った。もう一歩、踏み出すことにした。
「つまり、ライヒシュタット公とボルドー公は、同胞なのです」
「確かに、ボルドー公にも、ハプスブルク家の血が流れておりますな」
穏やかに、ディートリヒシュタインは、
バーセルミーの主張に、それほど感銘を受けたようには見えなかった。だが、敬意と礼節を持って、自分と接してくれているのを、バーセレミーは感じた。
これなら大丈夫だと、彼は、判断した。
鞄から、自分の詩集を取り出した。
「私は、フランスから、著書を携えてまいりました。親愛なるライヒシュタット公に、直接お渡しして、捧げたいと思います」
バーセルミーが言い終わるやいなや、ディートリヒシュタインの顔が、激変した。
社交的な表情は霧散した。頬がこわばり、心なしか、顔色が青ざめた。ぴりぴりした雰囲気が伝わってくる。
「本当に、ライヒシュタット公に会うことだけが、目的なのか?」
暫く沈黙した後、低い声で、ディートリヒシュタインは尋ねた。先程までの愛想の良さは、微塵もない。
「誰かが、貴公を差し向けたのではないか?」
「はい?」
「ライヒシュタット公に会う? そのようなことが可能だとお思いか。断じて不可能、許されないことだ」
「何をおっしゃっているのか……」
当惑しきって、バーセルミーは答えた。
「私は、私の一存で、
「彼に会わせるわけにはいかない」
頑として、ディートリヒシュタインは拒絶した。
……この伯爵は、この俺が、ライヒシュタット公にとって危険な人物と繋がりがあることを恐れているのだ。
だが、バーセレミーは、誰かに頼まれてウィーンに来たわけでは、決してない。そもそも彼は、政治的な立場にはない。
真摯に、説得を試みた。
「別に、一対一でお会いしなくていいんです。伯爵、貴方が同席なさればいい。必要なら、10人、20人の同席者がいても構わない」
ディートリヒシュタインは答えなかった。
猜疑に満ちた眼差しで、バーセレミーを睨んでいる。
詩人は、ため息をついた。
「もし私が、一言半句でも、ライヒシュタット公にとって危険なことを口走ったなら……私は、残りの生涯を、オーストリアの牢獄で過ごしても、構いません」
この思い切った申し出に、さすがのディートリヒシュタイン伯爵も、少しだけ、軟化したようだった。
「貴方を疑っているわけではないのだ。ただ、私は、皇帝の命令に逆らうことはできない」
「皇帝の命令?」
「ライヒシュタット公は、外国からの客人と会うことはできない」
「は?」
「それが、皇帝のご意思だ」
……なんと。
詩人は思った。
……公は、情報から、遠ざけられているのだ。
……外の人間が持ち込む、オーストリア宮廷にとって、不都合な情報から。
そう思うと、今まで、ライヒシュタット公が、不思議なくらい、フランスの動きに無反応だったわけが理解できた。
情報遮断。
それが、このウィーンの宮廷で行われている。
乾いた声で、バーセレミーは尋ねた。
「あなた方は、ライヒシュタット公が、来訪者との会話から、真実を知ることを、恐れているのですね? そうやって、あなた方にとって不都合な事実を、彼から覆い隠しているのだ」
伯爵の顔色が、より一層青ざめた。ひどく緊張している。
間違いない、と、詩人は確信した。
「そんなことが、いつまでも続けられるとお思いか。その気になれば、機会は、いつでもある。たとえば……、彼が、散歩をしている時に、紙に書いたメモを手渡す、とか……」
「彼は、我々が、見せたい、聞かせたい、読ませたいと思ったものにしか、触れることはできない」
素っ気ない口調で、伯爵は言い放った。
バーセレミーの背筋に戦慄が走った。
「それじゃ、ちっとも自由じゃないじゃないか! 我々フランス人は、ナポレオンの息子が、そんな風に拘束されているとは、思ってもみなかった!」
「プリンスは、囚人ではない。しかし……」
ゆっくりと、ディートリヒシュタインは続けた。
「彼の立場は、特殊なものなのだ」
「あまりにひどい! それじゃ、ナポレオンの息子は……」
「もう、何もお尋ねなさるな」
ディートリヒシュタインは、詩人の口を衝いて奔流のように溢れ出る言葉を遮った。
「いずれにしろ、貴方にお応えすることはできないのだから。私としてはただ、貴方に、プリンスと会おうなどという気持ちは、捨てて頂きたいと願うだけだ」
……この伯爵も、駒なのか。
唐突に、バーセレミーは悟った。
……皇帝の。いや、
……それなら、せめて……。
足元の鞄を、詩人は探った。
「だが、よもや貴方ご自身は、ライヒシュタット公に、私のこの本を捧げることを、拒絶なさったりはしないでしょう? これは、芸術です。私の本には、危険なことなど、全く、書かれていない」
最初の、自分への態度から、この伯爵が、文芸芸術に対して、深い敬意と愛情を抱いていることを、詩人は、嗅ぎつけたのだ。
ディートリヒシュタインは、ひどく困惑しているようだった。それほど、詩人の申し出を断るのは、苦痛だったらしい。
「まず、貴方がお読みになって下さい、ディートリヒシュタイン伯爵。そうすれば、この本が危険でないと、おわかりになるでしょう」
半ば捨て台詞のように述べて、バーセレミーは、ディートリヒシュタインの元を、立ち去った。
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